9:猫の記憶-後編-


「気色が悪いな。吐きそうだよ」

言葉通り胸の悪そうな顔をして、エンヴィーは擦れ違いざまに未登録を撥ね退けた。

「待って、まだ話が…」

追い縋ろうとする未登録に、彼は素早く振り返って指先を向ける。


「それ以上喋るな。全く時間の無駄だったよ。お前は本当にどうでもいい人間だ」

再び丘を下り始めるエンヴィーを見て、未登録は言うなら今しかないと拳を握った。


「待って!…一緒に連れて行って!」

「…はあ?」

「会わせて欲しいの。貴方の、『お父様』に」

瞬間、未登録の唇の動きがエンヴィーの目に触れて焼きつく。
開かれた瞳は、克明に未登録の姿を視界に捉えた。

ホムンクルス達を造り、エンヴィーの記憶を消した生みの親に申し出る。
それしかないと未登録は思った。
エンヴィーが接触して来た今は、連れ立ってアジトへ行くチャンスだった。

「直接会って話…」

「お前、何言ってんの?」

未登録は、突然に肌の弾かれ震える衝撃を覚えた。
エンヴィーが喉くびを掴んだのだと気づく。
彼の作る逆光の中に、くつくつと異様な笑い声が降り注ぐ。


「…会わせろだって?お前が、お父様に…?」

口元が不自然に裂けたかと思うと、エンヴィーは未登録の身体を泥道へ投げ飛ばした。

白い衣服に楕円の斑模様が飛び散り、泥水は薄い布地を広く染める。
息つく間もなく、エンヴィーは倒れ込む未登録の胸倉を掴んだ。

「なんなんだよお前…ッ!なんだってそんなに勘違いしてんだよ!!」

後傾した首は戻らず、前後に揺さ振られる未登録の口から掠れ声が漏れる。
濡れて重さを増した髪は宙に浮き、地表から剥がされた泥の塊はぼたりと背中に付着した。

「外に出られたからっていい気になるなよ…?…お父様にとって、お前は何の値打ちも無い人間なんだ…っ、なのに…!役立たずのゴミの分際で、お前は…ッ!」

矢庭に湧き起こる激しい情動にエンヴィーは息巻いた。

理由も分からず自身を苛立たせていた未登録という存在が、“お父様”と口にする事。
それは彼も知り得ない禁句だった。


「エン…ッ」

その音を遮るようにエンヴィーは叫んだ。

「黙れって言ってんだよ下等生物が…ッ!!」

「!」

突如、未登録は首に強い圧迫を受けた。
迷わず自分に向かって伸ばされる両腕。
その焼き尽くす様な眼光に、本気だと、直感した全身がぞわりと粟立つ。






―――――死ねない。


浮かんできた、唯一の事。

未登録は我に返り、泥まみれの手で腕を掴むがびくともしない。
次の瞬間、しな垂れる黒髪が風に打たれ、エンヴィーの目元に刺し込むのが見えた。
未登録はありったけの泥を両手で巻き上げ、拘束の緩んだ飛沫の中、地面を剥いて駆け出した。
舌打ちと同時に彼女の背を追った、エンヴィーの腕が空を掻く。






…死ねない。

死にたくない。



自分を大切にしてくれる人が居る。



…こんな自分に。

大丈夫だと言ってくれた人が居る。
大事に思って笑ってくれた人達が居る。


だから。







だから人は、
そう簡単に殺される訳にはいかないのだ。








未登録は頂上へ走り逃れながら硝子筆ほどの枝を拾い取る。
瞬時に地面へ一筆の錬成陣を敷くと、迫る影が彼女に触れる寸前、勢いよく手を着いた。

放たれた錬成物は既の所でエンヴィーの腕を薙ぎ、それは音を立てて不自然に曲がった途端、千切れて彼の後方へ飛んだ。

見開かれるエンヴィーの目。
象られた激痛の表情と同時に絶叫が響く。
エンヴィーは損傷した肩を押さえると、地を這う唸りに憎悪を練り、その顔面に激昂を迸らせた。
思わず未登録は後ずさる。

腕をもがれた断面から流れ出る大量の血液が、バケツを返したように地を濡らす。
痛いなぁ、と憤る声が聞こえた時、突発的に胃液がせり上がり、未登録は迫る感覚に身を折ってその場に嘔吐した。

耐え切れず蹲り、喉へ絡む液体に咳き込む。
俯いた目元には涙が溜まり、過剰な呼吸に胸が上下して止まらなくなっていく。

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