03



 本日の八時間労働に一時間の休憩を終えた私は、少年から手渡されたメモ用紙を手に、とある建物の前に立ち尽くしてしまう。
 「本当に、ここなの?」
 メモ用紙には住所と、建物に行くまでの道のり。さらには建物の大まかなイラストまで描いてある。誰が書いたのかはわからないけれど、かなり上手いな、わかりやすいな、なんて建物の前に着くまで呑気に考えていた私が馬鹿だった。
 煉瓦造りに、どこぞの洋館を連想させる大きな門に加えて、『浅木事務所』と書かれた看板。浅木事務所ってどこかで聞いたことあるぞ。お客さんでとある貿易会社に勤めている人が「年の離れた妹が弁護士事務所を立ち上げた」なんて言っていたのを、前に働いていた水商売のお店で聞いたことがある。
 あの時は「へえ、すごいですねえ? そうなんですか」なんて、適当に流していたけれど、まさかとは思う。
 あの、浅木なんだろうか? いくら少年でもこんなところで働いているとは思いたくもないし、けれど店長さんが言っていた「若手弁護士」との言葉が、やたらと耳に障る。
 「立派な門だけれど」
 ふと見上げる。おおよそ三メートルはあるのでは、と思うほどのたいそう立派な門だ。黒塗りで壁は白と、なんだかどこぞのおとぎ話に入り込んできたかと思うほどのものだけれど、ここで難点が発生してしまった。
 おそらく、いま私がいるところが普通の家で言うところの玄関なのだろうけれど、呼び鈴がない。たいそう立派な門と、これまた目を張るほどの『浅木事務所』と書かれた看板。しっかりと門が閉ざされていて、これではどこから入ったらいいのかが分からない。
 じっと門を見つめること数秒。手に握っているメモ紙を見ること追加で数秒。どうしようかと思い、
 「狭間木ちゃん?」
 どこかで聞いたことのある男性の声で呼ばれて、思わず振り返った私は、驚かないはずがなかった。

 本日の定時時刻一七時。現在の時刻二一時を少し手前。
 「終わらねえんだよ、馬鹿野郎っ!」
 ありがたいことに残業代のつくこの会社で働けることとなったけれど、これはいくらなんでもひどい。
 どうして警察署はぎりぎりになって書類を持ってくるのか。
 どうしてお役所関連の所は、もう少し余裕をもって書類の提出をしてこないのか。
 どうして自分たちが、本来やるべき業務と、同時並行でお役所関連の仕事までしているのか? はらわた煮えくり返るほどの怒りをパソコンのキーボードにぶつけながら、横で嘆き悲しむ堀塚は、休憩中に「今日は定時で帰れたら帰りたい。むしろ帰る。今日は彼女との記念日なんだ」と嬉しそうに言っていた。数時間前に携帯電話を持って「トイレに行ってきます」と言っていたから、おそらく彼女に電話をしていたんだろう。あとで先生に言っておこう。なんとか休日を一日ぐらいは取らせてもらえるだろう。
 「しゃーねーべ、誰かがやるんだ。それがたまたまこっちに回ってきたってだけだ」
 なかば、自分にも言い聞かせるような言葉を、堀塚にも言い聞かせる。畜生、と小さく嘆いた堀塚の瞳には、涙が浮かんでいた。ああ、そういえば人生初の彼女で、人生初の記念日だったっけ、たしか一年の。よくそんな記念日だのなんだのと覚えていられるわ、などと思いながら机の上に積み重なっている書類をぱらぱらとめくる。書類を見れば、心底これを自分たちがやらなくてはいけない意味を問いたい書類が顔を出す。
 「ごめんなさいね?」
 スーツを着て、マグカップを二つ持った先生が、後ろからひょっこりと顔を出してきた。
 「警察署の人たちが『弁護士の方であれば出来るでしょう? なんせ弁護士さんですからねえ? 出来ないわけないですよねえ?』なんて挑発してきて、私もかっとなったのがいけなかったのよ」
 机の上にやさしく置かれたミルクココアが、先生の優しさをうかがえる。
 先生は負けず嫌いだ。挑発を受ければ、相手が誰であろうとも、断ることなく、むしろ受けて立つタイプだ。
 本当だったら、先生だってもう仕事が終わっている時間だ。人一倍捌くスピードが速いのに、まだ事務所にいるということは、誰よりも書類を抱えているという証拠なんだろう。僕や堀塚は決して処理が遅いわけではないけれど、むしろ早い方だから、先生も僕たちを頼ってくれている。こんな、大学を出てまだ数年しか経っていない僕に、いろいろと仕事を任せてくれる先生だからこそ、僕はここで働くことができる。
 「先生も大変ですね」
 本音としては「警察署や役所がやるようなことはしたくない」のだけれど、これを言ってはいけない。おそらく一番やりたくはないのは先生だから。「それよりもこれ、頂いていいんですか」と机の上に置かれたミルクココアに気がついた堀塚が言う。
 「良いんですよ、もう少しです。頑張ってくださいね?」
 にっこりと優しい笑顔を見せる先生。女性らしい、ピンクをベースに白のハートが散らばったマグカップが、机の上に二つ置かれる。おそらくは二人分。ということは堀塚と自分の分だろう。本当だったら、こんなものはない。せいぜい「エナジードリンクで頑張れ」だ。同じ大学の友人だって、同じような会社に入ったけれど、疲れた時はエナジードリンクで頑張っているらしい。ミルクココアを上司からいただくなんて、普通だったらありえない。
 「ありがとうございます」
 椅子から立ち上がって、しっかりと礼を言う。堀塚も同じようにすれば、先生は申し訳なさそうに「無理をさせてごめんね、もう少し頑張ってね」と言って、自分の机へと戻って行った。こういった先生の元だからこそ、頑張って働くことができるんだ。椅子に座って、そっとマグカップに手を添える。じんわりとした温もりが、心を優しくしてくれるようで、ありがたかった。
 机の上の書類をぱらぱらとめくる。あと三件で終わる。パソコンに表示されている時刻を見て、首を縦に動かす。大丈夫、日付が変わる前には終わる。すっと一息ついて、片手をパソコンのキーボードの上に置く。もう片手は書類に。あと三件だけだ、大したことはない。








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