こすぱに!

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 いつもと同じ温もり、柔らかさ。
 目を開けば薄ぼんやりと見慣れた日常が見えてホッとそれに安堵から一息ついた。
 目の前に広がるのは女性であれば誰もが羨むだろうさらりと艶のある綺麗な黒髪、白い肌。黒く長い睫毛、見開かれると青灰色の綺麗な瞳があることは私も知っているけれどそれは今かたく閉じられていて、あまりにも精巧な人形とも思ってしまうほど美しい彼はそれでも小さく肩を上下させ健やかな寝息をたてていた。

 ああ昨日は天気もよかったし布団、干しておいてよかったな。
 いつもよりも断然柔らかなこの感触にきっと彼も満足したに違いない。珍しくも熟睡しているその様子に自然と笑みを浮かべながらもぞもぞと身動きをとろうと思えばやんわりと彼の手が動き私の身体をゆるやかに拘束した。まだ寝ているのか、また抱き枕と勘違いしているのだか。
 思わずふふ、と笑みを零すと『ゆう』と少しだけ舌ったらずな様子で私の名前を呼ぶ声。


『…―――』
『え、恭弥…今、何て?』

 私の耳元へ口を寄せ、何かを呟いた彼の声を聞き取れず。私も眠い眼を擦りながら目の前にいる恭弥へと視線をやった。
 ああ、それにしても。いつもと同じだというのに今日は何だかとっても幸せな気分だ。ずっと、こうして居られたらいいのに。いつまでも、『”いつまでも”?笑わせないでよ』……え?


『…約束したのに』

 瞬間、場所はガラリと変わる。
 周りを見渡してすぐに理解する、ああここは彼と離れた、そして私の記憶最後の場所だ。気がつけば私は制服を着て立ち上がっていた。後ろにはベンチがある。
バイクを手で押して運んできた彼はゆっくりと鈍色に輝くトンファーをどこからともなく取り出し優雅に構えた。その鋭い眼光はただただ私だけを映し、その武器は間違いなく私へと向けられていた。
 込められているのは敵意。恨み。――殺意。


『嘘吐きは、嫌いだ』
『待っ…!』

 静止の声は、彼には届かない。とてもじゃないが私の目では追えないスピードでソレは振りかぶられ―――


ドクンッ

           ガンッ!
「いでっ!」



「藤咲さん大丈夫!?」

 ふらりと身体がよろめき壁におもいっきり頭をぶつけてハッとした。ジンジンとするこの痛みが私のどこかへ飛んでいっていた意識を戻してくれたらしい。いやでも本当に痛い。たんこぶが出来ていないことを祈るばかりだ。
 ブフッと後ろから笑い声が聞こえ振り向くとどうやら同僚達が心配半分、面白半分でこちらを見ている有様で正直死にたくなったけどやってしまったものは仕方がない。課長が居なくてよかった、ホント。絶対腹抱えて笑われていただろうし、しばらくの間はネタにされていたに違いない。


「…頭、割れるかと思いました」
「はいはい割れなくてよかったね。気をつけて帰りなよー」
「すいません、お疲れ様でした」

 ついでに頭の病院も行って来いなんて冗談には笑みで返して私はバッグを片手に同じく帰る用意をする同僚、残業をする同僚に向けて声をかけいち早くその部屋を後にする。
 明日は土曜日。
 土日休みの職場に就き、いわゆる今日は花金だ。ふと社内の廊下を歩いていると化粧室はいつにも増して混んでいて、これから合コンか、はたまたデートなのか良く分からないけど女性の気合の入りようが見てとれる。お昼休みには他の課の人に人数あわせで私も呼ばれたし、断ってしまったけど先輩たちには良い出会いをして欲しいものだ。

 私も一瞬だけ化粧室に顔を出して鏡でさっきの結果を確認。
 残念ながらこの痛みの元は赤くなって額に小さなたんこぶが作られていた。知っている人に見られる前にと猛ダッシュで車へと向かい乗り込む。


「道、混んでないといいな…」

 エンジンをかけてラジオから流れる音楽はこれからの季節に身に染みそうな失恋ソング。お涙頂戴とばかりに心に訴えてくるその歌詞を聞くほど私に余裕はなく、先輩から借りたロックな音楽に変更し、音量をあげる。
 もはやシャウトなのか英語なのかよく分からないその音楽を聞きつつ今日の夜ご飯はもう面倒だし冷凍食品で済ませてしまおうと家へと帰るためにアクセルを踏み込んだ。


 朝がきて夜が来る。
 平日は会社へ行き同僚や優しい上司に囲まれ決められた仕事をこなし、休日は自分の趣味に没頭しコスプレイヤーの友人たちと好きなことをして過ごす。
 これが私の、社会の場。
 生活をしていくために必要な、そして一瞬は捨てようとした場だ。



 現実とはいついかなる時も皆に平等に、そしてある意味非情にできている。
 目を覚ますと全てが夢でした、と思ってしまった方が自分なりに納得できるんだろうなと思えるほどにこの世界へ戻ってきた私に待ち受けていたのは普通の、今までと同様の生活で。


「…ただいま」

 鍵を開け、扉を開こうとしてノブに手を伸ばそうとして一瞬だけ躊躇したけど何やってんだかと自嘲気味に笑いながらギィと立て付けの悪いドアを開く。
 その先は当然ながら私のいつもの家の中が広がっている。
 目を閉じればあの時の事はさっき起きたかのように鮮明に思い出すことが出来た。

 元々、起きるはずのなかった数ヶ月弱あまりの不思議な体験は皮肉にも恭弥の姿をした私が向こうへ行った時と同じ条件、つまり恭弥の姿で重症になったことで終えた。

 体力が尽き、意識を失い、次に目を開けば全てが終わっていた…いや、始まる前に戻っていたという方が正しいのかもしれない。
 むくりと身体を起こせば私は雲雀恭弥のコスプレをしたまま階段の下、廊下で寝転がっていた。時計を見れば深夜3時。あの世界から強制的に返された私は階段から落ちたあの日から数時間も経過していないことを知る。

 まるで長い夢を見ていたような、そんな感覚にも陥った。だって向こうの世界で得たものを私は何一つ持ち帰れていないし、そして向こうに持っていったものは全てこちらに返ってきているのだから。
 けれどそれを夢だと一蹴するにはあまりにも生々しい感情が、記憶が、私の中で渦巻いている。


『……帰って、きたんだ』

 行きの時と違ったのは、私は恭弥の格好をしっかりしていたことだった。これは私の身に最後に起きた、あの事件を解決するために彼の姿になった時のものだろう。
 見慣れた床に見慣れた天井。唐突に戻ってきたその現実に呆然としながら、それでもゆっくりと身体を起こしその格好を脱ぎ捨てる。学ランを、腕章を、それから、ウィッグを。そして、

 ――私は泣いた。
 声をあげて、喉が枯れるまで。
 屋上から落ちたことが怖かったのか、元の世界に戻れて嬉しかったのか、悲しかったのか、それが誰かへの謝罪だったのか、辛かったのか、寂しかったのか、苦しかったのか、後悔だったのか。ハッキリとした原因は自分でもよくわからなかったけれどずっとずっと、涙が尽きるまで泣き続けた。

 翌日には着ていた彼の格好、一式をクローゼットの奥へとしまい込む。
 その後、平日になれば何事もなかったのようにいつも通りの生活が始まり、けれど事あるごとにあの夢が私を、私の心臓を締め付け続け、こうやって突然、夢の中であったり日中に思い浮かんでは私を苦しめていく。

 私はどうしたら良かったのか。
 最後こそああいう風に突然去ることなってしまったけれど少なくともそれまでは人に迷惑をかけることなく過ごしてきたつもりだった。ただその世界の住人ではない私が、この世界に戻っただけ。ただ、それだけのことなのだ。誰も悪くはない。誰も、間違えてはいない。
 私の選択は私が私であるために、リボーンの世界がリボーンの世界であるために何一つ間違えてはいなかった。そうでなければならなかった。…そう思ってでもいなければ私は自分自身の足で立ち上がることもまだ、出来ていないだろう。

 けれど、これだけは間違いなく言えることはある。


「後悔ばかりだ」

 私はあれから一歩も、進めずにいる。

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