05



 「垣本先輩、終わりました。確認をお願いします」
 あと三行で終わるところだった。ラスト一件の、あと三行で終わるところだったのに、今年入った幅広い意味での期待の新人が、書類を僕の所に持ってきては言った。
 「………ああ、わかった」
 「お願いします」
 しっかりと両手で渡した、幅広い意味での期待の新人は、自分の机に戻ると、他に仕事があったのか、パソコンに向かって手を動かしていた。
 幅広い意味での期待の新人こと鶴岳くん、二三歳。先生曰く彼は物事をはっきりと言うけれど、仕事を丁寧にこなしてくれるから、結論としては「つかえる」だそうで。彼から受け取った資料を見てみれば、たしかに丁寧に処理をしていることがわかるものだった。複数枚にまたがる資料には、所々しっかりと付箋をしている。この付箋が、いわゆるところの「注釈」の役目をしている。なるほど、確かに先生の言うように、鶴岳くんは仕事をしっかりと丁寧にこなす。
 鶴岳くんの資料を横に置き、とりあえず残りの三行と、点検を手早く済ませる。点検は急いでいる時でもしっかりと漏れがないように、三度見は必須。これは、今はもう結婚して退職された先輩から教えてもらった必殺技だ。
 上司に見せる資料は三度見の点検と、「確認をお願いします」の言葉。そして不安なときは必ず資料に付箋を貼っておくこと。
 ほかの会社がどうなのかは知らないけれど、少なくともここの浅木先生は資料に付箋を貼ることを許可してくれている。だから新人の子たちの必須アイテムの中に、付箋が入っている。
 三度見の点検が終了し、念入りにもう一度確認する。お金がからむ資料は、ゆっくりと指折りで金額を数えなければ、下手をすればとんでもないことになる、は、先生の口癖だ。
 点検を終えれば、すぐに幅広い意味での期待の新人こと鶴岳くんが作成した資料の確認。指でなぞるようにして資料を眺めていく。しっかりきっちり、丁寧に仕上げてくれることもあり、なおかつ初見の人間にもわかるようにと、わざわざ付箋まで貼ってくれる。これだと付箋の意味は必要ないだろうけれど、念には念を押してこのままにしておこう。最期のページまでしっかり確認をして、ふと一息つく。今まで仕上げた資料をすべて先生に提出をし、先生が「よろしい」との判断をすれば、本日の仕事は終わりだ。
 資料を手にして、部屋をぐるりと見渡す。きっと先生はいつものようにパソコンに向かって資料作成でもしているか、あるいは新人指導、または最終チェックをしているのだろうと思った。
 「堀塚、先生は?」
 「はっ………いねえの?」
 かたかたと動かしていた手を止めて、堀塚も部屋を見渡す。
 けれど、先生はいなかった。時刻は十時を少しだけ手前。なんだかんだでかなり早く終わったな、なんて安心している場合ではない。先生が見つからなければ、どのみち仕事が終わったことにはならない。先生に書類を提出し、「よろしい」との判断をいただかなければ、本日の仕事が終わったことにはならない。
 もう一度部屋を大きく見渡し、ついでに先生の机にも行ってみて、身体が硬直した。
 「………えっと、『先生はしばらく居間にいます。書類は明日すべて点検を行いますので、データーはパソコンの共有フォルダーの中にある、私のフォルダーに入れておいてください。紙類は私の机の上で結構です』………だそうだよ、垣本くん」
 ぽん、と堀塚から肩を叩かれてため息をこぼした。堀塚は知らない、これの恐怖を。

 事務所と先生の住居は同じ敷地内に存在しする。事務所は一階に、二階と三階が先生と先生のお兄さんが住む、いわゆる「おうち」になっている。
 先生は自分のお兄さん、といっても現在は貿易会社を立ち上げた立派な人なのだけれど、その人のことを必要以上に心配し、ときどき「必要な書類はこちらが指定した場所に置いて、帰宅しても構いません」とメモを置いて、二階か三階のどちらかにいる。このことに怒り狂う人間は、最初からこの事務所で働くことに向いていないし、むしろ今となっては「そうなんだ」の一言で終わらせることができる。
 けれど、これの一番の恐怖が、翌日に行われることを、幅広い意味での期待の新人鶴岳くんも、堀塚も知らない。これの翌日、かなりの高確率で残業時間が軽く三時間をオーバーしてしまうことを。たった三時間で済めばいいものの、今までの仕事が仕事だ。けっして三時間だなんてたやすい時間で終わるはずがない。
 だからこそ、終わらせなければならなかった。
 「鶴岳くん、ちょっといいかな?」
 やっと残業が終わったかのように見せかけてこんなディフェンス。自分だったらこんな上司を心底恨むだろう。「なんですか?」と嫌な顔一つせずに元気な声で言いきった鶴岳くんには、ぜひとも焼肉でもご馳走してあげたい気分だ。
 「きっと明日残業になるよ。しかも今日レベル」
 ぼとりとカバンを落とした鶴岳くん。何とも分かりやすい反応だ。
 「先生、パソコンに付箋とメモを置いて行ったでしょう? あれの翌日はかなりの高確率で残業だよ? だったら君はどうする? おれはもう少し残るし、明日も今日レベルの残業なんて御免こうむる」
 だっておねえさんの作りたての晩御飯が食べれないじゃないか、とは言わないでおこう。
 「………自分も嫌です、残ります」
 数秒してから言った鶴岳くん。さすがだと思った。
 「とりあえず提出した書類、もう一度全部見直そう。それから先生は付箋をつけてもいいとのことだから、自分が不安な箇所、あったら必ず付箋をつけて。俺に見せてもいいけれど」
 「わかりました」
 くるりと振り返って、自分の机へと戻る鶴岳くん。本当に申し訳ないと思う。
 横に座っていたはずの友人は、さっさと書類を提出して帰ってしまった。きっとあいつは明日残業コースなんだろうな、などと思いながら、もう一度提出した書類に目を通す。きっとこれで間違いがないはずなんだ。











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