大事に握りしめていた悪夢


 糸巻依里は至って普通の女子生徒である。
 雄英高校へ入学するために少なからず努力は怠らなかったつもりだ。だがそれは今のクラスメイト達も同様。周りと比べて何かが特別秀でているわけでもない。それでもこの高校を目指したのはやはり目的があるからだ。けれどそれは案外簡単に達成することが出来た。だから満足しているのだ。だから毎日笑顔でいられるのだ。たとえその代償に己が怪我をすることがあっても、だ。

「危ない!」
「?」

 移動教室の最中だったのだと思う。教科書を抱きかかえ、階段を降りようとしたその瞬間に後ろからの衝撃。踏ん張ることなど出来るはずもなくそのまま依里のほっそりとした身体は投げだされ、――。



 糸巻依里はかつて、友人の親に頼まれ、友人に対し己の個性を使ったことがある。まだその本質を理解していなかった頃だ。この個性は人を幸せにするものだと信じていた幼く、純粋な頃。人を幸せにするという他人の運命を変化させることに何の不安も不満も、またその対価が己が本来持っていた幸運であるということも知らなかった素直な頃の話だ、何も考えることなく彼女の細い指に赤の糸を巻いてあげると嬉しそうに「ありがとう」とお礼を言われたっけ。当人同士でしか見えなかったけれど二人のやり取りを見た彼女の母親はしきりに感謝してくれたし依里ちゃんの個性だから幸せだね、とすら言ってくれたっけ。自分の子に個性が使われたことを理解した親はありがとう、ありがとうとそれから何度も礼を言った。そうして、

『ごめんなさいね』

 謝罪と共に依里を階段から突き落とした。当然身構えることもできず依里は身体をしたたかぶつけ、全治一ヶ月程度の怪我を負った。足の骨を折ってしまったのである。どうしてそんなことをされたのか分からなかった。もしかして自分の記憶違いだったのかとすら思った。だってそんなことをする人だとは思えなかったから。だって、あの人は自分の友達だったのだから。大事だと思っていた自分の友達の、母親だったから。
 だけど友人はお見舞いに1度も来てくれなかった。周りから話を聞いてみれば彼女はどうやら県外の難しい学校の編入試験に受かり、さっさと転校していったらしい。恐々と震える声でさらに聞いてみればその試験は依里の怪我を負った日であった。
 別にこれら全てが繋がっているわけではないと思っている。今でもそうだ。そう信じていたい。試験に受かったのは彼女の努力の賜物。自分は何もしていない。だが。…だが、ならば、どうして。受かりますようにと神に願うのではなく、自分の個性を遣わせた後、自分に怪我をさせたのか。彼女の幸運を願ってちょうだいね、と笑顔の裏に悪意があったのだと思ってしまった。自分の個性を悪用されたのだと思ってしまった。その時に抱いたのは怒りである。自分のことをよくも傷付けたなという怒りと、裏切られた悲しみと、恨みと。

 ――不幸であれ!

 結果的に依里は彼女たちを追うことはなく、しかし彼女を心の底から憎んでしまった。幸せになんてさせるものかと呪ってしまった。すると赤い糸が巻き付けられた小指がギュッと絞められたような気がして、恐ろしくなってそのまますぐに彼女との繋がりを切った。個性の契約をすぐさま切った時のあの感覚は何とも言えない。これから何度でも結び直しもできるし、新しい相手と契約を結ぶこともできるのに、パサリと自身の手元に落ちた赤い糸を見て呆然としたあの日のことを依里は忘れることができない。個性の使用方法を間違えたのだと悟る。…以来、恐ろしくて彼女のことは調べていない。元気にしているのであれば良い。だがそうでなければ…。

 別に奉仕をしたいわけではない。人を幸せにしたいと思わなかったでもないが、だからといって自分がその分の不幸を肩代わりしなければならないということには頷けない。だから以降、個性を使うのは殊更慎重になった。
 だからこの雄英高校に入ってからどこからか聞きつけた人たちが自分と個性を結ぶよう言ってきても断ってきた。あの恐怖を忘れられないからだ。個性を使った瞬間、自分に危害を加えられるのではないかと恐れているからだ。また逆もしかり。”幸と不幸の割合を自分が変えられるのであれば”、”他人を不幸に陥れることも可能”ということに気付いてしまったからだ。これは誰かを幸せにするために誰かを不幸にさせる呪いである。
 爆豪勝己に個性を使ったのは勢いとは言えある意味最良ではなかったかと思っている。だって彼は個性を理解した上で何もしない。何も期待しない。それどころか逆に何もするなと怒ってくる有様で。

 だから依里は願った。
 だから依里は決めたのだ。

 個性を結んでいる間、きっと彼を不幸にすることがありませんようにと。全ての不幸ごとは自分が受け入れるからどうか、彼が恐ろしい目に合いませんように、と。



「……あれ、」

 ずいぶんと長い間眠ってしまっていた気がする。見たこともない天井、白いカーテン。どうやら自分はベッドに寝かされているらしい。すん、と鼻を啜るとほのかに香る薬品の匂い。来たことはなかったのだがここは保健室だろうか。

「やっと起きやがったか」
「…おはよう、爆豪くん」
「アホ面晒しながら寝やがって」

 ベッドのそばにある椅子にふんぞり返ってこちらを見下ろしている彼は不機嫌さを隠しきれていない。しかし何故爆豪がここにいるのだろう。

 …ああ、そうだ。

 ややあって自分が階段から落ちたことを思い出す。しかしそれからの記憶がないということは恐らくそのまま気を失ってしまっていたのだろう。視線を外し確認したところ、時刻はすでに放課後。授業は後に二科目分あったはずなのだがそのままこんこんと眠り続けたということに違いない。…誰かに聞いて、来てくれたのだろうか。何か用事があったのではないだろうか。自分と彼の関係を知っている人間はいないはずで、自分が何かあった時に駆けつけるような人でもないと思っていたが…否、こう見えても律儀な性格をしているのは知っているし、おおかた教室で自分のことを聞いて、一応見に来てくれた、と言うところだろうか。
 ゆっくりと上半身を起こし、そのまま怖々と自分にかけられていた布団をめくる。右足に包帯が巻かれてあったがせいぜいその程度で、どうやら骨折するほどではなかったようだった。ズキズキと痛む足首。このせいだろう、例の夢を見てしまったのは。久々に見たそれはいつまで経っても生々しさが抜けず、まるでついさっき起きたかのようだ。背中は思っていたよりも汗をかいていたしひどい有様。耐えられぬ痛みではないがもしかするとうなされていたかもしれない…そう思ったのはやはり爆豪がずっとこちらを睨んでいたからだ。

「…あの、もしかして寝言とか…言ってなかった?」
「さァな」
「そう…。もし聞いていたら、ごめんね。忘れてくれると助かる。怖い夢を見ていたから」

 言葉にすることもはばかれる、恐ろしい夢。結局自分の個性が何たるかを考えることとなったきっかけにはなったのだが、本当に依里が願っただけで自分に幸運が、相手に不幸が来るのかは未だ知らない。怖くて知りたくなかったということもあるがそんなことを知るために誰かを不幸にさせたくなかったのである。
 もちろん、親の個性を継いでいるというのであればその可能性はあり得なくもなかった。やはり母親の個性は他人と運を共有する赤い糸の個性であったからだ。しかしここまで対象者と運の共有を密にしていたかと言われればそうでなかったような気もする。そうでなくては子である依里にもっと助言や忠告がなされているはずなのだから。個性は世代を超えるごとに深化する。そういう説も流れている以上、母親とまったく同じ個性でないことも十二分にありえよう。

 だから、なのだ。この個性に絶望し、人目を避ける生活を選ばなかったのは。この個性を恐れ、他人との関わりを断つことをしなかったのは。
 母親の個性の相手は父親である。数々の困難を乗り越え、依里が生まれた。今後も彼女のパートナーは変わらずにいることだろう。それを依里は羨ましいと思ってきた。そういう相手と出会えたらいいなと願ってきた。もちろん個性の対象者は同性でもいいし異性でもいい。恋愛対象者でなくても問題はない。ただこれは依里の願い。いつか、いずれきっと。そう願うことぐらいは許されても良いはずだ。

「…本当に、もう一生見たくない夢だ」

 そうかよ、と興味のなさそうな爆豪の声に何となく救われたような気がした。


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