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お昼からの会議だなんて初耳だったから、とにかく即興やっつけで資料を作った。桜庭さん、私の専門以外の分野で、どうして私がこの資料を作れると思ったのか、あるいは「私とやもめ先生が男女交際をしている」とのいやがらせなんだろう。
そんなはずがない、だってやもめ先生はお子さんのことを第一にと考えている人なんだ。お子さんが望まない限りは、再婚、ましてや誰かと男女交際なんてありえない、と信じたい。
けれど、こんなことを言ったって、あの写真で私の発言はなかったこととなってしまう。
悔しい、誰があんなデタラメな写真をばら撒いたのか、なんてことはどうだってよかった。
「源さん、明日の一五時からのプレゼン資料まだですか?」と精神内科の先生。
「すみません、ちょっぱやで作りますので」
ナースステーションに戻り、パソコンの電源を入れて、資料を作ろうとし、
「源さん、新棟の一六二三号室の患者さん、あなた担当でしょう? どうなってるの?」と今度は心臓外科の先生。
「申し訳ございません、すぐに見てきますね」
パソコンをログオフの状態にして、すぐに新棟患者さんのカルテを棚から探し出す。下二桁の偶数で、一六からの数字は心臓外科でも重篤の人。カルテに書かれた病室と患者さんの名前を一致させて、病室に向かおうとした矢先だった。
「どういうことよっ! うちの旦那がもう助からないってアンタのところの腕が悪いんでしょう? 人の旦那を殺さないでよっ!」
ナースステーションに突如響いた罵声に、カルテを落としてしまった。対応をしているのはまだ実習三日目の看護専門学校の女の子。
「そ、そうは言われましても、診察の結果、患者様の健康状態が最終段階の状態だと判断しまして」
顔がやたらと赤い。さらには極度の緊張で手と足が震えている。いわゆる「どう対応すべきかわからない」か、あるいは「もうお願いだから帰ってくれ」状態。
「そんなわけないでしょう! あの人はまだ元気なのよ! ついこの間まで元気だったのに、今日病院に行って『あと余命が一週間です』なんて信じろというの? 冗談じゃないわ、診察をした医者を出しなさいよ」
紫色のワンピースはひざ上一五センチほど。胸元がブイネックでがっつりと開いていて、どこかのパーティードレスとして着るような格好。あるいは風俗の方、と言ってしまえば偏見だろうか? 真っ白な毛皮のファーに、遠くからでもわかる伸びた爪。気合の入った化粧に、嗅覚が曲がるのではと思うほどのキツイ香水。これは、なんて考えなくてもわかった。
私だったら助け舟を出すことが出来る。ああいった類のご親族の方は、これが初めてではない。ポケットの中に入っている古びた携帯電話にそっと手を伸ばし、
「あなた邪魔よ」
はっきりといったオニナガに、ほっと心底安心した。
「ここは病院なの、わかる? 怪我をした人間や病気を患った人間が治療をしにくるところなの。あなたのように甲高い声でぎゃんぎゃんと騒ぐような人間は、ほかの患者さんの迷惑よ。悪いけれど、帰って頂戴」
さすがだと、心底思えた。床に散らばった一六二三号室の患者さんのカルテを拾う。ああ、この人も結構な重篤患者さんだったよな、なんて思いながら薬箱を探す。もうすぐ、夕ご飯になる。私はお昼ご飯を食べていないけれど。
「なによっ! 人の旦那を薬か何かで殺すつもりでしょう! いいわよね、病院ってそういうのでお金をもらって儲かるんですから」
おお、言いたい放題だ。机の上に「新規患者」のボックスがある。その中をちらりと見てみれば、ああ、そういうことかと判断できた。「新規患者」と書かれたボックスの中に入っていたカルテは、七十を後半の老父だった。きっと彼女が言っている「私の旦那」は、この老父で間違いない。そして病状はいたってシンプル。
「もしもあなたがそう仰るのであれば、よほどの自信があると判断させていただきます。こちらの病院があなたのご主人を殺していると、あなたがそう思い信じているのであれば、どうぞ弁護士を雇って確認してみてください。裁判でも何でも結構ですよ?」
ここまで言ったオニナガ。きっとオニナガは知っているのだろう。
この患者さんが「薬物中毒者」として入ってきたことを。
この患者さんがこうなったおおよその原因を。
この患者さんがこうなるまで、彼女が一切「とめ」に入らなかったことを。
だからここまで強い姿勢と、頑なな表情で戦える。どこか悔しそうに、けれど自分は間違ってなどいないといった表情をして帰って行った女性に、私も看護学生で実習生としてきていた女の子も、ほっと一安心をしてしまった。
オニナガがいなければどうなっていただろうか? あのまま担当の医者を呼び出していたら、きっとこんな冷静に終わってはいない。何事かと思い病室から顔を出した患者さんたちには飛びっきりとの笑顔を見せ、けれどくるりと振り返り、
「仕事はっ!」
まるで鬼のような形相を見せたオニナガ。はっと気がつき私は早足で一六二三号室の患者さんのところへ行く。
忘れていたけれど、私がこれから向かう患者さんは重篤の人。一刻をも争う人なんだ。
一六二三号室の患者さんがいる病室の前に来て一呼吸する。これはやもめ先生直伝の「体内のスイッチの切り方」らしい。これをすればどんなことがあっても大丈夫、というわけではないけれど、それでもと思う。さすがに私だって看護士生活が年単位であるとは言っても、あと余命数週間もない患者さんと接するときは、極度の緊張が一緒についてくる。
大きく深呼吸をして、二回ほど扉を叩く。
「勝山さん、入りますよ」
ちょっとやそっとでは絶対に崩してはいけない鉄板スマイルと、バクバクと緊張で動く心臓を押さえようとして、若干手が震えていた。
「看護士さん」と勝山さんのご家族の方が頭を深く下げた。
勝山庄次さん、御年九八歳の男性。まだ彼が元気だった頃、お孫さんに話している内容をちらりと聞いたことがある。先の大戦を経験し、食べるものに苦労をした、着るものにも苦労したと嘆き悲しむ人たちを、さらに追い討ちをかけていたのは、自分たちだ。本当に申し訳ない、と。
私はこの言葉の意味がわからなかった。勝山さんが若かりしとき、何をしていたのかは、私は知らない。あの大戦で勝山さんが一体何をしていて、どんな仕事をしていたのかも。「戦争に加害者なんていない、みんなが被害者」の私からしてみれば、勝山さんの言葉をただ単純に「そうなんですか」と聞き流していた。昔話をするごとに「自分は先の大戦で加害者だ」なんてことを言う勝山さんも、ここ数日はもう終わりが近いのか、最近ではめっきりと昔話をしてくれない。
『自分は軍に志願したんだ』
まだ元気だった勝山さんは、病院に「これだけは死ぬときも一緒でいたい」と、とある銀時計を病院に持ってきては、はじめは大切そうに握っていた。今となっては枕の近くにある棚に、ぽつんと置いているだけだ。銀時計には「御賜」の文字。決して私が馬鹿だから読み方がわからないとかは、思いたくない。
『その時にいただいたんだよ、大変名誉なことだって』
あの時、守りたいほどの笑顔を見せていた勝山さんの命はもうわずか。年齢が年齢だから仕方のないことなのだけれど。
「勝山さん」と、手をさすりながら耳元で言う。元気だった頃は、なんて考えていたら涙腺が緩んでしまう。
「点滴変えますね」
ゆっくりと離れてから、荷台から点滴を手にして、コードを読み取る。大丈夫、失敗するなと、心の中で何度も言い聞かせる。補液の入った袋を手にして、異変に気がついた。
「えっ…………?」
おそらく前身の血がいっせいに引いていく、とはこのことなのだろう。今までこんな経験をしてこなかった私からしてみれば、ありえなかった。袋を手に取った瞬間だった。
漏れている、とわかった。袋の中に入っている液体が、ぽたぽたと外に漏れている。
早々簡単に袋が破けるなんてことはない。シャープペンシルやボールペンといった筆記用具はポケットの中に入れている。ましてやカッターナイフやハサミが入っているなんて、ありえない。台の上においているなんて、もってのほか。どうして、なんてことはわかりきっているから、考えたくもない。
誰かがやったんだ。そして、このミスを「わたしがやった」とすれば、完璧に私のミスとなる。
「看護士さん」と、勝山さんのご家族の方が言った。
「どうかされましたか?」
不安そうに私を見るご家族の方。ちらりと点滴袋を見て、おおよそ数分程度であれば、何とか間に合うレベルだ。旧棟のほうから点滴袋を取ってくることぐらいは、出来る。
「ちょっと待っていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
頭を下げて、どうしてこんなことになったのだろうか、などと考える暇もなく、部屋を出る。きっと誰かが意図的に勝山さんの点滴袋に小細工を下に違いない。でなければ、触った瞬間に点滴袋が破けるなんてこと、ありえない。
ナースステーションまで早歩きをする。夜勤だったら絶対に走っていたのに、畜生。今日はなんだかばたばただ。
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