小説 | ナノ

▽ 卵の中から愛をこめて


卵の中から愛をこめて


 地球の空は青いのだと、ぼくに教えてくれたのは祖父だった。昔から絵を描くのが好きだったぼくが、床に散らかした落書きたち。丁寧に灰色のクレヨンで塗りつぶした空を見て、祖父はポツリと言ったのだ。
「そうか、ルカにとって、空は青いものではないんだったね」
 ぼくは戸惑った。この街から見上げる空は、ただひたすら無骨なコンクリートが広がるばかりで、青い空なんて想像もしたことなかったから。そう言うと、祖父は「そうかそうか」と言って、しわしわの手でぼくの頭を撫でた。そして、幼いぼくをひざに抱きかかえ、地球から見た空の話をぼくに語ってくれたのだ。彼が自分の話を、しかも、まだ地球にいた頃の話をしてくれたのはその日が初めてで、とてもわくわくしたのを覚えている。
「地球の空はね、こことは違って、日によって少しずつ色が違うんだ。薄い水色だったり、濃い青だったり。白いわたみたいなのが、ぷかぷか浮いている日もたくさんあった。おじいちゃん達は、そのわたを雲って呼んでいてね、雲が多い日をくもり、少ない日を晴れ、なんて呼んだりしたんだ」
 ゆったりとした祖父の声に合わせて、ぼくも地球の空をあれこれ想像しようとした。灰色の天井を青く塗って、紐でわたをつるしてみた感じだろうか。それはなんだかとても愉快だ。少なくとも、灰色で重苦しいこの星の空よりずっといい。
「地球は、とっても広い星でね。空もどこまでもどこまでも続いている。よく晴れた日に寝っ転がると、目の前全部が真っ青さ。まるで、心まで飛んでいっちゃうような心地でねぇ、本当に気持ちがいいんだ」
 そう話す祖父は、まるで自分も子供に戻ったような幼い目をしていて、ああ、故郷の空を恋しがっているのだと、ぼくは子供ながらに悟った。そうして、祖父はまるで内緒話でもするような、小さく弾んだ声で、青い空の秘密をぼくに打ち明けてくれたのだ。
「どうして地球の空が青いのか、頭がいい人たちがいろいろ言っていたけれど、おじいちゃんは思うんだ。地球は、この星とは違ってコンクリートの殻を持たない。そのままの姿で、ぽつんと宇宙の中に浮かんでいる。地球の空はそのまま宇宙に続いているんだ。だからきっと、宇宙の色が透けて見えてるんだって」
 ああ、もう一度、あの空が見たいなぁ。祖父は、いまだ夢を見ているような面持ちで呟いた。ぼくは何も言わなかった。この星は、もう地球には帰れないんだって、子供でもよく知っていたから。
 それから数年後、祖父は静かに息を引き取った。やっぱり、彼が地球に帰ることは叶わなかったけれど。それでも、彼が教えてくれた見たこともない空を、その向こうに広がる宇宙を、ぼくは今でも追い続けている。


 真っ白いキャンバスに、筆でぺたぺたと色を乗せる。青をベースに、紫、緑、赤や茶色。絵を描くのは好きだ。頭の中にあるふわふわしたイメージが、少しずつ輪郭を伴って、紙の上に表れてくる。大きく息を吐いた拍子に、ぱたぱたと汗の雫が落ちた。額をぬぐい、ようやく自分が、呼吸も忘れるほど熱中していたことに気づく。 
 ふう、と息をついて、傍らのペットボトルを手に取る。ごくごくと水を流し込みながら、少し絵から離れて全体をチェック。今描いているのは、ぼくのアトリエから見た街の風景だ。現実と違うのは、空が突き抜けるように青いこと。街は空に溶け込むようにゆらめいて、その輪郭を曖昧にしている。
「……やっぱり足りない、かな」
何がといえば、空の深みだ。どれだけ色を重ねても、どれだけ綺麗な青の絵の具を使っても、ぼくが描く空はのっぺりとした、薄っぺらいものになってしまう。うーんと首をひねっていると、ふらっとアルフが遊びに来た。
「よっ! 絵の方は順調?」
「ちょっと苦戦中」
 アルフはどれどれ?とこちらに歩み寄り、キャンバスをのぞいて「おお!」と小さく声を上げた。
「なんだ、ちゃんと形になってるじゃん。ていうかお前、また青い絵描いてんだな」
「うん。まあ、まだ試作だけどね。次の品評会に出す絵、構図どうしようか迷っててさ。こうやっていくつか色を仮置きしてるんだ」
「お前も飽きねぇな。ずっとそればかり描いてるじゃんか。これで何年目だっけ?」
「20年くらいかなぁ。何度描いても納得いかないんだよね……」
「ふうん。絵のことはよくわからないけど、俺はお前が描く空、綺麗だと思うけどな」
 そう言って、アルフはまじまじと顔を近づける。流石に少し気恥ずかしい。
「そ、それで、今日は何しに来たの?今日は仕事があるんじゃないの」
 慌てて話題をそらすと、彼はにやっと笑った。これは何か企んでる顔だ。
「今日は親方に言って休みもらってきた。ちょっと確かめたいことがあってさ。ま、その話は後でいいや。お前、今時間ある?ちょっと息抜きがてら散歩しねぇ?」
 その言葉に、ぼくはしばらく考え込む。もう少し構図を練りたい気もするけれど、品評会まではまだ時間がある。それに、イメージを固めるのは意外と頭を使うんだ。ずきずきと、頭痛の気配のようなものが頭の奥で鳴っていた。ここらで、少し休憩するのもありかもしれない。
「正直煮詰まってきてたし、そうしようかな」
エプロンを椅子にかけながら言えば、「そうこなくっちゃ!」とアルフはパチンと指を鳴らした。


 アトリエから一歩出たとたん、明るい光が目に刺さってぼくは少し目を細めた。ぼくらが住むこの街は、白い石造りの家が延々と続く、まるで絵本の中のような綺麗な街だ。中心部には大きな時計塔がそびえ、その向こうに、灰色の外壁がうっすらと見える。空も同じコンクリートの灰色で覆われ、表面に刻まれた複雑な模様から、人工の光が降り注いでいた。
 オーウム(卵)という名前のこの星は、正確には星ではない。超長距離飛行を可能とする宇宙船だ。地球の天然資源が底をつき、新たなる居住地を求めて旅にでた移民船。そしてぼくたちはその子孫だ。この星は、人が生きていくための環境を維持できる科学技術の結晶だということだが、正直ぼくには難しいことはよくわからない。機械好きがこうじて修理屋の道に進んだアルフの方が、よっぽどこういうことには詳しいだろう。
「で、どうする?どこ行く?」
「んー、とりあえず適当にぶらぶらしながらあの時計塔の麓まで行こうぜ」
「じゃあ、一回大通りに出ようか。この時間なら市も開いてるだろうし」
 ざっくりとルートを決めてから、二人連れ立っててれてれと階段を下る。
「そういやお前さ、どうしてあの絵に納得いかないんだ?やっぱなんか理由とかあんのか」
 少し先を行くアルフが、両手を頭の後ろで組んだまま、顔だけ振り返って尋ねてきた。
「うーん、そうだなぁ、アルフは、青い空の写真って見たことあるんだっけ?」
「んにゃ。今じゃ、もう地球の写真はそんなに残ってないしな」
「そっか……。実はぼくは見たことがあるんだ。美術の先生にお願いしたら、資料を漁ってくれてさ。それで、衝撃を受けた。たった一枚のちっぽけな写真なのに、なんていうか」
「うん」
「怖い、というか。足元がぐらついてるような感じがしたんだ」
 それは、高いところから下を見た時の感覚によく似ていた。ぼくが知っているどの青とも違って、空の青さには底がない。
「でもそれも当たり前なんだ。ぼくらは灰色の外郭に囲まれて生きている。ぼくらの知ってる世界には、果てがある。でも空はどこまでも続いてるんだから」
「あーそうか。空の先には宇宙がある」
「ぼくが見たのは写真だったけど、でも、本物はきっともっと怖いんだろうな。おじいちゃんの言葉も、本当なんじゃないかと思ったよ」
「お前がいつも言ってるあれだろ?地球の空は、宇宙の色が透けて見えるってやつ」
「そうそう」
 そういえば、どうして空が青いのか、科学的な根拠を説明してくれたのはアルフだった。ぼくがずっと地球の空に憧れている事を知っている彼は、その手の情報をどこからか入手してはぼくに教えてくれるのだ。
「えっと、光の散乱現象だっけ?」
 曰く、太陽には七色の光があって、そのうち青色が特に空気の中で広がりやすいため、その広がった青い光で空も青く見えるという。
「青い光だけなら、なぞることができると思う。でも、それだけじゃだめだ。ぼくはやっぱり、宇宙が鍵だと思う。ぼくは空の向こうに、宇宙を表現しなきゃいけないんだ」
「うーん、なるほどな……。でも、それならなおさら好都合だな」
「好都合?なにが?」
「もうすぐ話すよ」
 アルフは意味ありげな顔をしてそう言った。そのままずんずんと歩いて行ってしまうから、ぼくはその背中を追いかけるしかない。いくつか小さな通りを抜けた先、目的地である時計塔の麓に着くまで、結局アルフはだんまりだった。
「ねぇ、もういいでしょ?気になるから話してよ」
 焦れてそういうと、アルフはようやく口を開いた。でもその顔は何故か終始にやにやしっぱなしで、なんだか少し気持ち悪い。
「今日、俺休みもらったって言っただろ。実は、アトリエに来る前も、ここに上の施設の点検に来てたんだ」
「え、休みなのに?」
「そ。だからまあ、修理屋の権限を使ってこっそりとな。で、だ。お前、明日誕生日だろ?」
 その言葉にぼくは目を見張る。そういえばそうだった。品評会のことで頭がいっぱいで忘れてた。そう言うと、アルフは呆れたように笑って頭を掻く。
「お前、ほんと絵を描く以外はポンコツだよな。自分の誕生日くらい覚えておけよ」
「努力する……。で、なに?もしかして祝ってくれるとか?」
「ああ、とっておきのプレゼントも用意したんだ」
 鼻をこすって得意気に言うので、ぼくはますます驚いた。ものぐさな彼が、プレゼントを用意してくれるなんて珍しい。
「まあでも、そのためにはこの時計塔をてっぺんまで登らないといけないんだけどな」
「時計塔を?でもここ、一般人は立ち入り禁止区域じゃなかったっけ」
「ばれなきゃいーんだよばれなきゃ。じゃ、そういうことだから、明日の夜十時にここで集合でいいか?」
「時間の方は大丈夫だけど、どうしても登らなきゃダメ?バレたら怒られるよ。それにここ高いから、登るの大変だし」
「お前最後のが本音だろ。いーから登るんだよ。お前、この上にある施設がなんなのか、知ってるか?」
「時計塔なんだし、動力部じゃないの?」
 ぼくの答えに、アルフはやれやれというように頭を振る。
「ばーか、それだったら塔に登れなんて言わないよ。オーウムの座標をモニターしてるコンピューターに異常があったとき、周りの星を観測して、その位置から現在位置を計算するために用意された施設があるんだ。ここはこの星唯一の宇宙観測室なんだよ」
 その言葉を理解するのに数秒かかった。
「じゃ、じゃあまさか」
 アルフがにやりと笑う。
「俺が、お前に宇宙を見せてやるよ」


 その日の夜は、よく眠れなかった。布団に入ってからも、頭が勝手にぐるぐるとまわって、明日のことを考えてしまう。宇宙か、どんなところなんだろう。青空を見た時に感じた、あの得体の知れない恐怖のわけも、わかるのだろうか。ごろんごろんと寝返りを打っているうちに、気が付けば朝になっていた。
 朝になってもはやる心は収まらず、それならばと絵に向かっても全然作業に身が入らない。何度も何度も時計を確認し、ちっとも動かない時計の針に苦笑する。ここまでわくわくしたのはいつ以来だろうか。そういえばすっかり忘れていたけれど、何か楽しい行事があるときは、始まるまでが長いのだ。
 時計が九時半をさした瞬間、ぼくは鞄を引っつかんで外へと飛び出した。大通りを駆け抜け、時計塔へ。人混みを掻き分けなんとか麓までたどり着くと、アルフはもうそこにいて、ぼくの姿を認めると「こっちだ!こっち!」と手を振った。
「よっ、来たな。お前にしては早かったじゃん」
「実を言うと、昨日から楽しみで仕方なくてさ」
「そりゃよかった。俺も準備した甲斐があるってもんだ。周りにバレないように、裏口からこっそり行くぞ」
「そういえば、立ち入り禁止なんだし、鍵がかかってるんじゃないの?」
「昨日のうちに、上の設備を確認してきたって言っただろ?その時こっそりパクってきたんだ」
 アルフはさらりとそう言って、どこからか取り出した鍵を扉に差し込んだ。ギィッっと鉄の扉が軋みながら開き、ぶわりと埃っぽい空気が流れてくる。
 はじめて見た時計塔の内部は、想像よりも薄暗く、がらんとしていてなにもなかった。あたりを照らすのは、足元に規則正しく並べたれた小さな電球の明かりだけだ中は壁に沿って延々と階段が続いており、ずっと上のほうから、ガタン、ゴトンと、かすかに重いなにかが動いてる音が降ってくる。
「ここから先は、動力部につくまで延々階段を登っていかなきゃならない。ルカ、お前足には自信あるか?」
「絵の題材探しに一日中街を歩いてみたりするしね。これでも結構、体力はあるほうだよ」
「それはなにより。よし、じゃあ行くか」
 そう言うと、アルフはスタスタと階段を登っていく。もう一度周りの石壁をぐるりと見まわしてから、ぼくも小走りで後を追った。
「結構音が響くんだね」
「まあなー。静かな場所だから、余計にそう思うんだよな」
 しばらく、ぼくらは黙って塔を登り続けた。周りの壁に足音が反響して、まるで楽器のように響くのが面白くて、ぼくはしばらくその音に耳を澄ませていた。もしかしたら、先を行くアルフもそうだったかもしれない。
「そういえばさ、お前、空の絵を描き続けて20年くらいって言ってたじゃん?」
 アルフが声を上げたのは、塔を三分の一ほど登り終えたころだった。両手を頭の後ろで組み、顔だけこちらを振り向く。
「そろそろ、画材屋のおっちゃんに、青の絵の具ばっか使う人だって覚えられたりする?」
「するする。それも結構早かったかな。小学校卒業するまでには、もう覚えられてたと思う」
「へえ?なんでまた」
「実はそのころ、店中の青い絵の具を買い集めたことがあってさ」
 それは祖父からあの話を聞いたばかりだろうか。ぼくも青い空の下に寝っ転がる気分というものを知りたくて、たくさんの画用紙を青いクレヨンで塗りつぶして、天井いっぱいに貼り付けて見たことがあったのだ。手持ちの青いクレヨンでは全然足りなくて、その時初めてお小遣いを握りしめて画材屋に行った。店主のおじさんは昔から優しい人で、少し値引きして売ってくれたのを覚えている。
 懐かしさに胸をやかれながら語り終えると、珍獣でも見るような眼をしたアルフと目が合った。
「お前、昔から変な奴だったんだなぁ」
「失礼な。機械油にまみれて笑ってるアルフほどじゃないよ」
「いいだろ機械。ロマンがあって」
「青い空にだって、ロマンがあるんだよ」
「そうかぁ、それならしょうがないな」
 それから、二人して小さく吹きだす。もしかしたら、ぼくらがこうしてつるんでるのは、どちらもロマンを追う者だからかもしれない、なんてね。
 そうこうしてる間に階段も残り少しになってきた。下にいるときは小さかったガタンゴトンという音も、いつの間にか大きくなっている。少し背伸びして先を見やれば、おそらく動力部へと続くのであろう扉が見えた。
「お、ルカ、見て見ろよ。ここ、小窓がある」
 見れば、確かに動力部へつながるドアの隣に小さな小窓が開いていた、駆け寄って外を覗き込む。隣で、アルフがしみじみと呟いた。
「俺たち、ずいぶん上ってきたんだなぁ」
 ぼくも「うん」と小さくうなずく。窓の外、暗闇のはるか向こうに、街の灯りが煌めいているのが見えた。ひとつひとつの灯りはとても小さくて、あの一つ一つに人が住んでいるなんて、とても想像できない。
「ぼく、こんなに遠くに家の灯りを見たの初めてだよ」
「俺も。こんなに高いとこから街を見たのも、初めてだ。……さ、この先が動力部だ。ここを抜けたら、観測室はもうすぐそこだよ」
アルフの言葉に、自然と背筋が伸びた。アルフがゆっくりと扉を押し開ける。わずかに開いた隙間から身を滑り込ませたぼくの目に飛び込んできたのは、大きな大きな振り子だった。その周りを、複雑にかみ合った無数の歯車、そしてガタンゴトンと音を立てて上下する機械の箱が囲んでいる。
「ここが、この時計塔の動力部…?」
「そうだ。すげーだろ?そもそもこの塔がどうやって正確な時間を刻んでるって言うと、振り子の左右の往復運動を利用して、アンクルの先端をガンギ車の先端にかみ合わせることで……」
 アルフが何やら小難しい理屈を並べ始めたが、正直ぼくはほとんど聞いていなかった。今日は初めて見るものがいっぱいで、なんだか頭がくらくらする。それでも、からくりが規則正しく動いている様が、美しいことはよくわかった。普段何気なく見ている時計塔の内部がこうなっていたなんて知らなかった。きっとアルフは、この整然とした美しさに惹かれたのだと、その時初めて理解した。
「でも、お前のロマンは別にある。そうだろ?」
 アルフがにやりと笑って、動力部のさらに奥にひっそりとたたずむ扉を指し示す。先ほど潜り抜けてきた鉄の扉とは違う、木製の、こじんまりとした扉。その横に、観測室と書かれたネームプレートがかかっている。
「ほら、ルカ。お前が追い求めるものはこの先だ」
 ぼくは扉を開けた。


 それは、とても暗い部屋だった。先ほどまでとは違い、灯りが一つもない真の闇。アルフが隣で懐中電灯を二つ取り出し、一つをぼくに放り投げた。
「部屋の真ん中へ寄ってな。今外郭開けるから」
 そのまま彼は操作モニターのほうへ走り寄ってしまった。なんとなく心細くて、ついくだらない冗談が口からこぼれる。
「ねぇ、外郭を開けた途端、真空に放り出されて死んじゃったりしないよね?」
「そんな観測室があるかよ。大丈夫だって。宇宙に面してるところはガラス張りになってるんだからさ」
 アルフの声も、どこか緊張で強張っていた。そうだ、アルフも宇宙を見るのは初めてなのだ。そんなことを思いながら、湿った手をズボンにこすりつける。
「よし、開くぞ。電気を消せ」
 その言葉で、反射的にスイッチを押していた。部屋が完全な暗闇に包まれる。そして、ウィーンと微かに唸り声が聞こえ、天頂の外郭がゆっくりと開いていった。
 「あ……」
 無意識に、唇から声が漏れた。ぼくは目を見開いて、ただただ上を向いたまま固まった。
 広大で、どこか物寂しい宇宙が、そこに広がっていた。
 深い闇の中、白っぽく冷たい光を放つ星が、まるで宝石でもぶちまけたように点々と散っている。目が暗闇に慣れるにつれて、暗いと思っていた部分からも、染み出すように星の姿が浮き上がってきた。ぼくは先ほど見た街の灯りを思い出す。あの時も、街の灯りを遠くに感じたけれど、宇宙はそんなものじゃない。目を凝らせば凝らすほど、いくらでも遠くに星の灯りを見つけることができるんだ。その距離を思うとめまいがした。
「すごいな……」
いつの間にか隣に立っていたアルフが、まるで夢でも見ているよな面持ちで呟いた。それはぼくに話しかけるというよりは、知らず口からこぼれていたような、頼りない響きでぼくの鼓膜を揺らす。ぼくはただ、「うん」、とうなずくことしかできなかった。なにか言葉にしようとしても、胸につっかえてうまく形にならなかったから。
 それからぼくらは、しばらく黙って、ただただ頭上を見上げていた。初めて宇宙を見たその衝撃を、かみ砕いて飲み込むのには、長い時間が必要だった。
「おじいちゃんが言った、空には果てがないって言葉を、なんとなくわかった気でいたけれど。こうして初めて宇宙を見たら、全然そんなことなかったなぁ。そっか、地球の空は、青い光の向こうにこんな風景を隠してたんだね」
「宇宙には星がたくさんあって綺麗だって聞いてたけど、でもそれだけじゃないよな。どうしてこんなに寂しいんだろう」
「こんなに宇宙が広いとさ、ぼくらの存在が、まるでちっぽけに感じるからじゃない?」
「そうかも。きっとそうだ」
「ぼく、今ならこの船に、オーウムという名前をつけた人の心がわかる気がする」
 ふと思い立って、ぼくはアルフにそう言った。
「ぼくら、今、卵から孵ったばかりの雛みたいだ。ちっぽけな卵の中で、ぼくらは外の世界へ色々想いをはせてきたけどさ。殻の割れ目から初めて見た世界は、ぼくらの想像をはるかに超えて、広かった」
「お前って、いつも変なことばっかり言うよな。でも、今だけは、お前の言ってることわかる気がするわ」
「ありがとうアルフ。ここに連れてきてくれて、ぼくに宇宙を見せてくれて本当にありがとう」
「これで少しでもお前の絵の糧になれば、俺もうれしいよ」
 アルフの言葉に、ぼくはアトリエに置いてきた、一枚のキャンバスを思い浮かべる。色々試行錯誤して、それでも納得がいかなかったあの絵。
 でも、今なら。頭の中で思い描いた宇宙ではなく、こうして本物の宇宙を見た後なら。この寂しさや広大さと、本当の意味で向き合えるだろう。そんな確信が胸を突く。
「うん、きっと今なら、あの絵も最後まで描ききれる、そんな気がするよ」
 ああ、なんだか無性に絵が描きたいな。そう呟くと、隣でアルフが笑ったのが気配でわかった。
「それじゃあ、帰るか」
「うん、帰ろう」
 差し出された手を取り、立ち上がる。そしてぼくらは、並んで階段を下りていく。ぼくらが住む街へ、日常へと帰るんだ。
「ああ、そうだ。日付が変わる前にこれだけは言っておかないと」
 時計塔に鍵をかけてから、ふと、思い出したようにアルフが言った。
「ルカ、誕生日おめでとう」
 一瞬虚を突かれ、それからぼくも笑う。
「ありがとう。今日は人生最高の日だったよ」

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