小説 | ナノ


▽ 代替行為


 なんの疑いもなくこちらを見上げる彼の、丸い頬をつるりと撫でる。柔らかくて、弾力があって、でも、奥に硬い金属の機体を隠した偽りの肌。親指でするするとなぞると、ひんやりしていて気持ちがいい。
 イクはしばらくされるがままになっていたが、やがてこてんと首をかしげて言った。
「ドクター?どうかなさったんですか?」
 いつもなら、とっくに彼をスリープモードに移行させている時間だ。それなのに、なかなか操作盤に手を伸ばさない私を、彼は不思議そうに見つめている。 
 イクは知らない。いま電源を切ったら最後、目覚めることはないことを。彼は眠ったままパーソナルデータとメモリーを解析され、その後初期化されるのだ。次に目を覚ましたとき、彼はもう、別の存在になっている。
 私とこうしている時間も、彼にとってはなかったことになってしまう。そのことが、妙に私を焦らせた。
「好きよ」
 口をついて出た言葉に、はっとして慌てて口元を抑える。なぜ、そんな事を言ってしまったのだろう。彼はロボットで、私にこうも優しくしてくれるのも、そうあるべきと設計されているからで。そして私も、決して彼に好意を抱いているわけではないのに。
 それでも。
「ええ、私もドクターのことが好きですよ」
 機械的な答えとは裏腹に、そっと私の頭を撫でる手つきは人間のように――あの人のように不器用で、私はぎゅうと心の柔らかなところを鷲掴みにされてしまう。
「好き、大好き。愛してる」
 私、ひどい女ね。あの人に直接言う勇気もないくせに。こうして、私に逆らえない彼をあの人の代わりにして。研究者としても、人間としても、最低だ。
 どうせ明日には、全部なかったことになるのだから。今だけは、あなたの胸にすがって泣いてもいいかしら。
「大丈夫、大丈夫。私はここにいます」
 まるで子供をあやすように、イクは私をそっと抱きしめた。冷たくて硬い機械の体。それでも、目を瞑ればあの人がそこにいてくれるような気がした。
 そうやって、どれだけの時が経っただろう。私は一回すんっと鼻をすすって、ゆっくり彼の体から身を起こす。
「ごめんなさい。驚かせたわね」
 偽りの優しさに浸っているのは、くらくらするほど心地いいけれど。これ以上は、きっと別れが辛くなる。
 涙を拭って、私は操作盤の前に立った。電源ボタンに指をかけ、少し迷ってから、いつもと同じように声をかける。
「おやすみなさい、イク」
「ええ、おやすみなさい」
 さようなら、と、胸の中でつぶやいて、私はボタンを押した。寸前、イクが口を開いて言った。
「マユミ、私もあなたを愛しています」
「……え」
 シュウン、と操作盤から光が消えた。私はふらふらと、すっかり電源の落ちた彼の顔を覗き込む。まるで眠ってるみたいな、安らかな顔。
 くたりと足から力が抜けて、私は床にへたりこんだ。手で顔を覆う。
 それは、イクなりに考え出した、精一杯の新愛の証だったのかもしれない。それでも、その言葉は私の心に刺のように突き刺さって抜けないんだ。
「ああ、ほかでもないあなたに、そう言って欲しかった」
 熱い雫が、手のひらを濡らす。寒々しい喪失感と、吹き荒れるような情熱の狭間で、私はしばらく動けなかった。



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