▽ 扉を開けて
ピンポン、というチャイムの音で目が覚めた。
「君嶋さん、お届けものです」
重い体を引きずって玄関に向かう。魚眼レンズを覗き込むと、丸くゆがんだ配達員の帽子が見えた。そういえば、私の所に来るのはいつもこの人だ。帽子を深々とかぶってるから顔は見えないけれど、声に聞き覚えがある。紙一枚がかろうじて通るくらいに細くドアを開けると、その隙間からすっと伝票が差しこまれた。
「サインいただけますか」
いつものやり取り。無言でひったくって署名しドアの隙間からつき返すと、向こうも慣れた様子でそれを受け取った。
「荷物、どうしますか」
「そこに置いてって」
これもいつものやり取りだ。配達員は特に詮索もしないで荷物を降ろすと、足早に帰っていく。その足音が聞こえなくなってから、私は荷物を中に運び入れた。とたん、口うるさい同居人がからかうように声をかけてくる。
『またそんな無愛想な対応して。そろそろ愛想つかされるぞ』
「別に問題ないでしょ。一生話すことなんてないんだから」
黙っててよ、とつぶやきながら箱を開ける。中身はお米とレトルト食品だ。
「これでまた一週間生活できる」
『俺は、食べるものくらい外で買うべきだと思うけどねぇ』
「黙ってって言ってるじゃん」
外になんて興味ない。この部屋と、魚眼レンズの向こうからやってくる食料だけあればいい。
私は引きこもりなんだから。
小学生の頃、私のあだ名は嘘つきちゃんだった。中学生の頃はかまってちゃんで、高校生のときは……思い出したくもない。その頃から私は家にこもりがちで、高校を中退したのを期に完璧な引きこもりへと進化を遂げた。いや、退化だろうか?まあそんなこと、どっちだっていいんだけれど。重要なのは、私にとって世界はやさしく出来てはいなかったってことだ。どこにいっても馬鹿にされ、気味悪がられ、後ろ指を差される毎日だった。それでも10年の間耐えていたのだから、少しは自分を褒めてやりたい。
『レトルト食品ばっかりじゃ体に悪いぜ。体力も落ちるしさ』
ああ、ほんとにうるさい同居人だな。
「そんなに言うなら、あなたが買ってきなさいよ」
刺々しい言葉を投げつけると、相手は少し気を悪くしたみたいだった。まあ狙ったんだけど。
『それが出来てるならそうするさ』
「そうね。あなたにも出来ないんだから、この件に関しては黙っててくれる?」
そう言って同居人をにらみつける。もっともそこには誰もいない。ただ、壁に虫でもとまってるような染みが一つあるだけだ。
「それに、体に悪いのと心に悪いの、どっちもどっちだと思うわ」
『小夜は口先だけが達者だな。そうやって言い訳ばっかりしてるから前に進めないんだよ』
その声は確かに、染みのほうから聞こえてくる。いや、まさしく染みが発している声だ。そしてこれが、私が周りから気味悪がられた理由だった。
私は、人ではないものの声を聞くことが出来るのだ。
まあ、そうはいってもこの世界の全てのものの声が聞こえるわけじゃない。例えばこの家の中で声が聞こえるのは、金魚のノイズと椅子のスリープ、それにさっきからうるさく口を挟んでくる壁の染み、ベルだけ。だけど、人間世界を敵に回すには十分だった。何せ私には、人間の声なのかそれ以外の声なのか、まったく見当がつかないのだ。返事をしたら誰と喋ってるのかと聞かれ、返事をしなければ無視されたと機嫌を悪くする。なんて生きにくい世界なんだろう。
おまけに、同居人たちにも恵まれない。ベルは聞いての通りおせっかいだし、ノイズは性悪、スリープは話し相手になるには寝てばっかりだ。
「そんなつまらない話より、何か面白い話をしてよ」
『ったく、しょうがないな。じゃあお前が来る前の住人の話でもしてやるよ』
ベルはそういって、いつものように思い出話を語りだした。私はそれを子守唄に、また夢の世界へと沈んでいく。
今日もまた、社会から隔離された生温い時間がすぎていった。
内職で得たわずかな給料と親から送られる仕送りを、一週間ごとに届けられる食料に変え、それ以外の時間は布団と戯れる。そんな生活に変化が起こったのは、季節が夏から秋へと移ろいはじめた日のことだった。いつもは荷物を届けたらすぐに帰るあの配達員が、今日はなかなか帰ろうとしないのだ。私は困惑して玄関の前に立ち尽くした。せめて何か言ってくれたら対処も出来るのに、配達員はずっと黙ったままなのだ。
結局、先に口を開いたのは私のほうだった。
「……何か用?」
魚眼レンズの向こうで、帽子がゆらりと動いた。
「特に何かあるわけでもないんですが、そういえば、僕とあなたはもう三ヶ月の付き合いになったんだなと思いまして」
僕、ということはこいつの性別は男なんだな、と今更のように思いながら私は言葉を返す。
「私とあなたは、ちゃんと話したこともないけど」
「でも顔見知りですよ」
そういえば、前にうっかりつまずいてドアを全開にしてしまったことがあったっけ。あのときに顔を見られていたのか。
だけど。
「私はあなたの顔なんて知らない」
あの時私は、とっさに目をそらしてしまったんだから。
そう言うと、彼は残念そうに呟いた。
「そうですか。それは少し、寂しいですね」
それだけ言うと、彼はなんだか悄然とした様子で帰っていった。それを確認してから、私は大きく息を吐く。
まるで彼が私の世界に踏み込んできたような気がした。けれどそれはあまり不快ではなかった。ただ、ドアの向こうの彼の体温が、そっと背中に触れていったような気がした。
『なんだ、小夜のことなんてとっくに嫌いになってたと思ったが、そんなことねぇじゃん』
後ろで一部始終を聞いていたベルがからかうように笑う。
「今日はたまたま人恋しい気持ちだったんじゃない。もう話すこともないよ」
けれど、意外にも彼は来るたびにぽつぽつと声をかけてくるようになった。大抵はほんとにくだらない話、例えばあのテレビ番組が面白かったとか。子供の頃の夢だとか。私はいつも、あまり抑揚のないさらさら乾いた砂のような声を、ドアに背中を押し付けながら聞いていた。私から話しかけることはなかったから、彼は私が話を聞いているかどうかもわからないはずだ。それでも彼は毎週毎週声をかけてくるのだった。
そんな彼に、私はもしかしたら一種の親しみを感じていたのかもしれない。だってそうじゃなかったら、あんな気まぐれおこすわけがないもの。
「ねえ、なんで私にかまうの」
だいぶ日が短くなった冬のある日、いつものように配達に来た彼に私は声をかけた。魚眼レンズの向こうで、小さく帽子がはねた気がした。おかしい。彼も変だけど、今日の私も相当変だ。ぴょこんと動いた帽子に、思わずくすりと笑ってしまったのだから。
「僕の名前、朝陽っていうんです」
ややあって彼は答えた。
「君嶋さんの名前と対ですね」
「朝と夜は一生交わることはないのよ」
そう反射的に返してから、ちょっと意地が悪かったかな、と反省する。ベルやノイズに対してはいつもこんな調子だから、ついそっちの私が出てしまった。謝ろうかと悩んでいると、彼はいつもと同じ平坦な声でこう返してきた。
「そうですか。僕は、夜と朝は仲がいいんだと思ってました」
「なんで?」
「だって、手をつないでるじゃないですか」
朝の後には必ず夜が来るし、夜の後には必ず朝がくるんだから。
私は呆気にとられてドアを見つめた。まさかそんなロマンチックなことを言われるとは思わなかったのだ。しかもこんなまっすぐな声で。
「あんた、変よ」
「よく言われます」
そうか、彼も変なのか、そう思うとなんだか愉快になってきて、私はドアの向こうに親しみを込めて言う。
「そう、私も変って言われるの」
仲間ね、そう言うと、ドアの向こうで彼も少さく笑ったような気がした。
その日から、私たちはよく話すようになった。相変わらずドアをあけることは出来なかったけど、彼は気にしていないようだった。私は面倒だった受取日が楽しみになり、次あったときは何を話そうか、色々考えるようになった。もっとも、私は相変わらず聞き専だったんだけど。彼の話は面白かったし、彼の声は耳に心地よかった。私は話を聞きながら、頭の中で彼の姿を思い浮かべる。髪は何色かな、目はどんな感じなのかな。どんな顔で笑うんだろうな。彼の話を聞いてる間、私はとても幸せだった。
私はすっかり忘れていたのだ。幸せというものが、いかに危ういバランスの上に成り立っているのかを。
『なんだか最近楽しそうね』
ある朝の事、珍しくノイズがそんな風に声をかけてきた。
「そう?自分ではそんな自覚ないけど。それにしても珍しいじゃん。あなたの方から話しかけて来るなんて」
ノイズ、という名前の由来は、いつも野次ばかりでちゃんと会話が成立しないところからつけた名前なのに。
『まあそうね』
と彼女はちょっと生意気な声で言ったっきり、黙り込んでしまった。これも珍しいことだ。私は首をかしげたけど、ノイズが変なのはいつもの事かと割り切った。それが、私がノイズを気に入ってるところでもあったから。
それきり私はこのことをすっかり頭から消してしまった。この日も朝陽くんが来る日で、私は今日はどんな話をしてくれるのか、そのことで頭がいっぱいだったのだ。
「小夜さん、お届けものです」
聞きなれた声がして、私は玄関に駆け寄った。伝票にサインをして渡すと、「今日は何の話をしましょうか」と朝陽くんが柔らかな声で言う。
「朝陽くんの話をして」
「じゃあ、僕が小学生のころの失敗談でもしましょうか」
朝陽くんが話し始めたのを確認してから、私は扉に背中をくっつけて目を閉じる。
そうして温かな時間に浸っていた私は、よほど油断していたのだろう。
『小夜はほんとに朝陽くんの事が好きだよね』
「そんなわけないじゃない。あなたは黙っててよ」
ノイズの言葉に、反射的にそう返してしまったのだから。
朝陽くんの言葉がぴたりとやんだ。少し沈黙があって、それから探るような声がかけられる。
「小夜さん?今誰かと一緒にいるんですか?」
「え?いないけどなんで」
そういってから、私ははっとして口をつぐんだ。世界から一気に色が消えた。
「小夜さん?」
「あ……」
その探るような声が、疑うような声が、顔も思い出せない誰かの声と重なった。
嘘つきちゃん、かまってちゃん。
キチガイちゃん。
「な、なんでもない」
何とか絞り上げた声は、自分でもかなりふるえていたと思う。
「ごめん、今日は体調悪いみたいだからもう帰って」
「でも……」
「帰って!!」
叫んでから、自分の声の大きさにびくりと体が震えた。ドアの向こうから、朝陽くんが立ち去る足音が聞こえた。待って行かないで。早くどこかに行って。嫌いにならないで。もう私の事は忘れて。矛盾した感情に引き裂かれそうになって、思わずうずくまる。
失敗した。なんで油断してたんだろう。こうなる事がわかってたから、私は人から距離を取ったのに。
もし朝陽くんに秘密を知られてしまったら、彼はなんていうだろう?それでなくても怒鳴りつけてしまった。彼は自分が何で怒鳴られたかもわからないだろう。あやまらなくちゃ。でもどうやって?どうして怒鳴ってしまったのか、上手く説明できるだろうか。
『小夜』
私ははっとして顔を上げた。
「ノイズ……」
『ご、ごめんなさい。あなたがこんなに混乱するなんて思わなかったの』
その言葉を聞いた途端、頭の血がすっと下がった。混乱していた思考が全て怒りの感情に変わるのがわかった。
「もういいよ」
ぞっとするほど冷たい声が唇から零れ落ちた。
『小夜、聞いて』
「あなたは私の事が嫌いなんでしょ。ごめんねろくに世話も見てやれなくて」
『違うわ、小夜はよくやってくれてる』
「いいからもう話しかけてこないで」
『小夜、落ち着けよ』
「うるさいッ!」
ベルの方をきっと睨み付ける。動かないはずの壁の染みが、小さく揺らめいた気がした。
「あんたたちみたいのが、こっちの都合も考えずに話しかけてくるから、私はどこに行っても一人ぼっちだったのよ」
こんなことになるくらいなら。
「いっそ耳なんて聞こえなくなってしまえばいいのに」
しん、と部屋が静まり返った。ベルもノイズも、言葉をなくしているようだった。
私は何だかすっきりして、それから無性に泣きたくなった。
次の日、起きたら部屋が無音だった。
「おはよう」
その言葉は誰にも拾ってもらうことなくぼたりと床に落ちて、私は首をかしげた。おかしい。いつもならベルもスリープも、あの生意気なノイズまでもがちゃんと返してくれるのに。
「ああ、静かな朝は気持ちがいいわ」
もしかして、昨日の件を引きずってるのか。そう思った私はことさら意地悪に言う。けれどやっぱり反応はない。
その日はずっとそんな調子だった。最初は私も全然気にしていなかった。それよりも朝陽くんにどう言い訳をしたものか、頭の中はそればっかりだ。
けれど、夕方になるころには私もさすがに不安になってくる。
「ねえ、何とか言いなさいよ」
「言われっぱなしは性分じゃないでしょう」
急速に暗くなってくる部屋で、私は次々と言葉を投げつけた。無音がこんなに怖いものだとは知らなかった。あやまってしまうのが一番早いのかもしれない。だけどこの件で、私は一切譲る気はなかった。朝陽くんに嫌われないかという不安感も、私を怯えさせている原因だったからだ。
そのまま何度呼びかけても返事はなくて、気が付くとすっかり暗くなった部屋で、私はぽつんと座り込んでいた。
「もしかして、消えてしまったの……?」
そうつぶやいた自分の声があまりに弱々しくて、私は目を瞬かせる。その拍子にぱたりと涙が床に落ちた。
その時だった。
『……なんで泣くんだよ』
「ベルっ!?」
『お前がこうなる事を望んだんじゃないか。それなのになんで泣くんだよ……っ!』
それは、まぎれもなくベルの声だった。思わず床にへたり込んで、私は枕をベルに投げつける。
「ほ、ほんとに喋らなくなるなんて、想像できるわけないじゃない!なんでずっと黙ってたのよ!そんなに私の事が嫌いになったの!?」
『お前が嫌いになったわけじゃない!お前が、俺たちのせいで独りぼっちになるって言ったんじゃないか!』
初めて聞くベルの怒鳴り声だった。
『俺はお前と話せて楽しかった!ノイズもスリープもそうだ!だけどお前が俺たちのせいで苦しむなんて嫌だから、昨日の夜話し合ったんだ!これからはお前に話しかけないようにしようって!』
「なに、言って」
『俺たちは、お前がそうやって閉じこもってる姿何ざみたくねーんだよ!毎日毎日辛気くせぇ顔しやがって!でも最近は少し楽しそうだったから!そんなお前の姿を見るのが俺は楽しかったんだ!それをぶち壊しちまうなら、黙ってようと思うくらいにはな!』
ぼろぼろ涙を流したまま、私は茫然とベルを見つめる。そんな風にベルが思ってくれているなんて、全く考えもしなかった。
「でもじゃあ、なんで昨日ノイズはあんな意地悪をしたのよ」
『ごめんなさい、小夜。あなたがあんまりにも楽しそうだったから、少し嫉妬してしまったのよ』
「嫉妬って……」
『私がどんなに鱗を見せつけても、あんなに楽しそうな顔はしないんですもの。だから悔しかったのよ。ほんとうにごめんなさい』
その言葉を聞いて、また涙があふれ出した。ぼろぼろと頬を伝う涙は、焼けるくらいに熱い。
「私だって!みんなの声に支えられてた!だから聞こえなくなって怖かった!みんなが消えちゃったんじゃないかって、すっごくすっごく怖かった!」
『悪かった』
『ごめんね』
『ごめんなさい』
『お前を傷つけたくなかった。でも、逆ににお前を追い詰めてしまってたんだな』
「ベルのくせに、余計な気を使うからよ」
『うん。ごめん』
優しい声が、ささくれた心に痛いほどしみて、私はわんわんと子供のように泣きじゃくった。
『なあ、小夜』
泣き疲れて声も枯れたころ、ベルはぽつりと言った。
『朝陽にさ、お前の事、ちゃんと話してみたらどうだ』
「……どうして、急にそんなことをいうの」
『さっきも言ったけど、俺はお前がずっと閉じこもったままのを見るのはつらい。お前の事が、周りに理解されないのはもっとつらい』
「でも、怖いんだよ」
ほんとはもっと自分の事を知ってほしくて、歩み寄りたくて。でも、もしそれで拒絶されたら苦しいから。歩み寄った分だけ、深く深く刺さるから。
朝陽くんの柔らかい声を思い出す。あの言葉で拒絶されたら、それはきっと強く心をえぐるだろう。そしてそれもいつかは風化していって、朝陽くんは顔も覚えてないみんなの一人になって消えてしまうんだろう。
『そうだな。臆病で、勝手に想像して絶望して、一歩も踏み出せないでいるのがお前だったな』
そうベルは言った。でもその声は、責める風でも馬鹿にする風でもなくて、むしろ、子供をあやすような優しい声で。
『そんなお前が、俺はほっとけないんだよな』
でもさ。
『お前がさっき、つらかったって言ってくれなかったら、俺はどうしてお前が傷ついてたのかずっとわからないままだった。それで思ったんだ。気付かないうちに相手を傷つけてしまうのだって、すごく怖いことなんだって。朝陽も、きっとそうなんじゃないのかな』
「……うん」
『ちゃんと話してみろよ。』
「でも……」
『大丈夫だって。もしどうしてもダメだったら、俺が朝陽に抗議してやるよ』
「ベルの声は、朝陽くんには聞こえないじゃない」
『それもそうか』
あはは、と笑うベルに、つられて私も笑う。
『大丈夫だよ、お前は一人じゃないんだから』
うん、と私は子供のようにうなずいた。
「わかった。今度話してみるよ」
気付かないうちに、たくさんの優しさをもらってた。私にはちゃんと、仲間がいた。
一人で耐え抜いたあの10年間とは違う。
だから、きっと。
私はまた頑張れる。
約束の日、私はいつもより早めに玄関に立った。
『小夜気合入ってるなー』
「私、こういうのは形から入るタイプだから」
久しぶりにしっかりと櫛を通した髪をつまんで、私はあえて強気に笑って見せる。今日は化粧までしたのだ。さすがに勝手を忘れてしまって少し不恰好にはなったけど、私の戦化粧だった。
そしてついに足音がして。ピンポン、とチャイムが鳴る。
「……小夜さん、お届け物です」
「はーい」
努めて明るい声で答えると、扉の向こうでわずかに動揺した気配がして、それから伝票が差し込まれた。
「サイン、お願いします」
「うん」
それを受け取ってサインしながら、私は朝陽くんが何かいう前に素早く口を挟んだ。
「あのさ、今日は、私の話を聞いてほしいの」
「小夜さんの話ですか?」
「そう。だめかな?」
少しドキドキしながらそう言うと、ふわりと笑う気配があった。
「いえ。むしろうれしいです」
私も微笑んで、それから全てを話した。自分の不思議な耳の事、そのせいで人から嫌われたこと、この話をするのも怖かったけど、同居人に勇気をもらったこと。
「だから、先週は焦ってしまって怒鳴りつけてしまったの。ごめんなさい。そして、最後まで聞いてくれてありがとう」
しばらく沈黙が下りた。彼は彼なりに、私の言葉をかみ砕いて飲み込んでいるようだった。今、怖くないと言ったらうそになる。どころか、足が震えて今にもへたり込んでしまいそうだ。
それから永遠にも感じる時間が過ぎて、ついに朝陽くんが口を挟んだ。
「話は分かりました。それで、僕が思ったことを言ってもいいですか」
「うん」
小さく身構える。
「小夜さんって、結構臆病だったんですね」
「えっ」
「というか、正直ショックです」
僕って、そんなに信用ないですかね、と拗ねたようにいうので、私はあわててしまう。
「違う!信用してるから話してるんじゃない!」
「だって、それで僕が小夜さんの事を気持ち悪がるって思ってたんでしょう」
「うん。だってそりゃ、自分と違ったら怖いし気持ち悪いじゃない」
「僕は、素敵な力だと思いますよ」
だって、それって、いろんなものに耳を傾けてるってことでしょう。と、彼はなんてことないようにそう言った。
あっ、と声が漏れた。
「少し残念ではありますけどね、小夜さんと同じものを聞けないのは」
でも、小夜さんと同じ物が聞こえなくても問題ないです。
「小夜さんの声が聞こえれば、僕はそれで十分ですから」
「は、はは……」
そうだった。こいつはこういう恥ずかしいことを、さらっと言ってくるやつなんだった。
「きみ、天然たらしってよく言われない?」
「こんなこと、小夜さんにしか言いません」
確かに、ベルの言ったとおりだ。一人で怯えて、勝手に絶望して馬鹿みたいだね。
だけど、こんなに世界が優しかったなんて、思ってもなかったんだ。
今ならきっと、もう少し勇気を出せる。
「あのさ、私。君の顔見てないって言ったじゃん。あの後いろいろ想像してたんだけどさ」
「はい」
私は塗れた目元をぬぐって笑った。
――…今、答え合わせをしてもいいかな?
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