3:その日のふたり 「ねぇ、一応隠密行動中って事忘れてない?」 「そう思うならついてこないで。貴方が居ると余計に目立つから」 「…相変わらず生意気な事言ってくれるね」 さも嫌そうに呟いた後、それはすぐにくすくすと笑う声に変わった。 頭の後ろに痛いほど視線を感じる。 懐かしむような笑みを浮かべている彼の顔を想像してしまって、溢れる何かに意識を占領されて一層苦しくなった。 未登録は顔を赤くしながら、益々早足になる。 なんでこんなにも伝わらないのだろう。 どうしたらいいのだろう。 「言葉など要らない」なんて誰が言い始めたのか。 辺りには民家が続き、商店の並ぶ街の表通りと違って人通りはまばらだった。 道を行く一人一人の顔がよく見える。 確かにエンヴィーが言うように、人目を憚る二人が歩くには不向きな場所だった。 行く先に見えるのは凍り始める空気と対面する暖色の煉瓦、遠くなる夕日に照らされるのは曇った窓硝子。 空が薄暗くなるにつれて、温もりが家々の中に篭っていくようだ。 「……」 何処からか流れてくる熱気。 家に帰り着く人々と夕食の支度。 大体の準備が整えば、呼んで、呼ばれて。 感謝して、愛おしんで、今日の日にあった事を語りながら………。 自分で嫌になる。 何度も何度も、何度でも同じ連想をした。 その日の終わりが来る度に、回転する影絵のように頭の中に浮かぶ情景。 人家から漏れる湯気に目を留めると、それが視界の中でもっと白いものと重なった。 もう一度息を吐き出すと、それは鋭い白となって現れて、空に消えた。 「…もう、冬ね…」 足の先が冷たい。 靴の中で指を折る。 もうじき日も落ちる。 「お母さん!」 その時、空に声が響いた。 歩みを止める未登録。 未登録にぶつかる形でエンヴィーも立ち止まる。 痛い、と小さく漏らされた文句は彼女の耳には入らない。 延びている二つの影。 顔を上げて見ると、同じ道の先で小さな少女が母親に駆け寄るところだった。 母親は大きな買い物袋を抱えている。 その少女のものらしき名を呼んで、微笑んだ。 簡単に捕われて、安易に重ねた。 きっといつか見た風景だった。 きっと、いつか見た夢だった。 母子と行き違うように、向こうから別の親子が歩いてくる。 父親と母親と、手を繋ぐ子供。 絵に描いたひとつのかたち。 楽しそうに笑う、無邪気な明るい声が、未登録のすぐそばを擦れ違って遠ざかる。 何も思わなかった。 正しくは言語化しなかった。 一日の終わりが見せるもの。 空間を染め抜く夕方のオレンジ色はいつも、ただ黙って噎せ返っては、空いた穴に押し寄せ溜まってこの胸を詰まらせた。 息が出来なくなる。 何も言わない。 言いたくない。 思いつく感情のどれもこれも、一つも言葉になどしたくない。 口に出せばたちまち認めてしまう。 寂しいのだと。 「…!」 不意に、未登録の冷えた指に別の指が触れた。 突然の感触に驚き、弾かれた様に振り返る。 その間にも低い温度は軽やかに手首へ絡んだ。 「こっち」 緩やかに、だけど強く未登録の腕を引いて、エンヴィーは一言そう言った。 無表情の彼と一瞬目を合わせた。 足が、ゆっくりと地面を離れて前に踏み出す。 そのまま黙って、手を引かれて歩き出す。 空でもなく家の屋根でもなく、その黒い髪を、彼の背中を見上げ続けた。 もう子供の声は聴こえなくなっていた。 [page select] [目次] site top▲ |