9:猫の記憶-後編-


唐突に忘れられるのと、「嫌になった」と言われるのと。
一体どちらが寂しかっただろうか。


吹き抜ける冷たい風が、耳元を震わせる。
上空の雲を伸ばしている。

冬枯れの小高い丘の上。
頂上に立つ樹木に寄り添い、未登録は眠る様に膝を抱く。
風音が強くなると、睫毛の奥の瞳は数枚のメモを挟んだ書物に向かう。
真横からの風に忙しく交差する前髪。
揺らぐ瞳には細かな赤が差し、目元には染みる様な陰影が落ちた。

二週間近くが経っていた。
今の未登録にあるのは寝不足の身体と、どうにも出来ないという実感だった。



「……」




“ねぇ?未登録。”


未登録の心臓の辺りが、内側から痛む。

徒に呼ばれた名前。
その響きに含まれた僅かなニュアンスが示したのは、エンヴィーの話の信憑性だった。
本当に記憶が無いのだ。
伝わってきた感情は希薄だった。
無関係な者の名を呼んでいる、彼の渇いた潜在意識が透けていた。


エンヴィー、と唇に乗せてみれば。
ぞんざいな彼の呼び方に比べ、未登録のそれは湿っぽい。
「名前を呼んでくれるな」とは狭い了見だった。
記憶が無いから、つまりは気安く呼ぶなと。

変なの、と未登録は思い返す。
エンヴィーの名前なら、時々は人間に知られていた。
ホムンクルスが互いの名を呼び合うから。
すぐに殺された者を含め、人々は知り得た彼等の名を当たり前に呼んだ。
自分の記憶が確かなら、だからといってエンヴィーがこの間のような注文をつける所を、未登録は見た事がなかった。



「……」

…だから、なんだろう。

頭の中が真っ新な紙に戻る。
「何故」という疑問が、未登録の信頼する程には役立たない。
思考は建設的でなく、微かに青みか黄みかを感じる白紙の上を散漫に撫でて振り返るばかりだ。

彼は記憶を失って困っている風でもなかった。
エンヴィーの言った通り、未登録に関する記憶だけが綺麗に抜き取られているらしかった。
数年分の記憶を、その整合性を保ったまま、特定の人物に関わる部分だけを消して再構築する――。

とてもではない。
高度過ぎる、そんな普通の感想が未登録の中で圧倒的な重みを持つ。
誰にも、俄か仕込みで手を出せるレベルの領域ではない。
そんなものをどうやって元に戻せる。

本を開いたのも、ペンを走らせたのも。
何もしないでいるよりはと。
未登録がせめて自分の心を落ち着かせる為だった。


…そういえば、元気は良さそうだった。

今の状況での、良い点を探した結果がそれだった。
これだけでも幸いだった筈だ。
思えばエンヴィーは少し前から様子が違っていた。
ビルの崩落よりずっと前から。結局あれは何だったのか。
おかしいと感じた時に尋ねていたら、知ろうとしていたら、何か変わっていただろうか。

今とは違う、今があったのだろうか。


書物を抱え込むと、未登録はもう一度膝を抱いた。
顔を俯けても、射る風は冷たい。
やがては降雪の気配が耳元を突き、凍えた大気は冴えて、しんしんと降りてくる。








“いつか、全部終わるから。”





エンヴィーの言っていたように、いつかは全てが終わる。
嬉しくても、辛くても。
いつかは自分の手の届かない明日が来る。

それなら。



それなら、もっと伝えておけば良かった。
もっと、怖がらずに名前を呼んだら良かったのだ。


常にいつ途切れるかもしれない「今」を、
仮初めの常態を享受しているのだと理解して。


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