9:猫の記憶-後編- 未登録は口元を押さえ、立ち上がろうと手を着いた。 背後の再生音に気づいた直後、泥を踏み散らす足音の近さにはっとする。 エンヴィーは未登録を見るなり、眉を顰めて笑った。 「…おいおい。あまり汚い物見せるなよ!」 次の瞬間、立ち掛けた未登録は体幹の側面を蹴られて倒れ込んだ。 押し寄せる痛みに喘ぎ、樹木の根元でのたうつ。 なんとか身体を起こしたかと思うと、首元に鋭くエンヴィーの手が絡み、木の幹に叩きつけられた。 麻痺するように身体の感覚が無くなる。 それきり動けなかった。 葉を落とした枝々が格子状に重なる下で、二人の間に落ちるのは沈黙だけで。 掴まれた首をそのままに、未登録は虚ろな目でエンヴィーを見上げた。 「仕事以外で殺す事ってあまり無いんだけどさ」 色を変え始めた午後の光に透け、薄紫の瞳が見下ろす。 エンヴィーは笑っていた。 「でもなんでだろうね、あんたは殺してやりたくて堪らない」 「…っ、」 首の圧迫が益々強まり、未登録の顔が苦痛に歪む。 「別にいいよね。エルリック兄弟には人質に丁度いい人間が他に居るんだし?」 何気無い風のエンヴィーの言葉に、未登録は戦慄した。 ―――人質。 それは確実にエドとアルの大切な人で、 自分も知っているかもしれない人で。 「ああ!そうだ。あんたを殺しちゃえば先々で真実味があっていいかもね!実際に一人死んでりゃ奴等も変な気を起こさないし、脅しに過ぎないと舐められずに済む。…ああ。って事はやっぱりこれも仕事なのかな?」 「…エン」 口を開いた直後、勢いよくナイフが振り下ろされた。 未登録の顔の輪郭線から数ミリ横、樹幹に突き立てられた刃。 ぷつりと頬に血の破線が引かれ、巻き込まれた髪は胸元に落ちた。 暗澹と冷めた瞳が、ただ未登録を見下ろしていた。 「まだ死にたくないでしょ?」 エンヴィーは少し笑うと、樹皮へ押し込んだナイフを引き抜いた。 未登録の下顎に、すらりと切っ先を宛てがう。 「呆けてないで命乞いするか抵抗するかしなよ。…死ぬよ?」 彼女の身体を縛り付けている左腕に力が籠る。 絞まる首に生理的な涙が滲んだ。 殺される訳にはいかない。けれど未登録は本能から激しく抵抗したりはしなかった。 今のエンヴィーに必死さを見せてはいけない気がした。 より早く終わってしまう気がしたのだ。 ある種の均衡を保ち、密かに命を守るような奇妙な状態になる。 未登録はゆっくりとエンヴィーの腕を掴み、力を相殺しようと押し返した。 冷たい瞳が、物を見るような目でこちらを見ている。 ふと記憶がよぎる。 この場所に、丘の上まで手を引かれた事。楽しくて笑った事。 それから…、それから。 沢山ある。 心の内に、辿れる幾筋もの淡い紐がある。 引けば身の内に描いた記憶の断片は幾重にも積み上がる。 それがどれ程に心強いものか、彼は知らない。 記憶のある彼が冷めるのと、忘れられるのとではどちらが寂しいか。 「…っ、エンヴィー」 未登録は、薄く口を開く。 「まだ分かんない?知った顔で口にするなって言…」 「っ…大嫌い、」 一瞬不意を衝かれたエンヴィーの顔。 その形相のたちまち崩れ去る様が、明滅する光へ包まれ始めた未登録の視界に映る。 「…貴方なんて…、大嫌いだった…っ」 「何言ってんの?」 何の冗談? 蔑み笑うと、エンヴィーは目の前の首を絞め上げる。 そろそろ終わらせてあげようか、そんな声を遠くに聞いた。 時が経つと共に縹渺とする視界。 残る息は少なくなり、未登録の意識は淡く白んでいく。 「エン、ヴィー」 先の言葉は、もう喉から出そうもない。 ふと未登録は笑おうとした。 何処まで愚かなのだろう。 この腕はずっと、近くにあったのに。 私、貴方と居ても ちっとも、より良くなんてなれない。 目の淵に溢れるのは何の涙なのか。 記憶を捲れば、最後にはあの扉の前に立っている。 貴方の声に振り向く自分が。 人として、より良くなれていない。 それでも今、笑う事は出来る。 何より大切なものが、 この記憶が、まだ此処にあると気づいたから。 心に深く傷をつける記憶も、生きてきた証なら。 自分についた傷も、 自分がつけたかもしれない傷も。 まだ、覚えていたいのだと。 エンヴィーは無表情だった。 他色を移しようのない色彩で、その目に隠微な情感を塗り込める。 彼は落ち着いた様子で瞬いていたかと思うと、向けていたナイフを持ち替え、 音も無く、未登録めがけて振り下ろした。 [page select] [目次] site top▲ ×
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