008
私はだれがどう見たって完璧な人間だった。
料理をさせれば和洋中問わず天下一品の物を作り、近所のおばさまたちの舌を巻かせていた。煩い親戚連中を一瞬にして黙らせることだってできた。
部活の剣道では、長年の経験がある先輩たちを差し置いて、高校から始めた私が、インターハイ第二位という好成績を勝ち取った。
初夏に行われた学力テストでは全国順位二桁という数字を叩きだし、得意科目でもある英語にいたっては、リスニングと筆記試験、共に九割以上というかなりの上出来な結果。もちろん、他の科目でも大差ないもの。
父はサラリーマンに母親は専業主婦。決して裕福とは言えず、けれど貧しいとも言えず、中の中ぐらいの生活で、私は幸せだった。優しい両親に恵まれて、理解力のある良き友人にも出会えた。
けれど、こんな幸せ、長くは続かなかった。
地元では有名な公立進学高校に入学して二年目の初夏。もうすぐ全国模試と期末テストがあるから本腰を入れて勉強をしなければならない。この二つの試験の結果によっては、部活動のレギュラー入りが決まる。
だから私は気合を入れて勉強をしようとしていた。
けれど、現実はうまくいってくれなかった。
テストが始まる週間前に、父親の借金が発覚した。
しかもこの借金は額も恐ろしいけれど、父親も努力しても返済が出来ないと思ったのか。父親は会社の金を借金返済に使用していた。母親はこのことがわかるとすぐに役所へ行き、離婚届に自分の名前と印鑑を押しては、荷物をまとめ、次の日には父親の言うことをすべて雑音と判断し、家を出て行った。
一週間後、父親は何を思ったのか、家を出て行ってしまった。携帯電話に何度連絡をしてもつながらず、しまいには親戚連中からは手を離されてしまった。
借金取りの人たちも残されたのがまだ一七の小娘一人と、そこそこ立派な家だけだと判断したのか、けれどこれだけあれば十分だと判断したのだろう。わたしを借金返済の種にできるとわかれば、店に出した。
高校入学時には、私は将来優秀な銀行マンになるのだろうと思っていた。あるいは敏腕編集者。そしていつしか素敵な人と巡り合い、誰もが羨ましいと思えるほどの、綺麗なお嫁さんになって、幸せな家庭を持つのだろうと、夢を見ていた。
どれほど道を歩み間違えたとしても、風俗の道だけは行かないだろうと、思っていた。
けれど、現実はどうだろうか?
父親の借金返済の為に、毎晩毎晩、酒と欲の香りを臭わせる男性を相手にし、触れられたくもない肌に触れられる。
こんな生活は決してないと思っていたけれど、これが現実なのだ。
二九階建てのビルの屋上から見える景色は、私のお気に入りだ。都会の高層ビルは、昼間でこそ威力をあらわすけれど、夜になれば綺麗にライトアップされた夜景になる。私は、ここから見える景色が大好きだった。奥に海が見えて、手前は高層ビルのライトアップは、個人的に大好きで。心が折れたり、どこかくじけそうになった時には、いつもここに来てはやる気をもらっていた。
けれど、もう限界だ。
「ごめん、なさい」
頬から流れる涙が、もう限界だと叫ぶ。
億単位の借金返済を馬鹿にしていた。せめて一年か、どれだけ長くても六年頑張れば返済できるだろう。ほんの少しの辛抱だ、と。
けれど、もう父親の借金が発覚してから十年になるのに、一向に減らない。どれだけ頑張って働いたって減ることのない借金に、もう私の心が限界で、気がつけば九センチのハイヒールを脱いで、屋上に来ていた。
一歩、また一歩と前へと行く。あと一歩踏み出せば落ちてしまう。二九階のビルから落ちてしまうんだ。
だけど、落ちて良い。私の短い人生をここで終わらせてもいい。そう思って私はもう一歩と足を踏み出そうとし、
「やっと見つけた! 良かった!」
しっかりと握られた右手に思わず振り向いた。真っ黒なスーツに白いネクタイ。黒縁のビン底メガネに、胸元には黄金色のひまわりに、中心に銀色で天秤が掘られている。私よりもおそらくうんと年下の男性だけど、私はこの人を見たことが無かった。
というのも、お店に来るほとんどのお客さんが、二十代や三十代の若い人ではないから。ほとんどが四十代や六十代の、なかなかのビール腹をしたおっさんばかり。こんな若い人を相手にすれば、絶対におぼえているはずなのだけれど、私の記憶の中にこのお兄さんを相手にしたことは一切なかった。
「お店に行ったらいないし、従業員の人たちに聴いても『今日はまだ出勤してない』って言うから、嫌な予感がしてここに来てみたんだ。正解だったよ、おねえさん」
優しく笑う彼の口から「おねえさん」の言葉が出てきた瞬間、なんだか妙に昔のことを思い出してしまった。
あれは、いつのことだっただろうか?
「本当に最近の警察って人使いが荒いよね。弁護士の資格取ったばっかりの若造に、人手不足だから悪いけど違法店の摘発に入ってくれだなんてさ。こっちができないのことを頼むんだ………本当にやってらんないよ」
若干、聞いてもいいのかと迷うようなことを耳にしてしまった気がした。
ビン底メガネでぶつぶつと言う若い男性を見ていたら、どうして懐かしいことを思い出そうとしてしまうのだろうか? わたしは、この人とどこかであったことがあるのだろうか、なんて思い出そうとしていた時だった。
「おねえさんっ?」
わたしの意識はもう限界だった。
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