こすぱに!

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 押切ゆうの手からクタリと力が抜けた事を確認し、改めて彼女の姿を視界に映す。
 日本人の体型というべきか華奢な身体は、指は、僕が少し力を込めれば簡単に折れてしまいそうなほどに細く、頼りない。僕達のように武力に長けているわけでもなく戦力は到底見込まれるものはないだろう。容姿は至って一般的というものに近い。しかし彼女をそれでも美しいと思えるのはその僕を見つめる両の瞳の輝き。濁り。

 ああ、もう何て。

 自ずと口角があがっていくのが自分でも分かる。獲物を堕とすのはいつだって楽しい。
 黒曜中学校へ出向き、1人の生徒を生贄として用意するあの過程もなかなか悪くなかったが何しろあれは単純すぎた。少し唆せば、簡単に道を外していく。自分の力こそが全てだと勘違いした結果無残な肉の塊にまで堕ちた黒曜中学校の生徒会長…であったモノ。
 誤算だったのはあの人間が戦う術を持っていたということか。それはそれとして楽しめたのではあるがその所為で思ったよりも早く終わってしまった。

 その点、彼女はどうだ。
 押切ゆうは戦うことが出来ない。何の力も持たない非力な一般人だ。犬と千種が連れてきたあの夜、7位の人間の歯を抜くその作業を間近で見た彼女の顔を僕も目の前で見ていたかった。恐らく先ほどのように目を見開き、耐えるように噛み締め、それでも目を背けることはしないのだろう。きっと美しい目をしていたに違いない。
 つくづく、不思議で、異端な女だと思わざるを得ない。
 初めて見たのはこの姿ではなかったがその中身が同じだというのであれば若干貧相になったもののその価値は何ら損なわれることはない。


『”居た”とは、違うけど…君のことは、知ってる』

 違う世界での僕を、僕達を知っているという能力。
 何も説明することなく他の人間の名前を知っていたり、僕がかけたマインドコントロールの存在ですら何気なく把握している事の異質さを彼女は自覚していない。それこそが厄介であり、そして味方に引き入れた場合この上なく強い情報力となる。
 あの時僕と会うことがなければそのまま静かに無力な人間の群れの中で息をしていたのだろうが見つけられたのが僕の運、そして彼女の不運。フゥ太の存在まで識っているということは彼女の知っているその世界はここによほど近いのだ。
ならばゆうの力は僕の今後の役に立つ。

 どうせ抗う術もなければ戦う力もない人間なんて不要になればすぐに捨てればいいだけのこと。
 居なくなっても僕には関係のない、居ればこれからが楽になり、居なかったとしても大して変わりはない存在。最初からカウントされない人間、これ以上ない便利な道具ももう少しで手に入る。

 何の苦労もせず手元へとやって来ることになったゆうはそういう意味でも間違いなく、勝利の女神だった。此方側に居れば、その情報を提供するのであれば僕の歩む道が一層確かなものとなる。その自信はある。
 そして、それに加え今まで見てきた誰よりも美しい瞳をしていた。
 何かに絶望した目。何かを諦めた目。それでも何かに縋ろうとしているわけでもなく立ち上がるための何かを探している様子が見て取れた。これが3度目の再会ではあったが回数をこなすほどにその目は頼りなく、だからこそ儚く、美しくなっていくように見えた。今目を瞑っているのが非常に惜しい。きらりと光った目尻に浮かぶ涙を再度掬い取る。
この手で壊してしまいたい。
 そう思うのは当然の欲求だろう。


「骸さん、そいつで合ってるんれすよね」
「ええ。匂いはないと聞きましたが」

 近寄ってきた犬の問いに答えながらゆうから離れる。
 あの変わった場から一転、恐らくこの世界にやって来ているだろうが万が一、変装や何処かに隠れているという可能性があった。だから犬にだけ別件で命じたことがある。


「んー…あの時の匂いはやっぱしないびょん」

 素早くウルフチャンネルへと切り替え尖った爪で顔にかかった髪を払う。そのまま鼻をひくつかせ確認してもどうにも目的のものは見つけることはできなかったらしい。やがて首を傾げ、カートリッジを外す。
 嗅覚の発達したウルフチャンネルでもあの時の彼女の匂いを捉えることはない。それにゆうの身体に触れてみてもこれは幻覚でも何でもない、紛うことなき実体。あの変わった部屋といい彼女はやはり異質だった。
 それでも感覚としてはただの一般人と何ら変わりはない。その希望に満ちた、前を向こうとする弱き瞳はたった一言で揺れ動く。日辻真人の時のように舞台を用意することもなく、その耳元で一言囁けばいい。


「化物」

 たったそれだけ。
 僕達には理解の出来ない事だが、ゆうはその言葉ひとつで随分と動揺し、そして納得するかのように受け入れ、そして堕ちる。
 押切ゆうという名前はどうやらこの世界における、幼い姿に与えられた名前らしい。
 彼女の名乗った本来の名前、藤咲ゆう。自身が異端の身であることを識りながら、否定することもなく容易く傷付く人間。楽しい楽しい、僕の玩具だ。


「連れていきなさい」
「りょーかい」

 取り敢えずは今、彼女の出番は必要ではない。寧ろこれからだ。
 これらを全て片付け、それから彼女の能力を使う。その時にはゆうの意志などは必要はない。効率を考えるのであれば自身の意志で此方へ来てもらうのが一番便利であるし、出来ることであれば複数の駒に同時にマインドコントロールを用いるのは避けたかったがそれも致し方ない。
 だが今はまだ、彼女よりも重きをおいておきたい人間がいる。


「……」

 意識を失っているままのゆうを担いだ犬がフゥ太の居る狭い小部屋の前を通る。
 ほんの少し視線と身体がそれを追っていたが特にフゥ太の方もそれ以上の反応を起こすことはなかった。

 マインドコントロールの解除方法は相手にとって一番望むことを言い当てる事。
 もしかするとそれを実行するかもしれないと少し懸念もしたが流石にそこまでには至らなかった。
 支配下に置いたままのフゥ太の役割もあともう少しで終わりだ。別に大した負担ではないがそれでもマフィアなんてものに、それらに関連するものにあまり触れたくはない。彼には最後に大役を与えよう。
幼い精神はオメルタを貫き通した所為でランキング能力を閉ざし既に使い物にならず、それでもしばらくは抗おうと躍起になっていたが、今、彼女に与えた言動の数々の罪悪感に押し潰され苛まれているのか抵抗の兆しが完全になくなってしまった。
 まったく、押切ゆうは素晴らしい。
 バタン、とドアが閉まり犬がゆうを連れて行くことを確認すると次の来客のためにソファへと座り直る。

 はたして、その時はすぐにやってきた。
 見張りを命じていた学生が1名、勢い良くこの部屋へと飛び込んでくる。ガラス片で切ったのか相手の武器によってなのか分からなかったが身体中の至るところに切り傷があり血がじわりと床に滲み始めている。既に気を失っているようでピクリともしないがここには一般人とは言え多少ケンカ慣れした結構な人数を連れてきたはずだった。他の人間も恐らく同じようなものだろう。流石、相手はケンカランキングの1位というわけか。


「やあ」

 気軽にかけられる声とは裏腹にこめられている殺意は到底普通の人間が持ち得ぬものではなかった。
 どうだろう、これは当たりなのだろうか。その判断ぐらいはゆうを起こしておけばよかったかとさえ思えたがこれも時間の問題だろう。彼の弱点は既に把握している。
 彼が来ると名前を言わず伝えたそれだけで反応したということは彼女はこれから起こる出来事を知っている。どこまでが彼女の知っている世界と一緒なのかまで聞くことはできなかったが彼…雲雀恭弥と知り合いである可能性が非常に高い。

 これが彼女の、携帯の主。
 機械越しではあったがその声に聞き覚えはあった。風紀委員という秩序を、治安を守る組織。僕の知っている善人、ヒーローというものからは目の前の人間は遠く離れていたが間違いなくこの男こそゆうを匿っていた人間で違いないだろう。つまるところ片鱗であっても彼女の異端、異質性を知っている人間ということだ。
 堕とすには多少高いところからでないと面白くもない。この男こそ一度全てを諦めていたゆうをわずかでも元の状態に戻した人間だろう。玩具の修理は僕の役割ではない。よくぞ彼女を保護してくれていた。よくぞ僕の楽しみの為に元に戻してくれた。そんな気分にもなり「よくきましたね」と訪問を歓迎する。


「ずいぶん探したよ。君がイタズラの首謀者?」
「クフフ、そんなところですかね」

 ――…さあ、始めましょうか。


「そして君の街の新しい秩序」

 輝かしい僕らの、第一歩を。

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