10:帰る場所-後編- 今夜は新月だから、 手元がよく見えないんだ。 闇夜の合間を縫い、闇の中の闇に潜み、目的の建造物に飛び移る。 遥か下を見下ろすと、小さく二つの影が見えた。 新月の夜にもあの髪は白く浮き上がる様に光っていて。 あんな小さいのにこんなに目障りだから凄い。 「…鋼のおチビさん達も来てるみたいだね」 「わざとらしいわね」 知っていた癖にと、ラストは夜風に吹かれながら、いつもの呆れ顔で答えた。 「さてと。じゃあラストはおチビさん達をよろしく〜」 ひらひらと胡乱げに手を振って。 屋上のフェンスに足を掛ける。 「いいけれど、お父様はなんて仰ったのかしら?」 「悪いようにはしないよ」 言いながら、金網の向こうへひらりと身を翻して。 「まったく困ったものね…」 後ろからラストの演技掛かった声が聞こえたけど、そのまま素知らぬ顔で病院の敷地に飛び降りた。 夜勤の看護婦が数人いるだけの院内。 侵入は簡単だった。 姿を変えもせず、階段を上っていく。 闇の中、刃の表面がぬらりと光る。 ひたひたと自分の足音だけがついてくる。 深い夜に落ちた屋内は、闇に満ちたあそこと少し似ていた。 お父様には、障害になるなら殺せと言われた。 そう命令された。 「……」 僅かにナイフの柄を握り締める。 もう躊躇いはない。 遠く、ある個室の中から物音がした。 窓の枠が擦れる音だった。 廊下の奥へと進み、無防備なその扉を開く。 寒色の闇の中、より暗い人影が音も無く窓辺に佇んでいた。 何処までも真っ黒なのに、見間違えようもなかった。 ほんとに生きてた。 生きてる。ちゃんと生きてる。 そう分かると息が詰まって。 不意に目眩がした。 当たり前の様に、無意識に歩き出す。 この期に及んで声が聴きたかった。 こんなに近くに居るのに顔がよく見えない。 月があれば良かったかもしれない。 もっとよく顔が見たい。 だってもう忘れてしまっている。 自分が記憶している顔や声というものは、いつだって不完全で。 再現しきれない。 だから何度も求めて。 自分の造った虚像に惑わされず、解りたくて。 ああ、だけど。 分かってたんだ。 「…っ、あ」 目が合った瞬間、帯びた恐怖の色。 不意にか細い声が届いて。 そしてその顔が苦痛に歪んだ。 するりと、手の中から凶器が抜け落ちて。 無音の室内で耳障りな悲鳴を上げた。 顔を見たら駄目になる事くらい分かっていた。 苦しめている事も知っていた。 うまく殺せそうもない。 だって今夜は新月だから、手元がよく見えないんだ。 触れる資格なんかないのに止められなくて。 微動だにしない身体を見下ろせば、物々しく広がる白い帯。 その上を、思い出す様に恐る恐る撫でた。 そしてぐっと、歯を噛み締める。 これだけのものだ。 きっと傷が残るだろう。 以前の俺なら喜んだかもしれない。 加害者としてずっとこいつの心を縛れると。 その時、未登録の身体がさっきより強張っているのに気づいて。 泣いているのかもしれない、と思ったけど。 泣く訳がない。 未登録は俺の前では泣こうとしない。 泣いてくれる筈もない。 「殺したいほど憎いのに、こんな事するの…」 絶望の色をした声。 もう苦しませたくないのに。 お前には、 何も伝えられてないまま。 「…違うよ」 お前が憎かったんじゃない。 殺し掛けといて今、 この先は言えない。 だけど俺はきっと。 [page select] [目次] site top▲ ×
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