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 とにかく今日は急いで家に帰らなければならなかった。正しく言えば「帰りのホームルームが終了後、すぐさま教室を飛び出して近くのスーパーに行く」なのだが。
 今日は、広告にでかでかと、「大安により大安売りいたします! 売り切れ御免!」と黄色の文字で書かれていたのだから、鈴が食いつかないはずがなかった。日常生活で使われる洗剤や食料品が、いつもに比べて格段に安くなる。そんな日に買わなくて、一体いつ買うのか? 鈴は学校に行く前に慌てて掴んだエコバックを三つほどカバンの中に忍び込ませている。なので、このまま目的地のスーパーに行くことなど、たやすいことだ。
 けれど、これはあくまで鈴の都合であって、今教壇に立っている男性教諭の都合ではない。
 「先生はな、正直に言う人間が好きだ。嘘を言う人間は大嫌いだ。みんな、わかってるな? 正直に言うんだ」
 黒板には堂々と「終わるまで帰れません」書かれている。
 未成年者しかいないこの教室内で、あろうことか火のついたタバコが見つかったのだ。幸い、教室内にいた生徒がいち早く見つけ、すぐに鎮火にあたり、火事や大事には至らなかったものの、だとしても一体誰が教室内でたばこを吸おうと思ったのか、と男性教諭は問いただしたいようだ。
 しかし、だ。
 携帯電話の普及が進み、女子高校生ですら携帯電話を持つ世の中となってしまった以上、彼の言葉を取り入れ、ちゃんと言おうと思う生徒は、少なくともこの教室内には一人もいなかった。九割近い生徒が下を俯き、携帯電話を手にし、終わるのが今か今かと待ち望んでいるものばかりなのだから。いくらこの状態で「タバコを吸おうとした人はだれか」や、あるいは「正直者が、先生は好きです」などと言ったとしても、誰が耳を傾けるのか。一番前に座っている生徒ですら、男性教諭の話を聞く気が皆無なのか、スクールバックの中からハードカバーの本を取出しては、ぺらぺらとページをめくり、読書に夢中になっている。
 時刻は長い針がもうすぐで『12』に、短い針は『5』を指そうとしている。このままではタイムセールの時間が始まってしまう。タイムセールの時間は夕方の五時を三十分過ぎた頃から始まる。売り切れて買えなかったでは、一体何のために鞄を余分にいくつも持ってきているのかが分からない鈴は、苛立ちを感じ始めていた。
 先ほどから同じことばかりを繰り返しては、時間ばかりを無駄にしている男性教諭が担任なのだと思うと、気力も落ちるが、大前提として小学生じみた「正直者が先生は好きです」だとか「嘘を言う人間は嫌いだ」だとか言って、本当に「私がしました、すみません」と挙手をして出てくる生徒がいるとでも思っているのだろうか? もしも本当に思っているとでもすれば、間違いなくこの男の頭の中は、お花畑だ。鈴がいら立ちを隠せず、スクールバックをきつく抱き寄せ、いつでも帰宅可能の状態にしていると、教室の扉が音を立てて開いた。
 「咲崎先生、少しよろしいでしょうか?」
 申し訳なさそうに頭を下げて教室に入ってきたのは、頭皮が七割ほど顔をだし、残り三割の白髪交じりの黒髪という、高校生からしてみれば話題のいい的となりかねない六十代後半ぐらいの男性だった。腰を低くし、黒いスーツのズボンになぜかネクタイはされていない。それどころかジャケットも羽織っていない。白と青のチェック柄のカッターシャツ。
 「どうしましたか?」と男性教諭がかなり強い口調で言えば、彼は低く頭を下げ言った。
 「帰りのホームルーム中失礼いたしますが、咲崎先生、申し訳ございませんが、部活動のある子たちだけでも、せめて解放してやってもらえませんでしょうか? どうぞよろしくおねがいいたします」
 一体何があったのか、どうしてこんなところに彼が来ているのかと何人かの生徒たちが不思議がっていると、一人の生徒がポツリとつぶやいた。県大会だ、と。
 「いや、そんな無理言わないで下さいよ。今は帰りのホームルーム中ですよ? しかもこの教室内でタバコが見つかったんです。教員として放置しておけと?」
 『わかったら帰ってくれないか?』と言わんばかりの、強い表情で言いきった若い男性教諭、咲崎に、腰を低くした六十代後半の彼は、そうですか、と小さく呟くように言った。
 「県大会があるんですよね、一月後に」
 ぴたりと、咲崎の肩が大きく揺れた。
 「このクラスの子たちも、時季外れの県大会に随分とがんばっていたはずですよ? なのに、教室内でタバコが見つかっただのなんだのでその子たちの練習時間までもを縛り付けるのは、いかがなさるおつもりでしょうか? もちろん、未成年者の喫煙は決していいことではありませんし、校則以前に法律違反ですが」
 腰を低くし、「そうですか、ホームルームですか」と何度も言う白髪交じりの男性はゆっくりと頷くと、やがて深く、深く頭を下げた。
 「いやあ、咲崎先生、申し訳ございませんでした。この大会は今後の進路に大きく影響するだろうから思う存分力を発揮してほしいと思っていたのは私だけで、実はそれが愚かだとは、とても思ってもいませんでした。あなたの言うとおりですね。失礼しました」
 ゆっくりと静かに扉を閉めて教室を去っていった男性教諭に、呆然とする生徒たち。教壇に立っていた咲崎は大きく口を開き、「今日はもういい。心当たりのある生徒は今後、禁煙をするように」とだけ言うと、荷物を置いて教室を出て行ってしまった。教室内にかけられている時計の時刻は、夕方の五時を知らせていた。







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