小説 | ナノ

▽ 猫の背中はひなたの匂い


ふと、黒猫が横切ると不幸になるという迷信を思い出した。


通い慣れた通学路。薄汚れたライムグリーンの携帯を片手に、私は途方に暮れていた。電話が鳴っている。画面に表示されているのは、見覚えのない携帯の番号。まだ昼間なのもあって人影はまばらだが、それでも行き交う人が皆、ちらちらとこちらに視線を向けてくる。早く出ろと言わんばかりに。
「拾った電話に勝手に出るのってアウトなのかしら、セーフなのかしら」
そう独りごちながら、どうにでもなれと通話ボタンを押す。途端、聞こえてくるのは軽薄そうな男の声だ。
『あ、もしも〜し? 聞こえてます? てか繋がってます?』
私は思わず顔を顰めた。こういうチャラチャラした声を、疲れてる時に聞くのは堪える。
さっさと用件を済ませて帰ろう。そう心に決めて、わざと冷たい声を出す。
「聞こえてるし繋がってるわよ。あんた、この携帯にかけてきたってことは、持ち主の知り合い? 引き取りに来てくれないかしら」
『あ、俺がその携帯の持ち主っす』
「そう、なら話は早いわ。待ってるから取りに来て頂戴。場所は」
『あ〜取りに行きたいのはやまやまなんすけど』
 と、そこで男は何故か言い淀んだ。私はイライラと指で携帯を弾く。
「なに。はっきり言ったら?」
『実は俺、もう死んじゃってるみたいなんすよね』
「はぁ?」
 ドスのきいた声が出た。もとより冗談は、あまり好きなタチではない。
「なにそれ。不謹慎にもほどがあるわよ」
『いや、冗談じゃないっすよ! あ、待って電話きらないで!』
「悪いけど、いたずら電話に付き合ってあげるほど暇じゃないの。今からこれを警察に届けなくちゃいけないし。じゃあね」
 ブチリ。
 苛立ち間切りに切断ボタンを押し込み、はぁ、と大きなため息を一つ。今度こそ警察に向けて歩き出そうとして、ようやく私は異変に気づく。
 確かに今まで通話していたはずの携帯電話。それなのに、電波が入っていなかったのだ。



 突然、手に持った携帯がけたたましく鳴り出した。思わず体がびくりと跳ね、手から携帯がすっぽ抜ける。慌ててキャッチして画面を見直すが、やはりアンテナは立っていない。
 おそるおそる通話ボタンを押す。繋がったとたん、食い気味に男の声がした
『俺が嘘を言ったわけじゃないって、これで信じてくれたっすか!?』
「……まあ、そうね」
『よかったぁ。じゃあ、改めて俺の話も聞いてください。今、本当に困ってたんですよ!』
 そりゃあ、誰だって死んだら困るだろう。さっさと腹くくって成仏しろとも思うけど。しかし、『いやあ、それがそういうわけにもいかないんですよ』と、いくらか間延びした声で男は言う。
『俺、記憶喪失ってやつでして。自分が死んだことはわかるんですけど、死ぬ間際のことがどうにも思い出せないんす。成仏できないってことは、何かが引っかかってるとは思うんすけど。だから、あなたに俺が記憶を取り戻す手伝いをして欲しいんです』
「事情はわかったわ。お断りします。厄介事はごめんなの」
『即答!?どうしても俺の頼みを聞けないって言うなら……呪いますよ?』
「呪いって」
 男はもったいぶるように少し黙った。
『具体的には……一生棒アイスの当たりが出ない呪いをかけます』
 へぼっ!
『どう? 俺のこと、手伝いたくなったでしょう』
 ふふん、と得意そうに言う男がちょっと可哀想だなぁなんて、柄にもなく思ってしまった。だから私は、続く男の言葉を無視することができなかったんだ。
『それに、俺は幽霊だから』
 男は言った。
『人と喋れないのが、寂しくて』
 ずるい、と私は内心歯噛みする。そんなこと言われたら、このまま警察にあずけてはいサヨナラなんてできないじゃない、後味の悪い。
「夏休みの間だけよ」
 渋々、私は敗北宣言を口にした。
「その間だけ、あんたのこと手伝ってあげる。でもそれ以上は、付き合ってられないから」
 瞬間、声のトーンが嬉しそうに跳ね上がった。
『本当ですか!ありがとうございます!!』
「とりあえず、今日はもう家に帰るけどね。学校帰りで疲れてるの。言っとくけど、家族が居る前で変なことしたらその時点で放り出すから」
『はーい』
 素直に返事をしたあとで、男はふと思いついたように言う。
『俺、別にお茶請けとかは要求しないんで、そこは安心してください』
 当たり前だばか。



 男の名前は八坂拓海というらしい。
『気軽にタクって呼んでください!』
 そんな無駄に爽やかな自己紹介を終えたあと、彼は自分が覚えている限りのことを話してくれた。曰く、自分は最近この街に越してきたこと、大学二年生であること、生前は徳鳴館大学の経済学部に通っていたこと。
「徳鳴館大学ですって?」
 八坂の言葉に、私は思わず眉を上げた。
『知ってるんですか』
「そりゃ知ってるわよ。私もそこの生徒だし」
 まさか先輩とは思わなかったけど。そう言うと、八坂は嬉しそうに声を弾ませる。
『まじですか! 奇遇だなぁ。これは、俺が成仏できない理由も、意外と簡単にわかりそうっすねぇ』
 聞き込みしましょうよ、聞き込み!俺一度やってみたかったんすよ、と八坂は言った。そんなわけで、私は今大学へと向かっている。
「ところでさぁ、あんたって今どこにいるの?」
『え、ずっと一緒にいるっすよ』
 さらりと返ってきた言葉に、私はブルリと体を震わせた。姿が見えないから油断していたけど、これじゃあまるで取り憑かれてるみたいじゃないか。思わず小声で問い詰める。
「ちょっと、何か悪影響とかないでしょうね? 私にくっついてることで、こう、生気を勝手に吸い取ってるみたいな」
『優歌ちゃんに、というか、正確には俺の携帯にくっついてるんですけど』
「携帯に?」
『はいっす。なんでかそれから離れられないみたいで……電話を通してじゃないと話もできないし、カメラを通してしか外が見れないっていう』
「ふうん……じゃあ、電源切ってる間はうるさくなくていいわね」
『鬼ですかあんた!』
 ぎゃあぎゃあわめく声を黙殺しながら、私は慣れ親しんだ校門をくぐる。
 夏休みを迎えた学校は、熱気を薄皮で包んだような独特の空気に満ちていた。せっかくの休日だというのに、皆あちらこちらでグループを作り、熱心にサークル活動に勤しんでいる。
『なんかこの感じ久しぶりっすね』
 ポケットの中からカメラ部分だけ覗かせた八坂がしみじみと言った。
「で、どうするの。あんたの友人に話しを聞きに行けばいい?」
『あー……いや、それはやめとくっす』
「どうして?」
『だって、友達が死んだ後にそのこと探し回ってる奴がいたら、ちょっとむっとしますよ』
 ふうんと私は八坂を見直した。そうか、こいつ気遣いができる人種だったのか。
「じゃあどうしよう。他にあんたのことで知ってそうなやつって言うと……」
『経済学部に知り合いとかいないんすか。先生からなにか聴いてるかも』
「そうね……確か、吉田さんが専攻していたわ。会いに行ってみる?」
 美術サークルに所属している彼女は、学園祭に展示するイラストを仕上げるために、夏休みの間学校で作業すると言っていたはずだ。サークルの部室を覗けば、案の定、大きなキャンバスに向き合う見慣れた背中があった。
「吉田さん。ちょっと今いいかしら」
「優歌ちゃん!?珍しいね、どうしたの?」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
 詳しい事情は伏せたまま、八坂のことについてなにか知らないか尋ねてみる。どうやら彼に用があったと勘違いしたようで、吉田さんはその少したれた目元をより一層下げた。
「八坂先輩、一週間前くらいに亡くなったって連絡があったよ。病死だって」
 病死。妙にリアルで、それでいてよそよそしい冷たさを伴った言葉に私は瞠目した。そうだった、こいつ死んでるんだった。それなのに、当の本人は相変わらず暢気な口調で、『あ〜やっぱり。なんかそんな気はしてたんだよなぁ』なんて呟いている。
「持病でもあったの」
「うん。呼吸器系の病気だって。静養のために、都会からこっちに越してきたんじゃなかったかな。私も噂で聞いた程度で、詳しいことはわからないけど……」
 寂しくなるよね、と吉田さんは言った。
「寂しい?あなたも知り合いだったの?」
「ううん、でも、八坂先輩って結構人気者だったでしょ。いつも先輩の周りって賑やかだったし、それがなくなったらやっぱりなんとなく寂しいなーっていうか」
 へえ、と私は思う。でもまあ、馴れ馴れしくてどこか情けない態度は構ってあげたくなるのかもしれない。その気持ちは、なんとなくわかる気がした。
「そう……色々教えてくれてありがとう」
 礼を言って、私はよいせとカバンを背負った。
「もう帰っちゃうの?」
 吉田さんが、さっきからなにか話したそうにしているのには気づいていた。チラチラとこちらを見る視線はわざと無視。なんだか面倒なことになりそうだ。こういう時はさっさと退散するに限る。そう思って背を向けたのに、立ち去る足を止めてしまったのは、吉田さんから放たれた言葉が少し心を揺らしたからだった。
「猫カフェ?」
「そう、猫カフェ。もうすぐ家の近所にオープンするんだって。優歌ちゃんも、よかったら一緒にどうかなって」
 猫、好きだったよね。当然のようにそう言って、吉田さんはにこりと人好きのする笑顔を浮かべた。私は小さくたじろいで、それから慌てて首を振る。
「お誘いは嬉しいけど、遠慮しておくわ」
 それじゃ、と言って今度こそ足早にその場を去る。去り際に見えた吉田さんの寂しげな笑い顔が、ちくりと胸に突き刺さった。



『なーなー、なんで猫カフェ行かないんすか!?』
 さっきから八坂がうるさい。吉田さんと別れてから、ずっとこんな調子だった。
『さっきの、吉田さんだっけ?友達なんでしょ。遊びに行ってきたらいいじゃないっすか』
「友達じゃないわ。時々講義で一緒ってだけ。だいたいあんたには関係ないでしょ」
『そんなこと言ってると、友達できないっすよ〜』
「別にいいよ。一人の方が気が楽だもの」
 わざと語気を強めてそう言うと、お喋りな八坂も流石に言葉に詰まった。気まずい沈黙。私は小さく舌打ちをする。こういういたたまれない時間が嫌いなんだ。空気を振り切るように、早足でぐいぐいと帰り道を行く。と、流れていく視界の隅に、引っかかったものがあった。
「猫だ」
 ふわふわした茶色い毛玉を見つけた途端、反射的に体が動いた。しゃがみこみ、素早くカメラを取り出す。猫は私の方をちらりと見て、それからごろんと道路の端に寝そべった。くああ、と大きなあくびを一つ。その表情が緩んだ瞬間、シャッターを切った。
『あ、笑った』
 突然、さっきまで黙っていた八坂が声を上げた。思わず、「わかる!?」と食いついてしまう。
「猫の表情が読めるなんて、あんたも相当の猫好きね」
『あ、ごめんなさい。そっちじゃなくて、優歌ちゃんが』
 私はぽかんと口を開けて固まった。何を言ってるんだこいつ。私が笑うのがそんなにおかしいか?そう言うと、『だって俺、優歌ちゃんの仏頂面しか見たことなかったんだもんと』と、八坂は子供みたいに拗ねてしまう。
『優歌ちゃんは、猫の表情わかるんすか?』
「まあ、何度も見てたらだんだんわかってきたというか……」
『へぇ、本当に猫好きなんすね。俺もわかるようになりたいなぁ』
 俺も結構猫好きなんですよ、と八坂は言った。
「あんたも、いろんな猫見てたらそのうち分かるようになるんじゃない」
『じゃあ、もし生まれ変われたら、猫探しの旅にでも出ようかなぁ』
 あ、と私は少し言葉に迷った。これから、なんて、少し不謹慎だったかな。
「……まあ、納得のいく写真が撮れるまでは、時々猫探して散歩行ったりもするし。あんたもついてくれば、猫たくさん見れるかもね」
『ありがとうございます!』
 誤魔化すように絞り出した言葉にも、八坂は無邪気にお礼を言う。その素直さが、ほんの少しだけ羨ましかった。
『あ、せっかくだし俺も写真撮ってみたいな』
「じゃあ、私が携帯構えてあげるから、自分のタイミングで撮りなよ」
『はーい!……あれ、おかしいな、シャッターボタン押してるつもりなんだけど』
 彼は何度か首をひねっていたが、やがてピロリン!と間抜けな音と同時に『撮れた!』と嬉しそうな声を上げた。
『どうどう、うまく撮れてるっすか?』
 写真を確認した私は、思わず頬が緩んでしまう。
 画面には、大きくあくびをする猫の間抜け面が写っていた。



 結局、あれから進展がないまま数日が経った。今日は八坂の記憶探しはお休みと決めて、私はパソコンの前に腰掛ける。フォルダを開いてクリクリとマウスのホイールを動かすと、画面に表示された猫の写真が上から下に流れていった。
『これ、全部優歌ちゃんが撮ったんすよね』
 スタンドに立てかけられた状態で、八坂が言った。
「そうだよ」
『へえ〜うまいなぁ……写真撮るの、趣味なんですか』
「まあ好きだからっていうのもあるけど、私写真サークルだから。学園祭に展示する写真、夏休み中に撮らないといけなくて」
『なるほどっす。どれにするか、だいたい目星つきましたか』
「うーん」
 パソコンを睨みつけながら、私は何度も首をひねる。
「これとこれと、あとこれ、かしら……」
 指をさしたのは、どこか気の緩んだような、自然な表情を見せている写真だ。自分で言うのもなんだけど、どれもうまく撮れている、と思う。だけどあとひと押しが足りない。
『どうしても決まらないなら、同じサークルの人とかに相談してみたらどうっすか』
「絶対嫌」
 強い拒絶の言葉が、ぴしゃりと空気を打った。八阪が小さく息を飲んだのがわかって、私はイライラと頭を振った。またやってしまった。
「だいたい、皆も自分の作品のことで手いっぱいだろうし」
 重くなった空気を取り繕うように、私は早口で言う。我ながら言い訳じみてるな、と思うと、なんだか嫌な気分になった。
『あ、じゃあサークル外の人ならどうですか。ほら、吉田さんとか』
「吉田さんだって、絵を描くのに忙しいでしょ。しつこいわよ」
『優歌ちゃんって人嫌いなんですか?一人でいるほうが気が楽とか言ってたけど』
「人嫌いっていうか」
 私は、カーテンの隙間から外の隙間をちらりとみやり、ため息をついた。
「この村って小さいでしょ、人の出入りも少ないし」
『そうっすねぇ。俺、前は都会の方に住んでたから、初めてこの村きた時は驚きました』
「だからかな、今の知り合いは昔からの知り合いで、私のこと全部知られてるっていうか。そのことがずっと息苦しかった」
 「猫、好きでしょ」と言った吉田さんの顔を思い出す。彼女は当たり前のようにそう言ったけど、私はそのことを彼女に話したことはない。そもそも、数回挨拶をした程度の仲なのだ。
 代わり映えしない村に、変わらない人たち。どこに行っても過去がついてまわるような、そんな感覚。
『でも、それはお互い様じゃないですか。優歌ちゃんだって、吉田さんのことよく知ってるでしょ。そんな気にすることないんじゃないっすか』
 そうだったらよかったんだけど。私はより一層大きなため息をつく。
「知らないのよ。吉田さんが好きなものも、嫌いなものも、普段何してすごしてるかも」
『でも、美術サークルに所属していたことだってちゃんと知ってたじゃないですか』
「それは、たまたま彼女が友達と話していたのを聞いただけ」
『ふうん、なるほど。優歌ちゃん、意外と臆病なんすねぇ』
「どういう意味よ」
『自分だけ、手探りしながら相手と話してる気がするんでしょう?周りの人のこと、自分だけちゃんと見えてないんじゃないかって思ってないっすか』
 知ったふうな口を利く八坂に、噛み付いてやろうとした時だった。
『俺だって、いつかいなくなるんですよ』
 ぽん、と投げられた言葉は、私の口を閉じさせるには十分で。
『そうなったら、優歌ちゃん、また一人になっちゃうじゃないですか』
 そんなんじゃ、心配で成仏してもしきれないっすよ、と八坂は言う。冗談めかしているくせに、ただただ真摯な声だった。私はそっと自分の胸をおさえる。今更心配されなくても、私は今までだって一人でやってこれたんだ。それなのに、どうして胸がこんなにざわつくんだろう。
 けれど、その理由を考えるより先に、『あ』という八坂の声で私は現実に引き戻された
『俺この写真好きだなぁ。カギしっぽのやつ』
「あ、ああ、これ?」
 一瞬の自失から立ち直り、私はたくさん並んだ猫の写真の中から一枚を指さした。『そうそう!』と八坂が嬉しそうに言う。
「でも、これあんまり写真うつり良くないわ」
『えー残念。愛嬌がある顔で、いいと思ったのに』
「気に入ったの、この猫」
 どうしてそんな気まぐれを起こしたのか。気が付けば、私は八坂に向かってこう言っていた。
「それなら、しばらくこの猫題材に写真撮ってみてもいいけど」
『ほんとですか!嬉しいなぁ!ああ、せっかくだし、この猫に呼び名でも付けませんか』
「呼び名?まあいいけど、何か案はあるわけ」
『へへ、実は写真見た時から、思い浮かんだ名前がありまして。くしろって言うんですけど』
「黒白ブチだからくしろ、ね。安直だけどいいんじゃない、わかりやすくて」
『やった!お前は今日からくしろだよ〜』
 写真に向かって気持ち悪い猫撫で声を出す携帯から目をそらしながら、私は一人自問自答する。
 あの時、八坂が、心配で成仏できないと言った時、私はなにを言おうとした?
 ……じゃあずっとここにいれば、なんて。全く私らしくもないことを。



 この村には猫が多い。外をぶらつけば、毎日数匹は猫を見かける。彼らはそれぞれ縄張りを持っていて、どこに行けばどの猫に会えるのかはだいたい決まっていた。彼らの縄張りを把握していることが、密かな私の自慢だった。
 自慢、だったんだけど。
「くしろ、なかなか見つからないわね……」
 ベンチに座って乾いた喉を潤しながら、私は低く唸った。
「よくこの辺をうろついてたはずなのよ。あの写真撮ったのだってまさにここだし」
『探し方が甘いんですかねぇ』
「まあ、会えるかどうかは時の運でもあるんだけど。それにしたってもうすぐ一週間経つのに」
 もう少し捜索範囲を広げてみる?そう言ったのに返事がない。不思議に思い、何度か携帯をつついてみる。
「八坂?聞いてる?」
『……あ、今何か言いました?ちょっとよく聞こえなかったっす』
「またぼーっとしてたの?もうちょっと捜索の範囲広げてみる?っていったんだけど」
 最近八坂は変だ。考え事でもしているのか、こうして私の話を聞いてないことが何度かあった。
『疲れてるんすかねぇ』
「幽霊が疲れてるってのもおかしな話ね」
 よいしょ、と勢いをつけてベンチから立ち上がる。ここまで来たら、徹底的に探してやろうという気になっていた。どうせ今日も暇なんだし。頭の中で地図を広げ、猫の居そうな場所をしらみつぶしに探して歩く。
『あ、この病院』
 八坂がポツリとこぼした言葉に、私は足を止めた。
「なに、知ってるとこ?なにか思い出したの」
『これ、俺が通ってた病院っす。うん、確か死ぬちょっと前も、ここで入院していたような……』
 うろ覚えの夢の出来事を語るような、曖昧な口調で八坂は言った。しばらくぶつぶつと呟いた後で、『だめだー思い出せない』とさじを投げる。
「でも、あんたがここにいたのは確かなのね。それなら、あんたのこと知ってる人もいるかもしれないわ」
『聞き込み第二弾ですね』と、八坂は笑ってそう言った。
 意外にも、八坂のことを知ってる人にはすぐ巡り会えた。受付をしていた西村という名の看護師が、何度か彼と話したことがあるというのだ。
「八坂くん?ああ、先日亡くなられた患者さんね。彼がどうかしたの?」
「なんだか彼、亡くなる前に悩み事をしてたみたいで。今になって、それが気になってきちゃって……なにか、ご存知ありませんか」
「悩み事?そうだったの……いつも明るい子だったから気付かなかったわ」
 西村さんは、困ったように手を頬に当てて俯いた。
「大変なご病気を抱えていらっしゃったから、やっぱり少し、無理をしていたのかしら」
 そうなの?と八坂に小声で問いかける。返ってきたのは、『どうだったかなぁ』という間延びした声。
「他に、何か気づいたこととかありませんか。些細なことでもいいんです」
「そうねぇ……ああそうそう、よく病院の裏庭に遊びに行っていたみたい。あんなところ、花壇くらいで特に何もないのに。それが少し、おかしいなとは思ってたわ」
「ああそりゃ、猫だ」
 不意に背後から声がして、私はびくりと体をすくませた。振り返ると、しわくちゃな顔をした男性が立っている。『あ、遠野のおっちゃんだ』と、八坂が声を上げた。
『同じ部屋だったんだ。俺の向かいのベッドでさぁ。懐かしいなぁ』
「知り合いだったんですか。猫、というのは」
「タク坊は、よく裏庭の花壇で猫と遊んでるのを見かけたぞ。自分の飯をこっそり持って行ったりしてな。気にかけてるみたいだった」
「動物の毛はあんまりよくないってお医者様もおっしゃっていたのに。よっぽど猫が好きだったのね」
『だって見てたらかまってやりたくなるじゃないですか、あの生き物』
 その言い訳がかわいくて、私は少し笑ってしまった。これは、私に負けず劣らずの猫狂いだ。
「ああでも、亡くなる数日前だったかなぁ。突然猫がいなくなったって騒ぎ出して」
「もしかして、亡くなった時も、猫を探していたのかしら。裏庭で亡くなられていたから、なんでだろうと思っていたんだけど」
「そう、かもしれねぇなぁ」
 のんびりと会話する二人を見ていたら、ふと思いついたことがあって、私は慌てて自分の携帯を取り出した。画像を表示して、遠野さんに見せる。
「もしかして、その猫ってこんな感じの子じゃなかったですか」
「ああ!そうそうこんな感じだった。よく知ってるなぁお嬢ちゃん」
 画面に表示されているのは、黒白ブチにかぎしっぽが特徴的な、あの猫の姿で。真相を知った私は、思わず笑いだしそうになる。
 そうか。八坂は、くしろが姿を消したのを心残りに思いながら死んだのか。だから、写真を見た時も、無意識にくしろに目がいってしまった。
 全くなんてお人好しだ。まさか死ぬ前に、自分ではなく猫のことを心配するなんて!
「ありがとうございます。参考になりました」
 二人にお礼を言って病院を後にする。
「それにしても、あんたがここまで猫好きだとは思わなかったわ」
『……』
「八坂?聞いてるの?」
 返事がないのを不審に思って、カバンから携帯を取り出す。カチカチとボタンを操作するが、反応がない。いつの間にか、充電が切れていたようだった。
「ずっとつけっぱなしだったから、しょうがないか」
 それでも。彼がそのことを言わなかったのが、胸に引っかかる。こんなことは初めてだ。
 ひどく嫌な予感がした。



 画面がチカチカと明滅している。不規則なそのリズムが、心に不快なさざ波を立てた。
「八坂、どう?」
『ちょっとわかんないっすね。基盤がいかれちゃったのかな』
 答える声も、どこか遠い。まるで電波障害でも起こしたみたいに、後ろでひっきりなしにぷつぷつとノイズが鳴っている。おかしいわよね、と私は苦い笑いを漏らした。もともと電波なんて入ってないのに、電波障害、だなんて。もしそうならどれだけよかったことか。
「充電もまだ残ってたのに、急に切れちゃったっていうのは本当?」
『はい。20パーセントくらいはあったかな?それなのに、急にぷつって記憶が途絶えて……気がついたら、家に帰って充電器に繋がれてました』
「そう……寿命、かしら。その携帯も、だいぶ使い古されてるものね」
『それか、俺がこうやって無理やり動かしてるから、機械に負担がかかっちゃってるのかも』
「……」
 ありそうな話だった。しかし、原因がわかったところでどうしようもない。修理ができるのかわからないし、そもそも名義が私のものではないので修理に出しようがないのだ。
『意外と短い幽霊生活だったなぁ』
 ぽつ、と八坂がつぶやいた言葉に、私はぎょっとする。
「ちょっと、縁起でもないこと言わないでよ」
『だってしょうがないじゃないですか、俺はもう死んじゃってるんだから』
 明るい声だった。語尾が震えてることを、全く感じさせないくらい。
『今こうやって幽霊やれてるのは、ボーナスステージっていうか。いつもこんなこと、続くわけないってわかってましたから。そもそも最初から、夏休みの間だけって約束でしたし。それが少し早まっただけで』
「それは、」
『だから!』
 私の言葉を遮って、八坂が大きな声を上げた。
『だから、もういいんです。俺、めっちゃ楽しかったから、充分です』
「……」
『いつ言えなくなるかもわからないから、先に言っておくっすね。優歌ちゃん、短い間だったけど、お世話になりました』
「やめて」
『一緒にくしろ探して散歩したこと、写真を撮ったこと、とっても楽しかったっす。いい夢見れたっていうか』
「やめてよ」
『色々、ありがとうございました』
「やめてって言ってるじゃない!」
 思わず、八坂を睨みつける。上げた声は、まるで悲鳴のようだった。
「だいたい、あんた私を一人にするのは心配だーとか抜かしておいて、よく勝手に一人で諦められるわね!」
『だって、もう心配してないですもん』
 あっけらかんと言う八坂に、私は言葉を失った。
『優歌ちゃんは、確かにちょっと周りが見えてないこともあるけど。きっと、一つのことでいっぱいいっぱいになっちゃうタイプなんですよ。だって、あんなに猫の表情だってよく見えるんだもの。きっと、優歌ちゃんにしか見えないもの、たくさんあると思います』
「それは、だって、私は昔から猫のことが好きだったから……」
『一つ言っておくっすけどね、興味のない人のサークルなんて、普通の人は覚えてなんてられないですよ』
 本当は、吉田さんとも友達になりたかったんでしょう?と八阪は言った。
『ただ、一歩踏み出す勇気がないだけなんじゃないですか』
 自分だけ、相手のことが見えていない気がして。好きなものも嫌いなものもわからないから、どう接していいかもわからなくて。思わず目をそらした私に、八坂は優しい声で言う。
『大丈夫です。俺がいなくたって、優歌ちゃんはきっとたくさん友達、見つけられますよ。人気者だった俺が言うんだから、間違いないっす』
「なにそれ、全然根拠になってないわよ」
 無責任な大丈夫の言葉に泣きそうになる。だって、それが、それだけのことがびっくりするくらい嬉しかった。
 それなのに。
『成仏できなかったら、生まれ変わることもできないのかなって、それだけが心残りっすね』
 全国猫探しの旅、行ってみたかったなぁなんて、しみじみと呟く八坂。私はきゅっと唇を噛む。
「まだ終わってない」
 八坂一人だけがかっこいい顔して、そんな彼に私は何もできないまま、さよならなんて絶対嫌だ。
 だってそんなの、後味最悪どころじゃないでしょう。
「夏休みの間は手伝うって、そういう約束だったはず」
『優歌ちゃん……』
「猫狂い仲間が減っちゃったら、私だって寂しいもの。だから、最後まで付き合ってあげる」
 八坂は少し黙った。
『ずるいなぁ。そんな風に言われたら、諦めるなんて言えないじゃないですか』
 ややあって、ぽつりとこぼされた言葉に頬が緩む。仕方ないなぁと言いたげな口調。それなのに、深い安堵の色が窺えたから。
『でも、どうやって探すんですか。あんなに探したって見つからなかったのに』
「そうね、確かに私たちだけではダメだった。でも、みんなで探したらどうかしら」
『皆って、』
 八坂が何かに気づいたように声を上げる。自分の携帯を取り出して、それからほとんど使われないままだったアプリを立ち上げた。
 事務的な会話が並んだチャット欄。その右下にひっそりと並んだ電話のマークを、祈るような気持ちで抑える。
「あんたが大丈夫って言ったのよ。だったら最後まで、見届けてちょうだい」
 震える指を抑えながら、私は通話ボタンを押した。



 薄暗くなってきた街を、たった一人で彷徨う。歩き疲れて棒のようになった足は、ほとんど引きずるようにして。
『少し休憩しないっすか』
 ザーザーと、どんどんひどくなっていくノイズの雨の向こうから、途切れ途切れに八坂の声がした。
『もう長いこと、歩きっぱなしじゃないですか』
「もう少し歩くわ」
 私は突っぱねる。
「これくらい慣れてるから」
 八坂が何か言ってくるかと思ったけれど、彼は少し沈黙したあとで、『ありがとう』とだけ言った。それとほぼ同時に、ぷつりと通話が途切れる。さっきからずっとこんな調子だ。かろうじて電源は入っているものの、加速度的に状態が悪化しているようだった。唇を噛んで、もう、空の端にかろうじて引っかかってるだけの太陽を睨んだ。完全に陽が落ちたら、捜索はもっと困難になるだろう。一瞬くじけかけた心を引き戻したのは、チリン、という着信音だった。
 ライムグリーンの携帯をカバンに戻して、代わりに自分の携帯を引っ張り出す。画面を点灯させれば、そこにずらりと並ぶのは、よく話したこともない人たちから届くたくさんのメッセージ。
『くしろちゃん、商店街のあたりにはいないみたい!今度は地獄坂の方探してみるね!』
『じゃあ私は公園回ってみる!』
『もうちょっとで日が暮れちゃうね。今が踏ん張りどころだよ!』
「ほんと、この村にはお人好ししかいないのかしら」
 じわり、と暖かくなった胸に携帯を抱き寄せながら、吉田さんに電話をした時のことを思い出す。



『猫探し?』
「そう。どうしても早めに見つけたくて。手伝ってくれたら、嬉しいんだけど」
 緊張でもつれる舌を動かして、私はそう言った。心臓がばくばくと音を立てている。彼女に個人的な頼みごとをしたのは、これが初めてのことだった。息をのんで彼女の反応を待つ。
『うん、わかった』
 果たして、彼女はそういった。
「あ、ありがとう」
『いいよいいよー!これくらいどうってことないって。あ、そうだ、どうせなら私の友達にも声かけてみるね!』
「うん、助かる。あの、このお礼はいつか必ずするから」
『えー、本当に気にしなくていいのに』
 電話の向こうで、吉田さんは明るく笑う。
『だって私たち、クラスメイトじゃない』



 昨夜のことを思い出し、ぱしりと萎えた膝を叩いて気合を入れた時だった。再び携帯から着信音、今度は電話だ。表示されていたのは、ちょうど思い出していた彼女の名前。
『優歌ちゃん!くしろちゃん、見つけたよ!』
 告げられた住所は、私もよく知っている道だった。八坂の携帯を拾った場所のすぐ近くだ。
「本当!?まってて、急いでいくから……!」
 携帯を閉じて夜の街を走り出す。たよりない街頭に照らされた道、吉田さんはベンチに座って私のことを待っていた。
「優歌ちゃん!こっちこっち」
ぶんぶん手を振る彼女に駆け寄ると、私はその勢いのまま頭を下げる。
「吉田さん、こんな時間までごめんね。それで、できればその、しばらくくしろと二人きりになりたいの。大丈夫かな……」
 ここまで探してくれた彼女に少し申し訳なく思ったが、それでも最後の時間を邪魔されたくない。頭を下げたままもう一度ごめんと呟くと、吉田さんは「いいよいいよ〜」と笑って手を振ってくれた。
「なにか事情があるんでしょ?私はあっちの方で待ってるから」
「うん……ありがとう」
 走り去る彼女の背を見送ってから、そっとしゃがみこんで茂みを覗く。そして、私はほう、と息を吐いた。
 薄暗い茂みの中、光る猫の目が六つ。くしろと、その向こうでうずくまる成猫が一匹。そして、その成猫のお腹に頭を押し付け、すやすやと眠る小さな小さな子猫たち。
「八坂、見える!?」
 猫を刺激しないように小さな声で、呼びかける。
「くしろ、お父さんになってるわよ!」
 どうか、この声が届いていますように。そう祈りながら、そっとくしろに向かって手を差し伸べる。
「くしろ、おいで。お前の友達が挨拶しに来たよ」
 ふんふんとくしろは私の手の匂いを嗅いで、そろそろと茂みから出てくる。その柔らかい体をそっと抱きしめて、私は安堵の息を吐いた。
「ねえ、八坂。私不思議だったんだ。どうして病院で死んだはずのあなたの携帯が、あんな道端に落ちてたのかなって。もしかしたら、くしろがあなたをあそこまで運んだのかもしれないね」
 自分たちの子供を、八坂に見てもらいたくて。なんて、さすがに夢物語だろうか。それでも、八坂が助けた命が、こうして新しい命をつないだことが、自分の事のように誇らしかった。
 しっかりとくしろを抱き抱えて、外灯の下に歩み寄る。カメラのレンズにくしろが映るように、携帯を持った手をまっすぐに伸ばした時だった。
 ピロリン、と、聞き覚えのある間抜けな音が響いた。
「……ッ!八坂……!」
 慌てて、手の中に握り締めた携帯を見下ろす。明滅を繰り返していた画面が不意に真っ白になる。浮かび上がったのは、泣き笑いを浮かべた私と、その腕に抱かれたくしろの写真。少しだけピントのズレた、不格好な構図のそれを、なんどもなんども指でなぞる。
「あはは、へたくそ」
 声が震えた。目蓋がじわりと熱くなって、私はたまらず膝を折る。後から後からあふれる涙でぼやけた視界。大切に握り締めたままの携帯に、泡のように、ゆっくりと文字が浮かぶのが見えた。
『あ り が と う』
 それが、八坂の最後の言葉。
 ブゥン、とため息のような音を上げて。古ぼけた携帯は、動かなくなった。
 もう二度と、動かなくなった。



 始まる前は長いと思っていた夏休みも、終わってしまえばあっという間だ。八坂とお別れをしたあの日以降、私は課題とサークル活動に追われて過ごした。あの携帯は、机の中に今でも大切にしまってある。時々、思い出しては寂しくなることもあるけど、それも忙しい日々の中で少しずつ減っていった。
 そして、夏休み明けの9月22日。この日の講義は諸連絡で終わりだ。学生がだらだらと帰り支度をする中、私は早足で吉田さんのもとへ向かった。どうしても、顔を見て話したいことがあったのだ。
「吉田さん、ちょっといいかしら」
「うん、なあに?」
 けれど、私はそこで立ち止まる。用意していた口上も、いつの間にかどこかに飛んでいってしまった。
 困ったな。八坂がくれた大丈夫の魔法も、解けてしまったみたい。
 黙ったままの私を、吉田さんが心配そうに見つめてくる。
「優歌ちゃん?」 
 後ずさりかけた足を押さえて、私はポケットの中で、手をぐっと強く握り締めた。
 この手の中に、いつも握り締めていた八坂の携帯はない。今日も家に置いてきた。もうあそこに彼はいないし、それに、一人でもできるってちゃんと見て欲しかったんだ。八坂に、そして自分自身にも。
 携帯の代わりに用意してきたものを、しっかりと指でなぞる。
 お願い、もう一度勇気を出して。
「あの!」
 飛び出した声は、緊張からか少し上ずっていた。それでも私は、なんとか手の中のものを彼女の前で広げて見せる。
 それは、以前吉田さんが話していた猫カフェの割引券だった。
「これ、お母さんからもらったんだけど、私、猫カフェって初めてだから、勝手がわからなくて困ってて、だからその」
 思わず早口で畳み掛け、きょとんとした顔の吉田さんの顔に気づいて落ち着けと自分に言い聞かせ、
「……吉田さん、ここに行ったことあるんでしょう? よかったら一緒に行って欲しいなって、思って……」
「ふふ」
 最後まで聞いた吉田さんは、おかしそうに目尻を下げて笑う。
「急にかしこまるから何かと思っちゃった」
「う……」
「でも、ありがとう! 私でよければ一緒に行こう」
 ぴょんと小さく飛び跳ねてから、吉田さんは、「実はね」と言った。
「優歌ちゃんって、たしかサークルの冊子に猫の写真出してたでしょ?」
「よく覚えてるわね」
「私、あの写真とっても好きなの! 別になんてことない構図だったけど、映ってる子がのびのびしててとっても可愛い!」
「あ、ありがとう……」
 急に昔のことを褒められて、私は思わず赤面する。
 吉田さんは、隣でどこかすっきりしたような顔で伸びをしながら、
「前に、私から猫カフェ誘ってみたことがあったでしょ。私も猫は好きだけど、あれは建前。本当は、優歌ちゃんと一度話してみたいと思ってたの。あんなに生き生きした猫の写真を撮る人なら、猫カフェも興味があるんじゃないかって。でも、相手の都合も考えずに失礼だったかなって、ちょっと反省してた」
「失礼なんて、そんな」
 あの時、失礼だったのは私の方だ。今でも、寂しそうな顔の吉田さんの顔は覚えてる。
 思わずうつむきかけたその時、「だからね」と優しい声が耳に届いた。
「こうやって誘ってくれたこと、本当に嬉しい。あの時勇気を出してよかったなって」
「勇気? 吉田さんが?」
「うん。だって優歌ちゃんを誘うの初めてだもん。そりゃ緊張するよ〜」
 当たり前のように言う吉田さんを見て、気づく。
 ああ、そうか。みんな、少しずつ勇気を出しあって、友達になっていくものなんだ。
 私一人だけが怖がってると思ってた。だけどみんな、一緒なんだね。
「せっかくだし、今日は一緒に帰ろう! ほら、日程も決めちゃいたいし」
 はやくはやく、と、少し先を行く彼女が手を振った。
 きっと、今日の出来事も、ほかの人から見たらなんてことない日常の一コマなんだろう。
 それでも、私にとっては大きな一歩。
 私はもう、大丈夫だ。


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