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 「あの自分の子供は目の中に入れてもいたくもない、なほどベッタリなやもめ先生だよ? 亡くした奥さんを後生大事にして、手帳の中に家族で撮った写真を入れて、使えない実習生たちに『これが私の嫁さんですよ』なんて自慢してる人だよ? わかってる? なのに教え子とかの関係だけでいっしょに食事? 外出? ありえないでしょ。きっと君のご自慢の身体で使ったんでしょ? 何かやらかしたんでしょ? だったら僕にも試してみてよ、その技でさ」
 すっと堂上先生の手が伸びる。
 いくらなんでも我慢の限界だった。
 「馬鹿にするのもいい加減にしろっ!」
 あらぬ噂なら慣れている。
 両親が早くに死んだから。
 酷い交通事故で死んでしまったから。
 年の離れた妹と二人暮らしをしなければならなかったから。
 親戚は頼れないと、両親を二人とも同時に失って一週間もたたない間にわかったから。
 源さんのおねえさんは高校をやめて風俗で働いている。
 何を言っているんだ、普通科と進学科しかなかった高校だったから、看護科のある私立学校に編入したんだ。そうでもしないと、女の私一人で妹の分まで食べさせていくのには、限界があるとわかっていたから。
 源さんのおねえさんは風俗で働きながら自分の飯だけ食って、妹さんは全く食べていない。
 そんなわけあるか、ほぼほぼ毎日仕事で、看護師としてバリバリ働いている。妹の鈴ならちゃんと食べている。料理だって年相応以上にできるようにと、少ない休みの日を割いて教えたのは私だ。
 こんなあらぬ噂を立てられるようになったのは、両親の死後。両親を恨むことなんて、一度たりともなかった。こんなにもひどい親戚と今後、何らかの形でもう一度か二度ほど会わなければならないと思うのは、とても嫌だったけれど。それでも親戚のこと以外で、両親を憎んだり、恨んだりすることは決してなかった。
 けれど、今回は話が違う。
 「私がやもめ先生を体で誘惑した? 一体どんな根拠があってそんなことを言えるんだっ! アナタは仮にも医者だろう! ちゃんと根拠と可能性を持ったうえで発言すべきじゃないのか! もしも私とやもめ先生が男女の交際をしていなかった場合、あんたは何と言うんだ? 結局『僕だって人間なんだ、間違いはある』とかほざくんだ! 人にああだこうだと決めつけておいて、自分がいくら間違ったとしても、一向に謝罪なんてない。自分は男で医者だという絶対的なプライドがあるのであれば、まずは根拠と自信と絶対的な証拠を突きつけたうえで物事を言うんだ! 研修医時代に習ったはずだろうが、馬鹿野郎っ!」
 思いっきり右足で机を蹴飛ばしたのちに、私は特別面会室を飛び出した。どうしても、堪えられなかったから。

 ありえないと、部屋を飛び出した。
 だからあの先生は嫌いだった。
 「馬鹿じゃないの、何が女性が悪いよ。あほらしい」
 私とやもめ先生は師弟の関係でしかない。ましてや男女の関係なんてありえないんだ。それをあの先生は「男女の関係なんだろう? だって写真があるじゃないか」と平然と言いきったんだ。
 あの先生はいつだってこうなんだ。何かあれば「女性が悪い」や「僕は男で医者だから悪くはない」と。男尊女卑という言葉を常に頭の中に入れているあの先生は、たとえ自分のミスだったとしても、「僕は医者で男だから仕方のないことだ、人間だって失敗はするだろう?」と、逆に開きなおる。だから嫌いなんだ。
 早足でナースステーションへ向かう。チームリーダの桜庭さんは、おおよそもう使えない。というか、私に連絡が一切回ってこないだろう。あの人は、この手の噂大好きマンだから。こういったことが過去に一度だけあったから、いざというときのための情報収集能力を新人次代につけておいて、正解だったと、心の中で安心する。
 もしも分からないのであれば、情報がどうしても回ってこないのであれば、自分の足で探していくべきだ。私が新人時代のリーダーは、どうしてか、新人さんに一切の情報を回さなかった。
 ぴたりと、足を止める。
 『この写真を見ても同じことが言えるんですね』
 にやりと笑いながら言った党上先生。とても、気持ち悪い笑い方だった。
 『これを見ても同じことが言えますか?』
 すっと先生が差し出してくれたスマートフォンの画面に映っていたのは、私とやもめ先生が一緒に映っている姿。
 昨日、私は確かにやもめ先生といっしょにいた。ご飯を食べて、子供の相談に乗って、そのあとスーパーに行って。やましいことなんて何もなかった。
 けれど、私の証言よりも強い写真がある
 ならば、と思った。
 あの写真は、一体どこで、いつ、誰が、どのようにして撮ったのだろうか、と。「源さん」と、オニナガの罵声が響く。
 「貴女仕事ほったらかしてどこに行っていたの?」
 顔を真っ赤にしたオニナガ。子供が見たら確実に泣き出す顔ですね、なんてことを考えている暇はなかった。
 「すみません、党上先生から呼び出しを受けていたので」
 しっかりと頭を下げる。私の記憶が正しければ、この後は担当の患者さんの病室に行って、点滴が必要患者さんが何人いただろうかと、分厚いファイルをにらめっこしなければならない。今日は手術が何件入っていただろうか? この準備もしなければならない。
 「…………先生からの呼び出しは仕方ないとしても、一四時からの会議の書類、一体どうなってるの?」
 「…………えっと?」
 おっと、記憶にないことが飛んできたぞ、一四時からの会議とは一体なんだろうか?
 「まさか知らないとは言わないでしょうね?」
 「すみません」
 だって知らないものは知らない。聞いていないものは聞いていない。普通であればチームリーダーからの連絡があって、あるいはオニナガ本人からの連絡がある。けれど何もなかったということは、私は知らなくて当然なんだろうと思う。よっぽどのことを除けば。
 「桜庭さんが言っていたわ、会議の資料に関しては源さんがしっかり作る予定ですのでって。あなた、ちゃんと出来ているの?」
 桜庭さん、また貴女ですか、なんてことは口が裂けても言えなかった。
 きっと彼女は党上先生と同じことを思っているんだろう。というか知っている。「私とやもめ先生が仕事終了後デートをし、散々周囲に否定していたのにもかかわらず、結局交際をしていた」ということを。もちろん、これは明らかな嘘。
 「…………婦長、恐れ入りますが、それは本当に桜庭さんが仰ったことなのでしょうか?」
 彼女には限界が来ていた。きっと「看護士が医者と付き合って」などといった妬みや憎しみではない。前々からそうだった。
 患者さんからも言われていた。
 『あの、サクラバちゃん? だっただろうか? あの若い看護士さん。態度が偉そうなんだよね。普通看護士さんだったらもっと腰が低いだろうに』
 こんな言葉を患者さんから聞いたのは、なにも一回や二回ではない。この言葉を最初に聞いたのは私がやもめ先生から指導を受けている、まだまだ新人だった頃。後ろにいたやもめ先生の手も、ぴたりと止まった。
 『いやあ、ねえ? 曾孫が来たときに、普通部屋を出なければならないときは、ワンクッションとして言葉を一つ置くだろう、恐れ入りますがとか、すみませんがとか。相手がまだ小学生だって分かっていても、せめてもの何かしらの言葉があってもいいだろうに、あの若い看護士さん、一言がなくてね。そしたら曾孫が「なんでじいじとはなれないといけなんいだ!」ってその場で泣き出してしまったんだけど、彼女、検査だから病室をちょっと出てなさいって、無理やり曾孫を外に出してねえ? これが医療従事者としてのやり方であれば別に何も言わないよ? 私の身内だし、私が甘い目で見ているのかもしれない。ただ、あんまりじゃないのかねえ、思ってね?』
 あのときのおじい様は、必死に頭を下げるやもめ先生の姿に『私がちゃんと言わなかったから』と、むしろおじい様が頭を下げてくれた。
 桜庭さんがあれから何もしなくなったといえば、逆だ。これでいいと判断したのか、エスカレートしていった。検査だから親族の方は病室を出て行ってください。この言葉はあんまりにも酷すぎる、冷たすぎる。このクレーム処理はすべて私がしてきたと言っても過言ではないし、何よりもオニナガの耳にもちゃんと届いていた。
 もしも仮に桜庭さんが「私とやもめ先生が仕事終わりにデートをし、実は散々否定してきていたけれど、交際をしている」との嘘の情報を鵜呑みにしているともなれば、一切の情報を私に流さないのは、どこか納得がいく。
 私にどんどんと失敗をし、オニナガから怒られてしまえ。あわよくば辞めてしまえばいい。きっとこんな単純な考えで、私に一切の情報を回さないのだろう。
 ならば、と思えた。ちょうどいい機会だから、この際すべてのことを言おうとした私は、「何を言っているの?」のオニナガの言葉でぴたりと止まった。
 「あなた、自分のチームリーダの言葉も信じられないの? 他人のミスを隠す前に自分のミスを訂正するのが普通でなくて?」
 「それは当たり前ですがっ! 桜庭さんは」
 「いいわけなら書類を提出してからにして頂戴。それで、会議の資料は出来たの?」
 自分の右手を上下にひらひらと動かしたオニナガに、私は何も言えなかった。オニナガの言うことは、何も間違ってなんかいない。正しいんだ、正しいのだけれど、「そうじゃない」と言えない自分が、悔しかった。
 「すみません、会議のこと、今初めて聞いたんです。桜庭さんから、何も、何も聞かされていませんでした。すぐに、作らせていただきますので」
 深く頭を下げる。
 「当たり前よ! 会議は一四時から。最低でも三十分前までには作っておいてよね」
 オニナガの言葉が胸に刺さる。









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