8:猫の記憶-中編-


何にでも自由に姿を変える彼が、別人の姿になった時は勿論見分けなんてつかなくて。
不意に知らない声で呼ばれ、その後初めてそれがエンヴィーだと気づかされるのが常だった。

だけどあれは、ごく普通のありふれたあの人間の顔は、彼が時々使っていた顔だったから。


だから私は、彼の名前を呼んだのだ。












自分の息遣いが未登録の鼓膜に響いていた。
呼ばれた名に、男の白髪混じりの頭が振り返る。


「…よく分かったね」

借り物の声で答えると、エンヴィーはあっさりといつもの姿に戻り、彼女と向き合った。

それほど長く会わなかった訳ではない。
ほんの少し前まで一緒に行動していた。
ただ、ビルの崩落の中で見た姿が強烈なイメージで記憶されている未登録には、彼の姿がどうしようもなく懐かしく感じる。
何事も無く整った肌に、その胸を撫で下ろした。


一緒に帰りたい。
一緒に、連れて帰って欲しい。

内から湧いてくる気持ちを、未登録が言葉にしようとした時だった。


「なんで付いて来たの」

至極面倒臭そうにエンヴィーは言った。

何かが未登録の中で大きくぐらつく。
煙塵の中で見たラストの瞳を思い出す。


「エンヴィー…」

自分の感じていた不安を、現実へ引き寄せてしまったのだろうか。
大佐達に捕まった時点で裏切り者になっていて、そして…。


その時、視界の隅で黒髪が揺れたかと思うと、急に距離を詰められた。
未登録は驚きに顔を上げる。


「呼ばないでくれない」

「え?」

「名前」

エンヴィーは笑っていた。
至近距離で見上げた瞳は冷ややかで。


「さっきから…、苛々するんだよね」

路上の隅まで染み始める夜気が触れる。
未登録の上半身は不意に、がらんどうの様に頼りなくなる。


「私…、」



「未登録!」

その時、立ち竦む未登録の後ろからエドが駆けつけて来た。

「…エド」

「はは…しっかり現れてんじゃねぇか」

複雑な道のりを追って来たエドは、自分の勘も捨てたものじゃないと漏らす。
両膝を掴んだまま肩で息をして顔を上げないエドに、未登録は思わず近寄った。


「エド、大丈…」

「毎度、事後に追いついたんじゃ何にもならねぇからな」

少しの笑顔が未登録に向けられる。
その瞳に映るのはきっと、今日の光景ではなかった。
それに気づいて目元を歪めると、未登録は渇いた口を結んだ。

未登録は殺され掛けたのだ。
確かに、エンヴィーの手で。

どうして刺されたのかよりも、どうして生かされたのかばかり考えた。
結局、何も分からなかったけれど。

その延長線上でしか結べない関係でも、近くに居た。
呼べば届く名を呼んで。
思い出せる小さな出来事なら、未登録の中に沢山ある。
だからこそ先程から、肺に開いた穴から風が抜け続ける様な虚しい心地がするのだ。







…だって、笑ってくれてたから。



だから。





彼の側にどんな事情が生じても、少なくとも再び会った時にこんな空気になるとは未登録は想像しなかった。


「はぁ。なーんであんたまで付いてきちゃうのさ、おチビさん」

当然の如くエドは最後に添えられた呼び名に憤ったが、エンヴィーは素知らぬ顔を決め込む。

「随分久しぶりだね。研究所以来だっけ?」

「…は?」

いつの話だ、と合点のいかないエドだったが、まあいいやと軽く受け流すと、改めてエンヴィーの前に歩み出た。



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