エメラルド幻想


 学校を休まなければならないほどの熱を出したのは数年ぶりだと記憶している。ケホッと咳き込んだ吐息は未だに熱く、自室の天井をぼんやりと見上げる依里の目は熱のせいで少し潤んでいる。身体はそう弱くないはずだった。むしろ健康体であるのが依里の自慢できるところでもあったのだが……気が抜けた、とも言えよう。
 もちろん精神的にだ。
 何しろこの個性を得てから十年弱、自身の個性のおかげで自分に話しかける人間は裏があるのではないかと疑い続けてきたのである。誰も彼もがそんなはずはない。それは流石に自意識過剰であると分かってはいる。そう思わないようにしよう、みんながそんなことを思っているはずはないのだ――などと一応思い込んではみるのだが、挨拶ひとつ交わすことすら緊張してなかなか自分から人の輪に入っていくこともできない現状は何よりも正直に依里の心情を物語っている。あと一歩踏み出そうとしたって、どうしてもあの時のことが思い出されてしまうのだ。他の人たちが個性の話をしていると聞き耳を立ててしまうし、こちらのことを見ていないか不安にも陥る。そんな状況であった。身体が硬直するまではいかないが、それでも、骨折したあの時の痛みや恐怖を思い起こしてしまって踏みとどまってしまうのである。

 それが、爆豪と個性を結んでからというもの、毎日が穏やかであった。

 まず個性を目的に話しかけてきた連中がパッタリと来なくなったのが大きい。依里の指を見て現在誰かと契約中であると把握し、どれだけいい条件を出しても決して首を縦に振ることがなかったあの依里が認めたほどなのだからよほど有名な人物なのだろうと勝手に憶測を立てて最近は近寄ることすらなかったのだ。相手が誰だと聞かれたって答える気はサラサラなかったが、幸運なことに今はそれもない。水面下で色々と画策しているかもしれないし、今頃は誰と契約中なのか探し出しているのかもしれない。牽制しあっている状態なので当の本人には一ミリたりとも危害が及んでいないのである。
 そうなれば、理由は分からないがよく上級生から呼び出しを受けていたせいで訳ありだったのかとこれまた勝手な予想をしたクラスメイトは警戒を解き依里に話しかけるようになったし、また依里は依里で緊張することなく気さくに話を返すようになったのだから少しずつ会話に入ることもできるようになった。個性の話を振ってきたこともないので、噂を聞かない限り彼らのことは安心できるだろう、とそう思って。良いことづくめだった。入学してから気を張りっぱなしだったのがようやくゆっくり、深く息をつけた……そういったところにほど近い。

「……『また個性を使ったんか』、なんて…怒られそうだなあ」

 ベッドに横になったまま、依里はぐっと手を上にあげる。
 戦えもしない、特に勉強が飛び抜けてできるわけでもない依里の手はあの日触れた爆豪の手と全然ちがう。自分が意図的に他人の手に触れるときは大体個性を使用するためなのだが、まさかこんな形で彼のことを思い出すとはおもってもおらず口元には笑みが浮かぶ。きっと登校したらまたそんなことを言われてしまいそうだ。いや、それよりも依里が欠席したことすら気付かないかもしれない。
 そう言えば自分と爆豪の関係はなんだかんだ、この個性の件を除けば限りなく薄い。互いの連絡先は知らないし、彼と会うには直接教室へ向かうしかない。A組に行くのはなんだか躊躇ってしまい一度も足を運んだことはないので、結局爆豪が依里の教室へ来る、ということになっているのである。A組の教室に来いとも言われたことはなかった気がするが、それはまあ、彼だって年頃の男の子なのだし自分が行ったところで迷惑になるだろうと感じてもいるので依里がそっちへ出向こうかと提案したこともない。頻度はそう高くはないし、もし呼ばれたとしても時間的拘束もそんなに長くはない。彼はそこまで話上手ではなかったが、聞いてみると自分たちとは比べ物にならないほど多忙を極めているようだった。さすがヒーロー科。
 また、爆豪には自分と違って友人も一定数いるようだった。あの性格で! と本人が聞けば非常に憤慨するかもしれないが依里は驚いたものだった。教室では大人しいのかもしれないし、もしかするとヒーロー科というのはそういう人種が多いのかもしれない。あるいは、ものすごく寛容な人間ばかりなのか。彼はめったと人の名前を出さないが愛称なのか悪口なのか非常にその辺りの境界線が微妙な名称で数人、これまでの会話で挙げている。いずれ彼のクラスへ行くことになったら果たしてどれが誰なのか分かるのか、それは少し楽しみでもあった。

(……いい人に出会えて、本当に良かった)

 自分の個性は恐ろしいものではあるが嫌いにはなれなかった。それでも、もしこの先あと一人、二人ほど出会ったとして、その人物が依里の個性の悪用と乱用を求めてきていたならばどうなっていたか分からない。

 爆豪勝己は良い意味で、無関心だった。

 偶然が重なった結果、個性の契約者として実に最長日数を現在進行形で更新中である。かつて契約をした相手の中には依里の現状に同情したのか何人かは無欲な人間が居たのだが、慣れとは恐ろしいもので、少しずつ得られる恩恵を当然と受け入れ、もっともっとと欲するようになってしまったのだ。その時ばかりは依里もかなり苦労し、警察沙汰にまで陥った過去がある。もう二度とあのような事は経験したくないものだ。
 その点、彼はどうだ。未だに恩恵は頑として受け入れず、余計なことはするなと言ってくるありさま。互いに干渉しない度合いを作ることができると聞けばそれにしろと命令してきて、それなのに個性の契約を切るようなことは未だにない。以前も思ったがやはり最強のボディーガードのようなものだ。打算的に考えたわけではないが、やはりヒーローの卵と言ったところなのだろうか。あの横暴な言動の端々にこちらへの気遣いに似たものを感じられるし、恐らく継続してくれているのは彼だって半分は責任感みたいなものなのだろうと思っている。見せつけようとしたわけではないが、やはり依里の個性を目的とした複数人の人間が迫ってきているのを彼は見てしまっているのだから。申し訳ないと思う気持ちと、ありがたいと思う気持ちが半々。依里は爆豪勝己に対し感謝の念しか抱いていない。それに、

「会いたい、なあ」

 何故、そのようなことを口に出してしまったのか自分でもよくわからなかった。そこまで仲もいいわけではない。毎日話しているわけでも、登下校を共にしているわけでも、さらには学科だって違う。普段の彼がどんな感じなのかも知らないし、自分のことをどう思っているかなんてもっともっと分からない。
 それでも依里はあの空間が嫌いではなかった。遠慮なく話ができて、とりとめない話題でもなんとなく相槌を打ってくれて、個性の話も聞いてくれるような爆豪との空間が。たまに実技やら何やらの、依里では理解もできそうにもない話をしてくれているあの時間が。雑談を終えたあとの、なんだかんだ学校の玄関先まで一緒に歩くあの数分間が。

 熱のせいだ。

 そういうことに、しておこう。きっと体調を崩してしまったせいで人恋しくなっているだけだ。糸が巻きついた小指に頬擦りし、やや浮ついた気分で依里は目を瞑る。とにかく早く治さなければ。やっぱり―――そう、怒鳴られたくないから、ね。


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -