9:猫の記憶-後編- 翌日も未登録は丘を訪れた。 夜間の積雪で築いた真っ白な世界は、午前の内に湿った焦土へ身を落とした。 点在する残り火に似た雪と、石炭のように色を濃くした土、何処かで流れる水音。 生き残りの主張は静かな世界の余韻を保っている。 陽の光は諭すが如く潤む全てを反射させ、煌めいて時を押し進める。 前日が嘘のような陽気に、未登録も春物のワンピースで出掛けた。 さらさらとした真白い生地は、歩く度に揺れるほど薄い。 丘陵の麓に着く頃には身体が温まり、思わず後ろ髪を結い上げた。 丘へ続く急勾配の坂道は舗装がない。 陰った道の小脇では残雪が小山になっていた。 除草を施すのみの簡素な通路が、今日は黒鉛の表層を持ってぬかるんでいる。 未登録は水気の少ない箇所を見つけ、弾力のある地面をなるべく真上から踏んだ。 足の角度を少し違えば、表面が剥けて滑ってしまいそうだ。 いつもの風だけは変わらず頬に吹きつけた。 未登録は足の先ばかりを覗き見て、丘を登りつつ考える。 道芝を踏む靴に、薄く土が絡む。 「消された記憶」とエンヴィーは言った。 彼の記憶を消し、再構築したのは誰なのか。 心当たりは一人だった。 エンヴィーの、ホムンクルス達の“お父様”。 その人物が記憶を元に戻せるかは知らない。 交渉出来るかも分からないけれど、他に手立てが浮かばないでいる。 自分の錬金術ではどうにもならない。 もっと人智を凌ぐような、理論さえ置き去りに溢れる力が、圧倒的で絶対的なエネルギーがあったなら。 そう例えば、 あの石のような―――。 「なんだつまらない。大して驚かないんだね」 顔を上げると、映る景色の中に、有る筈の無い色が見えた。 黒い衣服に遮断を受ける見慣れた手足と、気のなさげな顔がある。 「なんで…」 「あんたこそ、なんでいつも此処に居るの」 毎日来てるだろう、と未登録の行く先に立ってエンヴィーが言う。 「私は、」 未登録は彼の鎖骨くらいまで目線を下げた。 一口に言えば、許される気がしたのだ。 この丘でなら出会しても許されると思った。 エンヴィーと行動した、他のどの場所に出向く真似は出来なくても。 此処で徒に待つ分には誰にも咎められないと。 この丘が唯、何処までも個人的な場所であってくれればいいと未登録は思った。 「訊きたい事があるの。貴方の記憶を消したのは…」 「ふうん。お父様の事も知ってんの」 エンヴィーは目の前を塞いでくる長い髪を指先で返して払った。 風足が強まっている。 彼の背後には水気ですっかり重くなった樹木が控えている。 今日は黒ずみ冷えて、根元に座って本は読めそうにない。 「そうだよ。そんな事が出来るのはお父様だけ。だから?」 「それで、いいの?」 困らないのかと、未登録は承知した筈の事柄を尋ねた。 エンヴィーは短く鼻で笑い、別に、と言った。 「俺達と居たなら分かるだろ。お父様の意志なら構わない」 その言葉に、未登録は目を見張った。 エンヴィーの瞳には、何ら情緒的な色は窺えない。 もしかしたら、この世界に。 彼にとって価値のあるものは殆ど無くて。 本当に、無くて。 だとすれば。 彼の見ているその世界は、自分が思うよりも遥かに寂しい景色なのかもしれなかった。 …長く、一緒に居たのに。 この寂しさはなんだろう。 自分と他人とは決して同じ世界に生きてはいなくて。 個を離れた完全な客観が存在しない様に、個々が結ぶ複数の像をどれだけ重ね合っても、それらは等しくはならない。 分かる分からないと首を折り、噛み合うだの噛み合わないだのと言い連ね、繰り返す接触の中で気づく寂しさの先にある世界は。望む願いは。 「不思議で堪らないのはお前の方さ」 自らの素足を汚す泥に構わず、エンヴィーはゆっくりと歩んで来る。 「さっぱり分からないよ。なんでお前みたいなのが俺達と居たのか。なんで生かされたのかもね」 なんで。 頭に問えば思い出せる明確な答えと、そうでない曖昧な感情と記憶が溢れそうになる。 なんで、どうしてと訊きたがっていたのは未登録の方だ。 理由なんてあやふやで、口にせず、言葉にされなかった。 だけど一緒に居た。 相手が笑ってくれるから、ぎこちなくても自分も笑う。 黙ったままでも、一緒に居られるならそれで良かった。 今になってエンヴィーとこんな話をしているのが、未登録は少し可笑しかった。 「…。何笑ってんだよ」 「ごめん。だって、嬉しいから」 「は?」 「また会えて、話せて嬉しいの」 未登録はいつになく純粋な気持ちで微笑んだ。 普段、彼と居る時の未登録はこんな風ではなかった。 蟠りや不安を忘れて笑えるのは貴重だった。 それがエンヴィーの記憶が無いとなると違う。 許しが出るのだ。 気兼ねなく笑い掛けてもいい、彼に思うまま伝えてもいいと。 それが未登録には不思議だった。 [page select] [目次] site top▲ ×
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