こすぱに!

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 季節はもう肌寒く間もなく冬になろうとしていて、あれから早くも1ヶ月が経過していた。
 特に何かが変わったわけでもなく、ただ本来の私が生活していた毎日がまた繰り返されているだけだというのに非日常を味わったせいなのか色褪せて見えてしまうのも仕方ないのかもしれない。それでももう少しすればこの日常にまた慣れてしまうのが、少しだけ、怖い。


「……」

 玄関の鍵をしっかり掛けると制服のシャツのボタンを一つ二つ外しながら部屋へと歩く。落ち着いていたと思っていたのに久しぶりにあんな日中堂々と思い出してしまったし、頭はまだちょっと痛いし今日は何もかもを後回しにして眠ってしまいたい。
 ヒタヒタと冷たい廊下を歩きながらもうすぐ暖房器具も必要になってくるなあ、なんて考えていると自分の部屋に着く前に通る小さな部屋の前で自然と立ち止まる。
 部屋のドアには可愛いチェーンでプレートがぶら下がっていて、木製の板に桃色で書かれた文字をなぞりながら、読み上げるようにして小さく呟いた。


「”でざいなーずるーむ”」

 忘れもしない。忘れることは出来ない。
 この部屋がキーとなり私にああいう不可思議な体験をさせたのだとわかると少しだけこの部屋に入るのが怖くなってしまった。この部屋に、何があるというのだろう。

 帰ってきた当初こそ警戒はしたけど、だからといってコスプレを止めた訳もなく今までと変わらずイベントは通っていた。趣味は、友人は何も悪くないし私が楽しみだったそれを止めてしまうのは後々後悔するだろうと思ったからだ。今までの私が少しだけ分からなくなったけど違うことは、したくなかった。
 明らかに変わったこと、といえばリボーンに関するものをほとんど、クローゼットの中に入れてしまったことだろう。それからズラリと本棚に並べてあった漫画を手にとる気にもならなかった。
 …もちろん彼らが、彼らの世界が嫌いになったわけじゃない。ただ少しだけ寂しくなってしまっただけだ。ページを捲る度にやっぱり私が体験したことが夢だったんじゃないかと思えてきて。
 あれが夢だと、今はまだ思いたくない。絶対に、忘れたくは、ない。


「…恭弥」

 そう思いながらもあれが夢であればどれほどよかったかと何度願ったことか。
 だけど手を握られたことだって、車に乗せてもらったことだって、背負われたことだって、走って逃げた恐怖だって、…キスをされた感触だって鮮明に覚えている。

 部外者である私がそのリボーンの世界、彼らの舞台から出て行ったところであの世界はきっとこれまで通り何も変わらないのだろう。
 どうかそれならば、彼らが私のことを忘れてくれていればいいとも、思った。あのまっすぐな彼へ送ったメールの通りに。
 次元を隔て、世界を隔てられればもう私は彼に、彼らに会う方法はないのだから。メールの通りだ。私だけが、覚えていれれば。この辛い気持ちを誰かに背負わせるぐらいならば。

 会いたい気持ちと、会えないと理解している自分と。
 忘れたくない気持ちと、忘れなければならないと言い聞かせようとしている自分とが葛藤をしている。その不安がああやって私を責め立てているのであれば早く解決しなければならないとも分かっているのに肝心の答えは出てこない。


 コツリと額をプレートに当てて、目を瞑り、
 ――……その、音が聞こえてきたのはその時だった。


『みーどりたなーびくーなーみーもーりーのー』

 聞こえてきたその無駄に良い声の、誰かの合唱音に瞬間身体が固まったけどすぐに原因が分かって乾いた声が喉から漏れた。衣装製作のモチベーションをあげる為に昨夜は音楽をランダムで流しながらこの部屋に籠っていたっけ。朝もちょっとだけ音楽をかけながらミシンで作業もしていたし、もしかしたら切り忘れていたのかもしれない。
 けれどそれにしてはその歌、流れるにはタイミングよすぎるよホント。幻覚だけじゃなく幻聴まで聞こえるなんて本当私、重症だなって一瞬笑えなかったじゃないか。まあ…キャラソンが聞こえてくるよりはマシかもしれないけどさ。


「……だーいなく、しょうなく、なみが、いい」

 聞き慣れた曲。そういえばこれは彼の着信音でもあったな。私の前で滅多に携帯を出すことはなかったけど、そんな記憶がある。
 掠れた声で何気なくその歌の後を紡いだ。歌には自信、無いからちょっとズレているかもしれないけど気にはしない。


 ―――ぐにゃり。

 視界が揺れる。
 それと同時に触れた扉が、ノブが歪んだ気がして慌てて視線をあげ信じられない面持ちでプレートを見つめた。


(…、まさか)

 この感覚は果たして夢、なのだろうか。
 初めてのことじゃない。これは、この、歪みは……あの時と、同じ?


「っ!」

 そう思ってしまえば、どうするかなんて逡巡する余裕もない。
 半ば反射的にそのノブを回すと何故か後ろから物凄い勢いで何かに引っ張られるような、重いものが乗っかってくるような感覚に陥った。それでも身体は、意志は前に進もうとし、変な引力に逆らいつつ部屋へ身体を滑らせる。
 どうにか入りこみ数歩中に向かって駆け走るとすぐ後ろでドアが勝手に閉まり、その後廊下側からバタン!と大きな音が響く。
 けれど振り返ることは無かった。


「これ、は…」

 目を見開いて”でざいなーずるーむ”の中を見渡す。そこはもう、いつもと変わらない部屋ではなくなっていた。
 ……いや、いつもとはほとんど変わらないような気もする。壁際に並べられたウィッグは私の最後の記憶の通りだし、朝少しだけ作成していた衣装はミシンの前できちんと畳んで置いてある。

 だけど、そこにあったのはそれだけじゃなかった。
 失くしたと、置いてきたと思っていたものが並べられていて声を失う。壁にはディーノさんに買ってもらった紺色のワンピースがハンガーに吊るされ立てかけられ、机の上には恭弥から貰った携帯が。それから、至るところに私が向こうの世界で用意した、ものが。
部屋の真ん中にあるトルソーにはあの時とは違って誰かの衣装はなく、窓の外はいつもの私が知っている風景ではない。
 ドキドキと心臓が早鐘を打つ。期待から?そうなのかもしれない。あの時と同じ光景。そうであるとしたならば、もしかして。かがみ込み携帯に触れようと手を伸ばし、


コンコン、


「!」

 ハッと後ろを振り向くと”でざいなーずるーむ”のドアが誰かの来訪を知らせていた。
 当然ながら私は一人暮らしで、誰かがこんなところにいるわけはない。それに、もしかすると此処は、この向こうは、…向こうにいる人物は、


「…はい」

 返事をしても開けられる様子がない。
 鍵なんて元々ついていないし、泥棒か何かにしては律儀すぎるし。でもこの部屋にいる以上、私は他に何もすることも逃げることもできない。

 …ええい、どうにでもなれ。
 恐る恐る近付いてノブを握る。先ほどとは違って歪む感覚はなく、カチャリと音を鳴らして内側から引き開けるとそこには居てはならない人が不思議そうにこちらを見ていた。

 ノブを握ったまま呆然と立ち尽くす私。「こんにちは」とにこやかな笑みを浮かべ、穏やかに挨拶をする来訪者。その扉の向こうは私の知っている廊下ではなく広大な自然が広がっていた。
 あまりのことに声も出ない。リアクションも出来ない。それでも私の目の前に立ち、私の許可なく部屋へ足を運ぶ、背は高くオッドアイがとても魅力的な彼は私を見てからほぅと声をあげ、


「おや、君は風呂場の」
「き、いっ、ぁっ、」

 よみがえるあの時の記憶。
 忘れてはならない記憶。だって、その、いや、あのちょ、


「いやぁぁぁぁあっっ!!!!!」


 始まるよー!

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