3:その日のふたり




住宅地を抜けると街の外れと言える場所が開け、そして小さな丘に辿り着いた。
其処には、申し訳程度に枯れ葉を纏った一本の大きな樹木が身を晒していた。

街の中心の家並みが遠くて。
山の向こうに日が隠れ、東から深い青が頭上のドームを染め始めると、
夕日の名残と夜の色彩が同じ空に流れて清らかに透けた。
夜空と呼べる色になった辺りに星が浮かぶ頃、地上にも小さな灯りが燈る。

遠く遠く。


街も空もよく見える。
遠いからこそよく見渡せる。
風に夜の匂いが混ざって、今日一番の静けさが辺りを包んでいた。

この時のすべてが美しかった。



ちらりと隣の横顔を窺うと、エンヴィーも遠くの街を、遥か遠くの景色を見つめていた。
その目は何の感情も宿さず、そしてやはり何処か冷たく。
ただ見ている、という風だった。


遮るものの無い空。
遠く街を一望出来る場所。
何年も、何百年もこうして終わりを見ていたのだろうか。




此処はきっと、彼のお気に入りの場所なのだとぼんやり思った。

と同時に、冷たい夜風が吹き付ける。
未登録は身を震わせると、唐突にくしゃみを一つした。
エンヴィーはきょとんとした瞳で振り返る。
今日何度目になるか、彼女はまた頬を染める。

エンヴィーは吹き出して可笑しそうに笑った。

「あ〜あ、そんな格好してるからだよ」

髪の先っぽに、長い指が僅かに掠める。
確かに今日の未登録の服装はこの時期にしては薄着だ。
しかし、エンヴィーは其処まで言って、ふと自分の胴体に目をやる。
未登録も彼を見つめる。

「…、まあ、俺は人の事言えないけど」

若干決まりが悪そうな彼に、今度は未登録が吹き出す。

「あはは、エンヴィーの方がよっぽど寒そうだよ」

思わず笑った。
明るい気持ちが溢れて笑い声になる。
いつになく素直な言葉が、あまりに彼らしくなくて。

涙目になりながら見上げると、エンヴィーが驚いた様な、複雑な顔をしてこちらを見ていた。


「…」

もしかして気に障ったのだろうか。
沈黙と視線に、開いた気持ちが急に萎縮して未登録は縮こまる。


「ご、ごめん…」

「…なんで謝んのさ」


「…あっ」

怒ったような声と一緒に、強く抱き締められた。

未登録が僅かに身じろぐと、背中に回された腕が強まる。

それは想像よりずっと温かくて。
長い髪が目の前で揺れて触れて。

「……」

おかしな事かもしれないけれど、抱き締められる度にいつも、「いいんだろうか」と思う。
そう感じながら離れていかないでと乞う。

この腕が、欲しくて。
戸惑ってばかりいる。
目の合う距離を得る度に欲深さに気づく。
ただこの人が好きで。

心を許すほどにきっと怖くなる。


苦しくて、嬉しくて。





見上げる本物の空は頭の中のそれよりずっとずっと綺麗で、
背中の向こうにある街は、今も優しく其処にあるけれど。






未登録は、そっと目を伏せる。
恐る恐る肩口に顔を埋めて、










震える手を伸ばして。




























「…最近」

白い息を吐きながら、ラストが言った。

伸ばした爪を獲物から引き抜くと、白い地面にぱたぱたと濃い赤が散る。
任務中、大方仕事が片付くといつもラストは決まって無駄話を持ちかけてくる。
どうでもいい話だと眉を寄せながらも、暇だから俺もそれに付き合う事にしている。

人間によると今日は底冷えしており、街は初雪だと騒いでいた。
そういえば昨夜、明日は雪かもしれないと未登録が言っていたのを思い出す。
一日中部屋に居るのに未登録には空模様が分かるらしかった。
俺はといえば、外に出ても尚、この季節の持つ冷たさが遠い。


「最近、変わったわね。あの子」

誰の話かはすぐ分かった。
今朝もラストは未登録と顔を合わせた。
再三覗くなって言ってんのに、どうも未登録の部屋に行けば俺が捕まると思っているらしい。


「そう?」

「ええ。あの子だけじゃなく、貴方もね」

貴方も。
其処まで聴いて意味が分からなくて思い切り怪訝な顔をした。
赤い目と唇が悪戯っぽく笑む。

未登録は、確かに少し変わったかもしれない。
外に連れ出したあの日から。

前よりももっと、強い目をするようになった。
純粋な何かに満ちたみたいに。
何故だかは分からない。


思えば連れ帰ってからずっと弱々しくて、ずっと苦しそうだった。

どうしようもなくて苛々する反面、やっぱり駄目かな、とも思った。

あいつの痛みを軽減するには兄弟の所につれていくしかない気がしていた。

あいつらの姿を見た途端嬉しそうに目を和ませて、笑ったあいつ。
その顔が見たかったのに不本意で、心が痛いのが分かった。

吐いた言葉は全部本当の事で、賭けみたいなものだった。


いつだって思う。
人間達のところに帰る気なんじゃないかって。




夕方の光の中の未登録はまるで拗ねた子供みたいだった。
そして子供は酷く寂しげだった。

いつもそうだ。
近くにいるおチビさん達に泣きつくのかと思えば、そうはしない。
だから手を引いた。





今も鮮やかに思い出す。

つい抱き締めて。
何も言わないから必要とされてると錯覚しそうになった。

何処までも空っぽな景色の中。
伏せられた瞳と、
怯えるように応えた指。



くらくらした。








「…いい加減、にやにや笑うのやめてくんない?」

帰路につきながら、ずっと妙な笑いを浮かべているラストの顔を睨む。
ほんとにこの女は何が言いたいのか。
段々苛々してきた。


何が変わった?
きっとそんなには変わってない。


だって遠いままじゃないか。



何が変わったか言ってみなよと吐きかければ。
予想に反してすぐにラストは、変わったわ、と返事した。


「貴方達、笑うようになったじゃない」
















いつもの様に部屋を訪れると、未登録はベッドで眠っていた。
真夜中だから当然なんだけど。
一人溜め息を吐いてベッドに腰掛ける。
これまた何故かは分からないがあの日からよく眠っているようだった。
寒いのか、身を小さくして布団にくるまっている。

やっぱり今日は寒い日なのか。

ぼんやり思いながら探してきた毛布を上から掛けたら、温もりに安心したのか、寝顔がほっと緩んだ気がした。

シーツに散らばった髪に思わず手を伸ばすと、触れた頬は俺の手よりずっと温かかった。


「…なんで逃げないの」

ぽつんと呟いた。
今更逃がす気は無いけど。



俺を選んでくれたと思ってもいいのだろうか。




答えは今も分からないまま。




小さく息を吐く。
そろそろ次の仕事の時間だった。
だけど、触れていた手を離そうとしたら、逆に指を掴まれた。
驚いて中腰の状態で固まっていると、未登録は小さく唸った。

「ええと…」

「……ん」

絡まる指を剥がそうと触れたら、ゆっくりと目蓋が開いて不明瞭な瞳が覗いた。



ぼんやりと絡まる指を映して。
色んな物が混ざっているだろうに純粋な光を帯びて、それは溶けた雪の雫に似ていた。

未登録は俺の顔を見つけると、その時、ふわりと嬉しそうに微笑んだ。

淡く瞬いた瞳はその後すぐにまた閉じて、細い指はシーツの上にするりと落ちた。




「……。」

それは一瞬で、なんだか幻のようだった。





そしてラストの言う通り、
その日の俺も笑っていたかもしれなかった。

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