満ちて欠ける一瞬


「今、誰と契約してるの」

 依里はすっかり忘れていた。
 いつまでも自分の願った通りの日常が続くなんて、有り得はしないことを。

 依里はすっかり忘れていた。
 自分の個性を求めている人間が居なくなったわけではないことを。

 求められると言っても依里はそもそも一般人だ。似通った個性の持ち主にまだ出会ったことはないけれど、本当にそれだけで。なので物好きもいるものなんだな、とその程度の認識ですらあった。たまたま珍しい個性で、しかも親がヒーローで、その親が個性の恩恵を受けて活動しているらしい――と。その恩恵云々の部分だけは、それを言ってしまえばこれまでの父親の努力をすべて他人の個性頼りであると切り捨ててしまうようなものなので依里は一生否定するつもりではあるが、それ以外は事実である。
 イト。その個性は確かに変わっているとは言え、それだけでヒーローになれたり有名になれたりするようなものではないと思っている。かと言って決して自分の個性を安売りしていたわけでも、過小評価しすぎていたわけではない。今でも人に害を与える可能性のある個性であるということは重々承知しているつもりだし、今の環境が特別恵まれていることも理解していた。
 ただ、――そう、ほんの少し油断していたのだ。
 このままずっとこの日常が続くものなのだと。あまりにもその間にトラブルがなさすぎて、これまでなら何かしら警戒していたはずなのにクラスメイトが伝えてくれた、『例の教室で待っている』という言葉を誰からかと問うこともなく爆豪からのものと勘違いして。クラスメイトが小首を傾げながら、『久々に見たなあ、あの先輩』と依里の後ろ姿を見送りながら呟いていたことに気付くこともなく。いつもなら教室まで迎えに来てくれたのになあ、なんてのんびり思いながら廊下を歩くぐらいには平穏な日々に慣れつつあったのだ。


 その男の名前は何だったか、顔を見てもついぞ思い出すことができなかった。
 ただ、確か爆豪と契約を結ぶこととなったあの日に力任せで依里へ言い寄ってきた相手であるということぐらいであろうか。…怒らせるとすぐに手を出してくる相手。そんな認識をし、それとなく距離をとると男はハッと口元を歪ませ、笑う。

「やだなあ、そんなに警戒しないでよ」
「……」
「聞いただけだろ。誰と契約しているのかって」

 その視線は依里ではなく、依里の指へと注がれている。…それはそうだろう、この男は依里自身ではなく自分の持つ個性を必要としているだけなのだ。そして今、誰の目からでも依里の指には赤い糸が結びつけられていて、個性を行使していることが分かっていれば疑問に思うのも当然と言えば当然のことで。
 唯一の欠点と言えばやはり個性を使っていることが周りにも明らかになることだろう。爆豪にも言ったことはなかったが行使側―つまり依里だ―に取り付けられてある糸は隠すことができない。例え手袋で指を覆うとも、包帯で巻こうとも浮き上がって見えてしまうのである。周りの目から自身の手を隠すように生活する以外は現状方法はない…元々隠すつもりもなかったし、依里的には相手を言うつもりさえなければ寧ろこれは牽制にもなるのだとそのままにしていたのだが―――そう、相手にもよる、これに尽きる。ある程度の相手であれば大人しく諦めていたかもしれないが、はた迷惑にもそれ以上の相手であれば話が別になるのだ。現にこの男は自分以上のステータスを持つ人間は居ないと見て敢えてこうやって話しかけてきている。
 つまりさっさと爆豪との契約を解除し、自分にその個性を使えと言っているのだ。自分以上の相手はいないだろう? と自信満々に。

「頑固な君が契約する相手なんだ、よほどいい人なんだろうね?」

 依里としては大して知らない人間と運を共有するような個性を結ぶほうがどうかしていると思うのだが。…ああ、そうだ。爆豪もあの時初めて出会い、互いに何も――特に爆豪なんて依里の個性が何かすら知らないままだったっけ。依里にとって契約の相手を慎重になるのは当然だと思うのだがこの辺りは目の前の男と一生理解し合えないところなのだろう。あくまでも向こうは依里のことを便利なツールとぐらいしか思っていないことがよくわかる。
 それにしても、依里のことを頑固ときた。自分のことを知らない人間に勝手に評価されるのは良い気がしないが、相手の最後の言葉を思わず復唱し、それから思わずフッと口元を歪めてしまった。

 『いい人』

 そう、確かに依里にとって契約者である爆豪勝己は超優良物件であった。自分に何も求めてこないし、好ましい距離感。さらに彼自身、強い。ヒーロー科に所属しているあたり成績も優秀なのだろうとわかる。しかし、いい人かと問われれば…はて、と首を傾げざるを得ない。本人にとっては至って普通なのだろうが本当にヒーローを目指しているのかと問いたくなるほど言動が粗暴だ。自分の父親がヒーローをしているので余計にそう思ってしまう。かと言って今さら丁寧な口調になったところで肌寒さを感じてしまうのだろうけれど。

「っ、笑うんじゃない!」

 男はそんな依里の想像に気付かない。なぜ笑われたのか分からず、バカにされたように感じたに違いない。そうだ、すぐに手が出る相手なのだから気をつけなければとついさっき思ったばかりなのにどうして忘れてしまったのか。
 時すでに遅し。少し距離をとった状態ではあったが、ほんの数メートルの範囲のこと。相手の個性が何だったかは覚えていないが手を振りかぶる動作をしたことで、殴られるのだと冷静に判断する。…ああ、せめて痛くないといいんだけど。

 ―――パシンッ!

 小気味のいい音が響き、しかし覚悟していた衝撃はない。
 反射的に目をつぶっていたのでその瞬間を見ることはなかったが、男の手は依里に振りかざされる前に誰かによって妨害されたのだと知る。誰だか分からないのは、その手が依里の背後から伸びていたからである。

(……あ、)

 けれど、それが爆豪のものであるとすぐに分かったのは鮮やかな赤い糸がその手にしっかりと巻きついてあったからで。

「…っ、また君か!」

 言動が横暴だとしても、仮にも相手はヒーロー科。そして男にとってはどうあっても腕力で敵わない相手だ。
 さらに、この状況。明らかに男にとって不利である。
 依里の後ろにいる爆豪がどんな表情をしているのか、依里には分からない。ただ、男が知りたがっていた契約者。例え依里と爆豪が横並びになっていても彼が契約した相手であるとは当事者が言わない限り分からない仕様になっているとは言え勘のいい者なら察してしまうかもしれない。何たって以前もこんな状況を互いに経験しているのだ。
 もちろんこんな面倒なことに巻き込みたくはなかったので彼らが言葉を交わすのだけは阻止しなければと依里は思っていたの、だが。

「……いや、まあ、いいか。どうせ君ではないだろうからね」

 なんと驚くことに、男はフンッと鼻息荒くそのまま教室を出ていってしまったのである。明らかに分が悪いと判断したのだろうが、まさか会話することもなく相手が去っていくとは思ってもおらず依里はポカンと口を開けたまま男の背中を見送ったのである。

「…何だったんだアイツ」

 残されたのは心底不思議そうな表情を浮かべた爆豪と自分だけ。
 どうしてこの教室に来たのか。もしかして助けに来てくれたのだろうか。まるで狙っていたかのようなタイミングで現れてくれたし今日は驚くようなことばかり起きる。
 本当は感謝の言葉を述べなければならない。依里も被害者であるとは言え、あの男から救われたのは二度目のことだ。だけど、

「……『いい人』じゃなくて良かったね」
「喧嘩売っとンのか!?」

 言いたいことはどうしても言っておきたい。
 案の定、爆豪はすぐに噛み付くように怒声をあげ、依里はケラケラと笑うのであった。


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