こすぱに!

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 ぼんやりと目を開いたまま世界との離別を待ち続けた。重くなっていく身体は際限がなく、もうぴくりとも動くことはない。瞬きをしたその一瞬は私の家の廊下に、その次の瞬間にはこの世界の様子と目まぐるしく変わっていく様子に、変わるなら変わってしまってほしいと思わないでもない。視界は私の家の廊下と黒曜センターの敷地内にある森の中の二重、そしてこの世界の方で見えているものと言えばうつ伏せのまま顔を横にしている状態の所為で森の木々ぐらいだ。

 早く戻るなら戻ってしまいたい。

 こんな中途半端に長引かせられるぐらいならば絶ってしまった方がどれほど楽か。1秒でも長くいられるならば縋ってしまう。期待してしまうっていうのに。そんな事をしたところで私の世界じゃないと分かっているのに。

 瞬きを、呼吸をすることすら億劫になってきたあたりで私はようやく心の中で安堵すら感じることができた。
 何も出来なかった、何も残せなかったけどこれで帰ることができる。元々この世界に来た時から考えていたことじゃないか。私はこの世界の人間ではないって。戻ることが当然だって。
 …だけど、唯一の心残りは、


「勝手にそんな事しちゃ困るよ」

 頭上から降ってきた新しい人の声が聞こえたのはまさに、全てを放棄しようとしていた時だった。
 かろうじて生きている感覚器官といえば聴覚で、どうやら誰かがやって来たということを知る。私達を捕らえた彼らとはまた違う声だったからだ。

 一気にざわつく空気。その動揺は鎖を通し伝わってきている。ガチャン、ガチャンと揺れる鎖、隣のランチアさんがその衝撃にぐっと漏らす苦しげな声。
 何か異変でもあったのだろうか。復讐者であっても驚くような何かが。
 …まさかこんなところで原作が変更するような何かは起こらないだろうなと勝手に納得し、周りの慌ただしさとは正反対に私はある意味暢気なもので、既にそんな事は一切気にならなくなっていた。
 どうせもうあと数分と経たずに帰る。どうせ元の世界へと戻る。どうせ、…関係ない。
 次に目覚めた時はどうせこの世界、私にとって紙面上でしかない。そう思ってしまうことは恭弥やこれまで私に関わってきた人達に失礼であるとは分かっていてもそう考えてでもしなければ泣き叫んで縋ってしまいそうになる。そんな事をしたところで私の寿命には変わりないと分かっているんだけど。

 でも…誰の、声だっけ。

 その声を聞いたこともなかった。誰だろう、何度もアニメを見てきたはずなのに、アニメの最終話までも見てきたはずなのにその声に記憶はない。
 いや、復讐者は殆ど話しているシーンもなかったから彼らの仲間なのかもしれないしまったく別の誰かなのかもしれない。私にはそれが判断は出来なかった。どうせこの人物が現れたところで私の運命が変わるわけでもない。


「なるほど」

 その声だけは何故だか私の耳によく響く。
 どうやら復讐者の仲間の内だったようで私には聞こえないような場所で何かを話し合っているらしい。
 このシーンが原作でどの辺りに当たるのかは分からないけどそろそろツナ達の方も、医療班によって連れて行かれているところか、とっくに終わっているのだろう。深手を負ったのはビアンキか、恭弥か。…何にしろ皆血まみれで戦ったのだ、暫くは何も恐ろしい事件がないことだって知っているし早く怪我が治るといいな。
 紙面上であっても、流れた血は、受けた傷はこの世界においては本物だ。どうか早く治りますようになんて外部の人間に祈られても仕方ないだろうけど。


「ねえ君、僕の声がまだ聞こえるかい?」
「…、」

 ドンと頭のところに重みを感じられた。これはもしかしなくとも私の頭に誰かが足を置いているのだろうか。生きているか死んでいるのかの確認をしているのかもしれないとすぐその考えに至る。

 今自分の姿を確認する事はできないけど間違いなくさっきまで血を吐いていたし、針が刺さっていたし、恐らく見た目だけで言うのであればランチアさんよりも酷い状況であることは間違いない。痛覚が私にあるのであれば酷いものだったろう。もしかするとあまりの痛みに早々と意識を失っていたのかもしれない。
 …ああそうか、死んだ人間を牢獄に入れるわけにはいかない、ものね。だからランチアさんの解毒も必要だったわけだ。
 その知らない声に反応するか悩んだのは数秒のことで、私は生きていることを、聞こえていることを答えるべく動こうとしたけど指がほんの少し動いた程度ぐらいしか反応することは叶わなかった。


「元気そうで何よりだ。さて、時間はないし手短に話すよ」

 声の主は随分と自分勝手で、それでいてとても上機嫌のようにも聞こえる。
 呼びかけた相手は間違いなく私だ。だけど私は口を開くことはできてももう声すら出ることはない。なのにそれを元気だと断言するあたり何も見えていないに違いない。
 いや、それは今から帰っていく私への、消えていく私への嫌味だったのか。私はどうやって消えていくのだろう。この前は恭弥の学ランが落ちた音が最後だった。ということはやっぱり、私の身体ごと姿が消えるのか。この押切ゆうの身体は残ることはないのかもしれない。死に掛けた、消えかけた人間の頭の上に足を置くだなんて随分と…ううん、彼ららしいといえば彼ららしいのか。


「僕は”君を生かすこと”にした。君は後々きっと役に立つからね」

 もう私はその言葉の意味について考えている余裕はない。
 何だろうか。何の話をしているのだろうか。なんて考えられないほどに眠気が勝っている。かろうじて聞き取れたその発言はどういう意図があったのだろう。

 だけど自分の身体に異変が起きたのはその時だ。
 その言葉が聞こえたと同時に温かいような、冷たいような、身体の内側に巣食っていた寒気が消えるような、寧ろ熱いような…言葉には表せることのできない奇妙な何かを感じながら、視界は一瞬黒く染まる。

 別に視界が奪われたというわけじゃない。
 身体が反射的に震えたのと同時に僅かに目を開くと、気が付けば何だか黒いものがピラピラと舞い、私の視界を塞いだり開けたりしている。…誰かが私の頭上にいてその人の服が映っているのだとのろのろとした思考で考えに至った。だからといって私の身体は変わらず、動くことはない。
 なのにどうしてだろう、先程よりも少し回復したと思えたのは。
 身体の端々まで冷え切っていたそれが少しずつ温かみを取り戻していくように感じられたのは。


「さあ行こうか。コレは外していい」

 彼は、彼らは私にそれらのことを何一つ説明することはなかった。
 ガチャンという大きな音はもうこれで3度目か。重みが消えたことにより何故か首枷を外されたことと、私の頭上からも足が離されたのだと見るまでもなく知ったけれどそれは即ち私は連れて行かれないということ。
 …もう私のことは不要だということなのか。それとも話した内容からして私は見逃されたということなのか。彼らに。私の予想が間違いではないのであれば、それらは彼ら個々の判断ではない。彼らを統括するバミューダ。彼の指示によって。ならば今の声は、もしかしなくても。

 
「…我々は与えることは出来ぬ。作り出すことも出来ぬ。受け取るのみ。甘受するのみ。しかし、」

 捕らえる相手を失った枷は結構な重さがあったらしく、私の首を離れたそれはドンと音を立てて私の目の前の地面へとめり込む。
 せめてバミューダの姿を一目見ようとも思ったけれど私にはその力すら残されては居なかった。ずるずると引きずられ続け、現れた空間につれていかれるランチアさんと復讐者。私はまだ何も考えることも何も発言することもできないまま横たわり、それをただ見届けるぐらいしか出来なかった。

 この低い声は、誰だろう。
 きっと私が実際に見た復讐者の誰かなのだろうけど。その声は私以外に聞こえないように…いや、そもそも私にも聞こえないようにしていたのかは分からなかったけれどそれは誰の返答も期待していない呟きのようなものだった。間違いなくその声音は先程までとおなじ声質だったものの、明らかに個人の意見だったから。


 ――…”おまえには、同情する。”

 結局内容も意味も意図もわからないまま、私はただ押し寄せる眠気に逆らうこともなく目を閉じる。

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