日常クライシス


「Mamma mia!」

 あまりボキャブラリーに富んだ訳ではない私ですら大げさに表現してみせる程度に目の前の風景は衝撃的だった。
 長い移動のせいでギシギシときしむ身体をうーんと広げながら今の気分を表す最適な言葉を考える。

「とても楽しみにしていたチョコレートケーキを食べる瞬間に野菜サラダに変えられたって感じよ今の心境としては。ほんとに。因みに別にサラダが嫌いで非難しているわけじゃないし寧ろ好きな部類ではあるけどこれはこれでまた別の話だしそもそも、」

 ベラベラとよく話す時は案外混乱している証拠で、ああ一体これはどういうことなのだろうかと誰かに自己紹介をしているような気分にもなる。
 そして、結局冒頭の言葉に戻るのだ。

 ――いやだって有り得ないでしょ。

「黒曜中学、ね」

 この場所に立って既に数分が経過しているけれど何度見返しても目の前の現実は私の想像に近しいものになる訳はなかった。
 もう一度、見間違えではないことを確認してから盛大に溜め息ひとつ。
 変わらないものは無いのだということは頭で理解はしているつもり。けれどこの数年でこんなに変わってしまうだなんてやはりショックには変わりないし、昔はこの前を通るだけでもどきどきしていた事があるだなんて今じゃ絶対口が裂けても言えない。黒歴史だわ全く、もう。

 私の記憶にある、そして幾度も夢にまで見たあの建物がどうしてこんなものに成り下がってしまったのだろうか。
期待に胸を膨らませた数刻前に戻りたい。戻って、家に帰りたい。そして寝たい。

「捕まえろ!」

 残念なことに感慨に耽っている間も悲劇のヒロインである私には与えられなかった。
わあっというタダゴトではない悲鳴が聞こえたのでそちらに目をやると正面玄関から走ってくる男子を追いかける数名。単なる遊びじゃないと遠目から分かるぐらい彼は恐怖に顔を引きつらせ、そして原形が無い程に顔が膨らんでいた。
 それでも逃げるのだから余程後ろの連中は恐ろしいらしい。

 ああ今どきの鬼ごっこは鬼が複数いてそして棒を持って追いかけ回すのか…いやいやそんな訳ないでしょう等と最早失望でいっぱいの私は適当に馬鹿らしくも一人突っ込みを行っていたところで男子は外に逃げようと思っていたのかだんだん近付いて来てばっちり目が合ってしまった。

「に、逃げ…」

 走りながらなので聞き取り難かったけれどどうやら私に逃げろと忠告したいらしい。
そこで『助けて』なんて言ってしまったらこの男子生徒はきっと後ろの鬼に捕まることなく倒れることになっただろう。いやでもちょっと待って貴方ならそれも特別にクリア出来るかもしれないけれど。
 兎にも角にも命拾いの君は今日からハッピーになれるわね!と一人で男子生徒の勇気に拍手を送りながら私は彼が通った後の門の前に立ち、鬼さん方に向かって「こんにちは」とにんまり笑顔を向けた。

「誰だ、てめ‥」
「って名乗るような人間ではないんですけど」

 ひいふうみい。
 指先で人数を数えてスカートの裾を摘んで小さく挨拶。立派なジャパニーズレディには必要な作法だと教えてもらったんだもの。完璧よ。
 そして名乗る必要性はまったくもって無かったのだけど、今回だけは特別出血大サービス。初回限定ね。

「ユウと申します、宜しくー」

 さあさあお兄さん方、目に身体にしっかり焼き付けておいてくださいな。
 歌うように告げると7人の間に割って入り、彼らの手にする棒を奪い取ってから首筋に手刀を叩きつけてはい終わり!
 ぐったりする全員の顔を数秒見つめ記憶すると立ち止まってしまった男子生徒に近付く。
 ああ、見間違えようもない。この感動をどうにかいち早く彼に伝えてしまいたいけど物の順序は大事だね。性急すぎる人は嫌われるのだから。

「もう、大丈夫だからね」

 最高級の笑顔も見れたあなたは世界一幸せ者だよと彼に祝福を。
 ポカンとした彼の顔に笑みを浮かべつつ、無意識だろう、彼が伸ばしてきた手を強く握り「お久しぶり」ともう一度声をかけた。
 ねえ真人くん、君見ない間に随分小さくなったんだね。私びっくりしちゃった。

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