08
どこかで見たことがあると思った。
『上さんがさ、子供を産んでからすぐに死んだんだよ』
場所に不釣り合いなほど、とても暗い顔で言っていたから、一度見ただけで顔をすぐに覚えることができた。
『妊娠中に病気にかかってたんだ。医者からも産んでもいいけれど母体の方が耐えられなくて、命を落とすことがある。二人とも助かるということは、可能性としてはかなり低い。むしろゼロに近いって言われていたんだ。けど、上さんけっこう頑固だからさ、聞かなくって………結局子供を産んで出血多量になって、すぐに死んだよ。本当に悲しかったわ』
『それで、どうなさったんですか?』
まだあのお店で働いていた頃、私のところにたまたま来てくれた男性は、安いお酒を飲みながら、自分のことをぽつりぽつりと話してくれた。
『子供には嘘でもいいから両親がちゃんといるって言いたかったんだ。片親なんて可愛そうだって思ってな。とにかく仕事をしながら、何とかして、母親の代わりを探したよ。子連れでもいい、バツがついていてもいいって人を。けれど、世の中うまくいかなくってな』
安い酒をもう一度口にする男性。わいわいと、色と金に目がない人たちが集まる中、その人は暗い過去を思い出すように話してくれた。
『半年以上頑張って探して、やっと見つかって、彼女との間に子供も生まれたんだ…………でも、あいつは子供になんて興味がなかった。俺がもっとしっかりとしていれば、蜜柑は、今だって生きていたんだから』
幸せな家族に囲まれて育っていた私だって、この言葉ではっとした。
おそらくは彼の子供の蜜柑(ミカン)ちゃんは、亡くなったのだろう。原因は、ミカンちゃんを産んだ女性の育児放棄か、あるいは虐待等の、別の何か。
『このことで俺は親戚中から批難の的だったよ。仕事で長期出張中だなんて、わかりやすい嘘をついていたんだろう、子供なんてどうだってよくて、本当はオンナと遊んでいたんだろって。本当につらくて、最初に生まれた子供と生活なんてできなくて。なんの罪滅ぼしにはならないだろうけれど、俺の両親に毎月養育費として一五万を渡してな。これを使ってあいつが幸せになるようにしてくれって』
『じゅうごまんっ?』
思わず驚いて大きな声を出してしまったから、一斉にお店にいる人たちの視線を集めてしまった。慌てて男性の手をとるようにして口を動かす。それで貴方は生活ができていたのですかと言えば、彼は首を横に動かしながら、続けるように言った。
『両親はもう若い連中らのようには働けないし、ましてや母親は持病もちなんだ。もう一度子育てをしてくれなんていったって無理だよ。あの人たちはやる気があっても、現実は金がないとやっていけない。だから毎月お金を送っていたんだ』
手にしていたコップを置いて、ポケットの中に手を入れて、何かを取り出す男性。
あんまりだと、心底思う。私だって決して人のことを言えるような家庭環境ではなかった。父親だって連絡が取れないし、母親に関しては、私を見たとたんに顔を青くし、平手打ちをするぐらいだ。
けれど、ごつごつとした手の甲には、仕事でできたと思わしき怪我がいくつもできていた。きっと、身に合わない仕事ばかりをしていたのだろう。
『これを見てみな』と言われて差し出されたのは、一枚の写真だった。若い男性と、うれしそうに笑う女性の姿。最初、彼の横に笑う女性が誰なのか、まったくわからなかった。
『最初の子供の上さんだよ』
言われてからはっとした。栗色のゆるく巻かれた髪と姉御肌満載のオーラに、歯を出して幸せそうに笑う女性。加えてピースサイン。彼女のおなかが大きいことから、たぶん最初の子供さんがまだお腹にいる頃の写真なのだろうか、ずいぶんと綺麗な人だな、などと考えていた。上さんがな、と男性が口を開いた。
『へっ?』
『上さんがな、言っていたんだ。自分は、もしかしたらあの子の成長を見ることができないかもしれない。だから、せめてもの、私の分まで幸せにしてやってくれって』
あの時の男性を忘れるわけがない。お店に来るほとんどの男性が色に目がない人たちばかりだったのに、あの人だけが随分と暗い顔で、けれど自分の大切な人を幸せそうな顔で話してくれた。普通だったらありえない人として、すぐに覚えることができた。浅木社長も随分と変わった人だったから、他の人たちにはあまり受けがよくなかった。高いお酒をあまり飲むわけでもないし、こちらに何かプレゼントを贈るわけでもないから、と。
逆に、私のような人間からしてみれば、浅木社長や彼のような人はとても好印象的だった。
「…………少年の馬鹿」
ぼろぼろとあふれる涙が止まらなかった。人生で始めて人のほほを叩いた左手が、じんじんと痛む。
勢いよく家を飛び出した少年は、おそらくあの人を追いかけているのだろうと信じたい。
同時に、どうしてまだ若い少年が私の残りの借金三百万もの大金を一度で返済できるかがわかった。小学校から大学まで国公立と、決してお金がかかっていないというわけではないけれど、それでも随分と経済的には余裕のできる少年一人に、月々定期的に一五万もの大金は多すぎる。幼い頃からの一五万の仕送りを、一銭たりとも手をつけていないともすれば、なおのこと、相当な金額。
「馬鹿、少年の馬鹿」
壁に寄りかかってぼろぼろと年甲斐もなく泣く私。
よかった。話をすれば少年が慌てて家を飛び出してくれて。こんな姿、少年に見られたくなかったから。
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