こすぱに!

36  

「お久しぶりですね」

 そこも他の所と大して変わらずお世辞にも綺麗とは言えなかった。奥のガラスが割れていないこととその窓が開いていない所為で空気が非常に澱んでいる。
 朝であるはずなのに部屋が暗いのは日光を遮断するための分厚いカーテンが閉まっているからだろうけど裂けていて、ところどころ穴が空いていた。
 ホラーだとかアクション映画じゃ絶対こういうところにラスボスは居るっていうのはやっぱり鉄則なのか。そこにあるソファに腰掛けているのがこの黒曜編においてのラスボスである骸であることは声を聞けばすぐにわかる。だけど拍子抜けするほど気さくにかけられる声に重みは感じられなかった。


「どうぞこちらに」
「あ、…はい」

 ポンポンと骸のいる場所の隣を叩かれてしまえば逃げ道はない。
 そもそも床には恐ろしいことに誰かの血のような跡、ガラスの破片がバラバラと無造作に散らばっている。部屋を見渡せば元々は家具らしいものはあったけど、どれも不法投棄なのかここの建物がこうなってしまう前に置いてあったものなのか区別も出来ないほど埃まみれで座れと言われたのであればそのソファが確かに一番安全ではあった。例え隣が危険人物であっても。

 このまま後ろを向いて全力ダッシュしたところで外にいる黒曜生に捕まるのが見えているし、骸の一声さえあれば城島や柿本だってすぐにやってくるだろう。
 どちらにせよ私には何も出来ることはないのだ。
 わざわざ骸が避けて私が余裕で座れそうなスペースと、顔をもう一度だけ見てゆっくりと腰を下ろす。
 せめて二人分の体重に耐えてくれますようにと念じながらソファに座るとギィィと嫌なスプリング音が鳴ったもののそのまま私の重さで壊れる大惨事は免れたようで安堵する。そのまま僅かに身体を捻り、隣の骸と目を合わせた。


「…久しぶり」

 骸と会ったあれがいつの話だったのか。
 M・Mが日本にやってきた正確な日時なんかは原作では書かれていなかったはず。そう考えると1週間振りぐらいなのか…そこまで久しぶりな感じもしないけどここのところ毎日がいっぱいいっぱいだったもので時の経過は驚くほどあっという間だった。
 前と違うのはここが私の”でざいなーずるーむ”ではないということ、それから骸が制服を着ていることだろうか。やっぱりどんな人でも制服を着れば歳相応と言うべきか幼く見えるものらしい。まあそれでもツナと同じ年齢かと聞かれればちょっと困るところはあるけれど。


「ぃだだだ!」
「…君は」

 それから骸は少し黙った後、私の方へ手を伸ばし何を思ったのかいきなり容赦のない攻撃を開始した。
 デコピンどころの騒ぎじゃない。思いっきり抓られビヨーンと両側に広げられる私の頬。

 痛い。
 本気で痛い。

 こんな扱い誰からも受けたことはないと言うのにこの人は最初からホントに酷すぎる。私が痛がってから確実に数秒、そのままの停止。骸の手首を掴んで引き剥がそうと奮闘するのも勝てる訳もなく、じゃあ私も仕返ししてやろうかと思ったけどそんな後が恐ろしいことなんて出来るはずもなく。
 結局色の違う目を睨みつけるぐらいしか出来ないという微力な抵抗しかできなかったのが何とも情けない。


「本物ですか」

 ぱちぱちと瞬きされる両方の目。
 キョトンとした表情に近いのだろうか。赤い方の右目、六という文字が見えるその瞳には今にも泣きそうな押切ゆうが映っていて、その時になってようやく理解する。

──…ああそうか。


「これ、骸の仕業じゃなかったんだ」
「僕としてはあの姿の方が良かったんのですが、それが君の正体ですか」
「そうじゃない、けど」

 成程、この世界にやってきた時に押切ゆうの姿になったのは何も骸の所為ではないらしい。
 そうだよね、この姿での私とは会ったことがないのだから知らないのが当然だ。押切ゆうのこの姿がこの世界にいる時のデフォルト。不思議だけどこればかりは私だって分かりかねないことだ。
 だけどそれをどう説明してもいいか分からないでいると「そうですか」と大して興味もなさそうな呟き。

 頬から離された手はそのまま上へ上へ。
 するりと髪に指を差し入れられる。髪を梳かれたかと思うといつの間にか三つ編みが解かれていたらしい。ポイッと無造作に投げられた私の髪ゴムはこの薄暗い部屋ですぐに迷子になってしまった。


「え、っちょ!」

 ついでに眼鏡も外されたけどそれは投げられたら困るもので手を伸ばし骸の手から取り戻す。
 ありがたいことに視力はいいから無くなったとしても支障はないけど押切ゆうとしてのトレードマークを失うわけにはいかない。危ない危ない。
 しかし一体何故こんな暴挙を。
 自由奔放といえば自由奔放なその動きに振り回され、それでもまだ彼の行動の意図は掴めなかった。クフフ、とその時随分久しぶりにその笑みを聞いた。


「交渉をしようと思いまして。僕としては出来るだけ君の意志でこちらに来てもらいたい」
『迷子の迷子のお馬鹿さん。これが最後のお誘いです。君の力は確かに欲しいがそれは今後、また会った時にもう一度交渉しましょう』
「…それは」

 一度断ったことだし、出来ないことだ。
 それよりも私としては早くこの場から立ち去りたい気持ちでいっぱいになっていた。今日がその日であるのであれば、並盛側に襲撃の日であるのなら恭弥がここにやって来る。もちろん私のことなんて関係なく、並盛の秩序を乱した人間を倒しに。この場面にやって来てしまうと何かが狂ってしまう。そんな恐ろしいことに陥る訳にはいかない。
 そんな私の焦りなんて知る由もなくクフフ、ともう一度聞こえる骸の笑い声。楽しげに目元を細め私の言葉を掻き消すようにして言葉を紡ぐ。


「でもその前に会って欲しい人がいるんです」

 私の返事なんて待つはずもない。
 パチンと器用に鳴らされる指。それは狭い部屋によく響き、それからトタトタと小さな音が聞こえてきた。

 …一体何が。

 近付いてくるそれは誰かの足音だと分かったけどこの部屋の暗さではそれが一瞬誰だかわからなかった。
骸と視線を外さずにいたままその音は私達の隣にやって来たかと思うと、骸は私の頬を撫でた後、ゆっくりとした動作で立ち上がり新たに入ってきた人へ場所を譲る。
 ドスン、とまずソファの端に立てかけられたものは大きく分厚い本だった。

 小さな身体でよくこんな大きなものを持てたものだと思ったのはいつの事だったか。

 次の瞬間には私の視界は新しくやってきた彼の顔でいっぱいになった。
 至近距離、白い肌、茶色の髪。私の手に触れるふわふわしたものはトレードマークのマフラーだろうか。そのぱっちりな目で何度ツナが絆されていたことか私は知っている。


「こんにちは」

 だけど今この目の前にいる人は。
 部屋の空気以上に淀む瞳、瞬きはしているものの意志が感じ取れない無機質さ。小さく開かれた口から聞こえてくるのは確かに私の知っている声で、だけど抑揚のないその話し方に思わず身体が震える。

 まずい。

 突然のことに後ろに下がろうとしたもののそれが分かったのか膝に小さな手を置かれ私の足の間に自分の足を割り込ませた。
 完全に逃げ場を奪われ、それでもこちらに身を乗り出した体勢をとった少年は絶対に逃すまいともう片手を私の肩に置いた後、私に声をかける。
 私の知っているようで、知らない歪な笑みを浮かべ。


「こんにちは、非表示のお姉さん」

×
- ナノ -