小説 | ナノ

▽ フェティシズム2


 身を切るほど冷たく凍えた夜、布団の中で一人でじっとしていると、聞こえるはずのない空咳が聞こえてくることがある。そうなるともう、息もできなくなるような喪失感にまともに寝ることもできなくなる。
 佳代の弟が亡くなったのは、彼女がまだ14の時だ。元々体の弱かった弟は、季節の変わり目に体調を崩して、そのまま帰らぬ人となった。
 弟が亡くなった日のことは、今でもよく覚えている。静かな朝だった。庭先に咲いた金木犀の、甘やかな香りが満ちていた。連日響いていた咳の音が聞こえないのを不審に思い、めくった布団のその下で、弟は冷たくなっていた。
 弱っている弟に何もしてあげられなかった無力感は、佳代をがんじがらめに縛り付ける。塞ぎ込み、ついには咳の幻聴にまで苛まれる彼女を救ったのは、友人の和泉だった。
「眠れない夜は、俺の家に来るといい。ま、一人でいるよりは気が楽だろう」
 その言葉通り、彼は佳代が眠れないと言えば、何も言わずに自分の部屋に匿ってくれるようになった。二人で夜通し話すこともあれば、黙ってそれぞれ好きなことをしていることもあった。彼は何か特別なことをするわけではなかったが、ただ一緒にいてくれるだけで、佳代の気持ちはだいぶ楽になったものだ。
「大切なことは、まず相手を知ることだ。相手を知り、自分を知れば、自ずと己の役割も見えてくるだろう」
 そう、佳代に教えてくれたのも和泉だった。そしてそれを彼は身を持って教えてくれた。今ではもう、佳代は幻聴に悩むことも、眠れない夜をすごすこともない。



 その日から、佳代は仕事の合間に時間を見つけては、愁一のことをもっとよく知ろうと努めた。彼に今まで以上に話しかけ、他の女中にも積極的に尋ねて回った。しかし、思った以上に彼女の試みは難航した。
「なんだかおかしい」
 彼女がそのことに気付いたのは、数日たった頃だった。女中たちが、彼のことになるとなぜだかみんな口をつぐむのだ。最初は故人が絡む話だからかと思っていたが、それにしては様子が変だ。まるで薄気味悪いものでも見たかのように、顔をしかめて話を逸らす。中には露骨に佳代を避けだす者もいる。
 佳代はほとほと途方に暮れた。屋敷住まいの彼女のこと。基本的にほかの女中以外ろくに会話する者はいないのだ。
「屋敷の中の人でダメなら、外の人に聞いてみようかな……?和泉は前からこの村に住んでるし、何か知ってるかも」
 そう思った佳代の行動は早かった。女中頭の昭子に掛け合い、一日だけお休みを貰うことに成功する。
 そして、その休暇を翌日に迎えたある日。
 いつものように掃除を終え、廊下を歩いている時だった。書斎に続く扉が少し開き、白い腕が手招きしているのが目に入った。
「愁一さん? なにか御用ですか?」
 部屋に入ると、天井まで届く大きな本棚の前で愁一が精いっぱい背伸びをしているのが目に入った。佳代の言葉に彼は振り向き、ほっとしたように笑う。
「佳代さん、いいところに来てくれました。私が肩車をしますから、一番上にある本を取ってもらってもよろしいですか?」
「あ、はい!」
 示された本を渡すと、彼はほっとしたように息をついた。
「佳代さんが来てくれて助かりました。たくさん書物を入れられるのはいいですが、高いところの本が取れないのも困りものですね」
「お役に立てたようでよかったです。……それも勉強に使う本ですか? 難しそうな漢字がいっぱい」
「いえ、これは小説です。ちょっと息抜きでもしようと思って」
 拓造様には内緒ですよ、と愁一は佳代の耳元でささやく。
「それ、どんなお話なんですか?」
「ちょっとした冒険譚ですよ。井の中の蛙大海を知らず、ということわざがあるでしょう? 渡り鳥の噂話で、外にも広大な海があると知った蛙が、なんとかして井戸の外から出ようとするお話です。もとは子供向けの童話ですが、時々はっとするような風刺が効いていて、これがなかなか面白い」
 それに夢があるしね、と彼はひとりごちた。
「どういうことですか?」
「安全な井戸の中に住んでいるほうが、蛙にとっては幸せかもしれないでしょう。外に出れたとして、水場がなければ蛙はすぐに死んでしまうでしょうから」
 冬を知ってしまった蝶が長くは生きられないように、と彼はつづけた。
「でも、そんな現実を小説なら面白おかしく書き換えられる。井戸の外に出た蛙は広大な世界を散策し、冬を知った蝶は、寒さに立ち向かう自分の雄姿を他の仲間に語るでしょう。それって夢があるなぁと思いませんか?」
「そうかもしれません。私はあまり本を読みませんけど、愁一様の話を聞いてるだけでなんだかわくわくしてきます。愁一様は本当に本が好きなんですね」
 それを聞いた愁一は、ほんの少し照れくさそうな、それでいて誇らしげな顔で両手を広げた。
「はい。だから私は、文学史を学んでいるのです」



 彼女がそれに気付いたのは、夕飯の時間も終わり、食器を下げに厨房へ向かった時のことであった。
「佳代ちゃん! ちょっと来てくれる!?」
昭子に呼ばれ、佳代は冷蔵庫のほうへ駆け寄った。昭子は冷蔵庫の中で崩れてしまった食材を必死に抑えているところだった。
「だ、大丈夫ですか!?」
 慌てて食材を積み直す。なんとか一つも落とすことなく積み終わり、二人は大きくため息をついた。
「誰よ、こんないい加減な積み方したのは! あとでお説教だわ! 佳代ちゃん、ありがとうね。あなたがいなかったらいくつか食材を無駄にするところだったわ」
 佳代は昭子の言葉をほとんど聴いていなかった。今、今なにかものすごい違和感を感じなかったか。
 ……そういえば、さっきも似たようなことがあった。愁一が本を取れなくて困っていた時だ。あの時彼は手招きで彼女を呼んだが、自分がなにか作業をしているときは名前を呼ぶほうが早いのではないか。そもそも、彼は部屋に入ったとき本棚の前に立っていた。あそこから廊下まで手が届くとは思えない。
 では、あの手は。
 ふと、脳裏に数日前に見た白い蝶が蘇った。あの時は愁一の指にからみつく手を幻の蝶と見違えたと思ったが、もし本当に人間の手だったとしたら。
「腕だけの幽霊……?」
 無意識に佳代はそんな言葉を漏らしていた。こちらを見る昭子の目が、鋭く光った。



 そして翌日。
 腕の幽霊のことは気にはなったが、せっかくの休日である。少しくらい羽を伸ばしても罰は当たらないだろうと、佳代は和泉を誘って近くの町まで遊びに来ていた。お団子片手に賑わう市を冷やかしながらのんびり歩く。もう片方の手は、袂の中に忍ばせたお土産を握り締めていた。
「この辺りはいつも賑やかね。最近は、いつも静かな所にいたから、なんだか懐かしくなってきちゃった」
 そう言ってぐい、と背伸びをすると、和泉が興味深そうに口を挟んだ。
「白石家ほど大きな家だと、来客も多くばたばたしている印象があったが、意外とそうでもないのか」
「うん。まぁ、私は白石家の女中といってもまだ見習いみたいなもので、お仕えしているのもご当主の拓造様じゃなくて書生さんの方だから」
「ふん? なるほどな。書生にまで女中をつけるとは、裕福な家だ」
 羨ましい……と小声で呟く和泉。彼は驚く程不器用だ。ちゃんとした料理どころか、じゃがいもの皮剥きで四苦八苦していた姿を思い出し、佳代はころころと笑い声をあげる。
「俺の家でも女中を雇えれば、もっと論文に割く時間も増えるんだがな……」
 深々とため息をつく和泉を見て、ピンと来た。
「そういえば、和泉って色んな怪談に詳しかったよね?」
「ああ。どうした? 佳代もその手の話に興味が出てきたか?」
「そういうわけではないんだけど」
真面目な顔で振り返り、ちょっと頭を下げる。
「相談したいことがあるの。話、聞いてくれるかな?」



「……なるほどな」
 佳代の話を聞き終わった和泉は、両手で握った湯呑に目を落とし、それきり難しい顔で考え込んでしまった。そんな和泉の様子をチラチラ窺いながら、佳代は長い話で乾いた喉を潤している。
 二人は今、市場から少し離れた茶屋に来ていた。ゆっくり話が出来るところに移動したいと、佳代が和泉を引っ張ってきたのだ。
「最初に確認しておきたいのだが、君が見たのは本当に幽霊だったのか?」
 しばらくしてから顔を上げた和泉は、好奇心半分疑惑半分といった様子で尋ねた。怪談の熱心な研究者である彼も、流石に幽霊に会ったという話はにわかには信じられないらしい。
「君が嘘を言うとは思えないが、なにかの見間違いじゃないのか」
「それならそれでいいんだけど……。でも、もう二回も見てるんだよ? それに、他の人たちも、なんだか彼を恐れているみたい」
 離れに寄り付かない拓造や、警告のような言葉を残した昭子。皆は愁一を、ひいては彼の傍に現れる幽霊を恐れていたのではないか、と佳代は訴えた。
「書生につきまとう幽霊、ねぇ……。生前付き合いのあった人間と考えるのが妥当か。その腕だけの幽霊は、なにか悪さをするのか?」
「ちらっと見ただけだからわからないけど、でも、少なくともあの幽霊が愁一様のことを傷つけることはないと思う」
 きっぱりと言い切る佳代を、和泉は怪訝そうな顔で見ていた。
「妙にはっきり言うな。そう思う根拠が?」
「うん」
 頭の中で、あの白い手を思い浮かべる。今思えば、ほっそりとした女性らしい手だった。愁一の周りに現れる女性の霊。思い当たるのは一人しかいない。
「だって、あれはきっと、愁一様のお姉様だもの」
 その言葉に、和泉は大きく目を見開いた。思案するように顎に手をやり、「そうか!」と叫ぶ。
「白石愁一……! 書生というのは彼のことだったのか……!」
「和泉、彼のことを知ってるの?」
「俺でなくとも、十年前から村に住んでいるものなら皆知っている。あれは悲惨だったからな。そうか、幽霊というのはあの事件で亡くなった女性か」
「事件って……一体何があったの?」
「火事だよ。放火だ。犯人はすぐ捕まったが、夫婦と姉は助からなかった。生き残ったのは愁一だけ。白石家の縁者の家が放火に合うなんて前代未聞だからな。しばらく村はその話で持ちきりだった」
 佳代は愕然とした表情で黙り込んでしまう。放火。それでは、あの幽霊は人の悪意によって殺されたのか。人が人を殺すなんて、まるで質の悪い作り話のように曖昧模糊として実感がわかない。
 和泉はそんな佳代を痛ましそうな目で見ていたが、そのまま話を続けた。
「それで、生き残った愁一のことだが。彼も火事に巻き込まれているんだ。だが、姉が抱きしめて守ったことで救われたらしい。代わりに姉の方は、彼を抱きしめていた腕以外ほとんど焼けてしまったと聞いている。腕だけの姿で現れるのはそれが理由だろう」
「そう、なんだ……」
「だが、その腕の幽霊が姉だというのなら、何も心配することはないんじゃないか?」
「うん。それはそうなんだけど」
 そっと自分の胸に手を当てる。和泉の言ってることは佳代にもよくわかる。それでも、小さな刺のようなものが、今でもここに引っかかっていた。
「……どうして、お姉様はまだこちらの世界に留まってるんだろう」
 そんな疑問が口からこぼれた。
 虚を突かれたような顔をする和泉をすがるように見て、
「幽霊は、この世に未練を残したものがなると聞いたわ。それなら、彼女はどうして今でも彼の傍に現れるの?」
 頭をよぎるのは、姉の事を語る愁一の顔。
「お姉様は、今でも愁一様のことを心配してるんじゃないかな」
 心を置き忘れてしまったよと彼のことを表現したのは昭子だったが、佳代も、彼の態度にはどこか危うさを感じていたのだ。当事者である姉が心を痛めるのは、当然のことのように思われた。
「なるほど、ありそうな話だ」
 和泉も首肯する。
「そういえば、お前も弟の死に囚われて、しばらく身動きがとれなくなっていたことがあったな。彼の場合はまた違うようだが、それでも似た状況というなら心配になるのも無理はない」
 まさか自分のことに話が飛び火するとは思っていなかったのか、佳代は照れたようにうつむく。
「あ、あの時は迷惑かけてごめんね!」
「いや、気にするな。済んだ話だ。で、お前はこれからどうするんだ」
「とりあえず、愁一さんと一度話をしてみようと思う」
 膝の上で握った自分の手を見つめ、
「それで、彼の支えになれるように頑張ってみる。和泉みたいにうまく出来るかわからないけど、やれるだけのことはやってみるよ!」
 そう言って、佳代は覚悟を決めたような顔で笑った。晴れ晴れとしたその表情は、昔の影を全く感じさせない。
 和泉は優しく微笑み、彼女の着物の袂を視線で示した。
「たくさん話し合うといい。土産もあることだしな」
「うん」
 佳代は小さく胸を張る。
「任せてください!」




 近くまで送るよ、と和泉は佳代とともに茶屋を出た。彼女が小さくなるまで見送ってから、自分の家に向かって歩き出す。
「それにしても、本物の怪談にに関わることになるとはな。よく伝え聞くようなおぞましいものではなかったが」
 むしろ、弟を心配して成仏しきれない姉といいうのは、美談に入る部類だろう。
「当主や女中たちは彼を遠ざけていたようだが、事実を知ればさぞ驚くだろうな……?」
 ふと、足が止まる。何か、飲み下せない大きな違和感のせいで。
 白石家の者が、当主も含めて全員が彼を遠ざけているというのなら。
 それなら、なぜ彼は白石家の書生としてあの家に受け入れられたのだろうか?
 愁一は、確かに白石拓造の甥にあたる。が、白石家はこの村では絶大な権力を持つ名家だ。他の家に彼を押し付けるのも簡単だったろう。それでもあえて、本家で引き取ったのには、なにか理由があるのだろうか?
 例えば、そう、彼に関して隠蔽したい事実があるとしたらどうだろう。
「……まさかな」
 呟いて、再び歩き出す。我ながら随分白々しい声だと思ったが、あえて気づかないふりをした。



 姿勢を正し、静かに座して待つ愁一の前に、手早く皿を並べていく。今日の料理は、いつかのように佳代が全て下ごしらえから作ったものだ。お盆を持って一歩下がり、彼の反応を窺う。
 愁一は、一つ一つの皿をじっくりと見つめ、次いでゆっくりと味を確かめるように咀嚼した。しばらく無言の時間が過ぎる。
「佳代さん」
「は、はい!」
 愁一は佳代へと顔を向け、それからゆっくりと蕾がほころぶように微笑んだ。
「また、料理の腕を上げましたね。どれも本当に美味しいです」
「良かった! 色々勉強した甲斐がありました!」
「特に、このうどの和え物が、とても上品でいいお味です。佳代さんは、素敵なお嫁さんになれますね」
「えへへ……ありがとうございます」
 佳代は、頬に手を当ててはにかんだ。それから、窓の方へと視線をずらす。
「もう、すっかり春ですね」
 窓から見えるのは、まるで霞のごとく満開に咲いた桜の木だ。風が吹くたびに、薄紅色の花びらが渦を巻き、深い深い空の青さに吸い込まれていく。
 佳代が愁一が出会ってから、すでに半年の時間が経っていた。
「愁一様、この後、少しお時間よろしいでしょうか」
 料理があらかた片付いた頃、佳代が言った。
「お渡ししたいものがあって」
「私に、ですか? なんでしょう」
 真剣な顔をする佳代に合わせて愁一も姿勢を整える。その前に佳代が置いたのは、木を寄せて作った小さな写真立てだった。
「昨日、休日を頂いたでしょう。市場に行ったついでに買ってきたんです。お姉様の写真に、どうかなって」
「え……」
 愁一は、一瞬呆気にとられた顔をして、それから淡い憂いを滲ませながら首を振った。
「お気持ちは嬉しいのですが、これは受け取れません。この写真は、お守りなんです。これがあれば、今でも姉と繋がっていられるような気がして。でも、写真立てに入れてしまえば、姉との日々が思い出に変わっていく……そんな気がして、怖いんです」
 やはり、と佳代は思う。やはり、あの写真もまた、彼を過去に縛り付けている一因だったのだ。
 でも、彼女はここで引くわけには行かなかった。
「私も昔、大切な人を亡くしたことがあります」
 目を閉じれば、今でもはっきりと思い浮かべることができる弟の顔。気弱で、そのくせ少し生意気で、とても家族思いの優しい子だった。
「弟が死んでから、私たくさん後悔しました。ずっと咳き込んで苦しそうにしていたあの子に、最後まで何もしてあげることができなかったから……。弟が死んだ後も、夜が来るたびに思い出して、せめて弟が生きていたことを忘れないようにって、弟への思いも全部抱えて蹲っていたら、いつの間にか前に進めなくなってた」
「佳代さん……」
「今の愁一さんも、あの頃の私と同じです。お姉様の思い出を抱えたまま、あの頃のまま進めずにいる。でも、それももう終わりにしませんか」
 どれだけ過去に縋りつき、どれだけ思いを募らせようと、死者はもう二度と帰ってこない。だからこそ、私たちは失った日々を思い出に変えて、歩き続けるしかないのだと、佳代の瞳が訴えていた。
「私、もっと一生懸命頑張ります。お姉様の代わりに、これからは私が愁一様を支えます。寂しい時は傍にいて、何か悩みがあるならいつでも相談に乗ります。この写真立ては、私なりの決意表明です。だから」
 身を乗り出して愁一の顔を覗き込み、佳代は笑う。安心させるように、勇気づけるように。
「だから愁一さん。私と一緒に、先に進んでみませんか」 



 お盆を持って書斎から退出した佳代は、廊下の向こうに人影を認めて立ち止まった。
「……拓造様……」
「こうして顔を合わせるのは、久しぶりだな」
 険しい雰囲気を身に纏い、白石家の当主がそこにいた。
「あの、どうしてここへ?」
「君に話があってな」
 厳しい顔で、佳代を見据える拓造。
「最近、君があれのことを嗅ぎまわっていると報告があった。一体何を企んでいる?」
「企んでいるなんて、そんな!」
 佳代は慌てて首を振る。
「ただ、私は彼の力になりたかっただけです。そのためには、彼のことをもっとよく知る必要があると思ったから……!」
「あれには必要以上に関わらないほうがいいと、昭子から忠告があったはずだが?」
「それは……」
 咄嗟にうつむきかけ、それじゃダメだと再び顔を上げる。
「昭子さんの言っていることもわかります。でも、それじゃあ誰も愁一様に寄り添おうとする人がいないじゃないですか」
 昭子も、拓造も、他の女中たちも、皆彼を遠巻きにするだけで。誰も彼の味方になろうとは、しなかったじゃないか。
「だから、私一人ぐらいは、愁一様の味方でありたいと思ったんです」
「他に用がないなら、私はこれで失礼します」、そう言って、佳代はくるりと背を向ける。これ以上拓造の前にいたら、わけのわからないことを叫び出してしまいそうだった。
 彼女は最後まで気付かなかった。佳代の言葉を聞いた拓造が、ひどく冷たい目をしていたことを。
「昭子」
「はい、ここに」
 廊下の暗がりから、妙齢の女中が進み出た。拓造は、乾いた声で彼女に命令する。
「次の女中を探しておけ。この村に引っ越してきたばかりで、あの事件についても何も知らない奴を」
 そして、こう続けた。
「あの女はもうだめだ」



 ドンッと背中に衝撃があり、気が付くと佳代の体は空中に投げ出されていた。
 がりがりがり! とまるで体が削れるような音を立てながら階段を滑り落ちていく。ぐるりぐるりと視点が回り、気が付くと天地が逆さまになっている。少し遅れて、半身が火であぶられたように痛みだした。涙でぼやけた視界の中、最初に視界に入ったのは、ここにはあるはずのない物。
 バラバラに砕け、飛び散った木の破片達。それは、愁一に送った写真立ての成れの果てだった。
「え、な、なんで……」
 慌てて身を起こそうとした佳代は、ようやく階段の上に浮かび上がるそれに気づいた。
 それは、暗闇の中でぼんやりと光って見えるほど、真っ白い腕。
 改めて見ると、やはりそれはほっそりとした女性のものだった。腕の付け根、外側の皮膚にやけどのような引きつれが見て取れる。
「あ、あなたが私を突き落としたの……?」
 震える声で佳代は問うた。何故だ、弟を守り亡くなった彼女に佳代は尊敬の念まで抱いていたというのに、どうしてこんなことをする……?
 白い腕は、何も答えることはなかった。ただ、くいくい、と彼女を誘うように指を動かし、それからさっとその身を翻して消えていった。
「そっちは愁一様の……! ま、待ってください!」
 ずきずきと痛む体をなんとか起こして、佳代は立ち上がった。腕が消えた方向には、愁一の書斎がある。まさか自分の命と引換に守った弟に何かするとは思えなかったが、それでも彼女は弟を守ったその腕で、佳代を突き飛ばし殺しかけたのだ。
 この幽霊は危険だ。愁一が危ないかも知れない。
「行かなきゃ……!」
 手すりにしがみつきながら、なんとか階段を登る。
「お願い、無事でいてください……!」
 階段を登れば、書斎はもうすぐだ。祈るような気持ちでノブに手をかけ、それから意を決してドアを開け放った。
「愁一さん! 大丈夫ですか!?」
 愁一は、こちらに背を向けて立っていたが、佳代の大声にさっと振り返った。
「ああ、佳代さん。どうしたんですか?」
 そんな大声まであげて、と穏やかに笑いながら首をかしげる。
「事情は後で説明しますから、私と一緒に逃げてください!」
「逃げる? なにから?」
「それは……っ!?」
 言いかけて、後ろから急に首を掴まれた佳代は思わず声を詰まらせた。
「かふっ……な、え……?」
 慌てて喉に手をやれば、ひんやりとした指があたった。細い指がぎりぎりとすごい勢いで首に食い込み、まともに息をすることもできない。生理的な涙があとからあとからあふれ、酸欠で頭がくらくらする。
 それでも、佳代は自分がここに来た理由を忘れることはなかった。なんとか指を引き剥がし、愁一の方をみやった佳代は、愕然と目を見開いた。
 愁一は、依然として穏やかに微笑みながらこっちを見ていた。
「愁一様……?」
「姉さんは、嫉妬深いんですよ」
 愁一の口から出たのはそんな言葉だった。
「心配しなくても、姉さんの代わりなんて、どこにもいるわけないのにね」
 それは、少し呆れたような、そしてとてもとても甘い声で。その目を溢れんばかりの愛しさで潤ませて。
 そして、佳代はようやく気が付く。白石家が秘匿してきた汚点、自身の最大の勘違いに。
「愁一様は、血の繋がったお姉様と、生前から恋愛関係にあったんですか……?」
 彼は過去に囚われていたわけではなく。彼女は彼を心配していたわけではなく。
 この、周りから隔絶された場所で、お互いに愛を育んでいただけなのだと。
「……」
 愁一は無言。けれど、その深まった笑みが、答えだった。
 ぐい、と再び、そして先程よりも強く首を絞められ、こらえきれずについにがくりと膝を折った。傾いていく視界の中、ゆっくりと愁一がこちらに歩み寄ってくるのが見える。その顔はやはり穏やかに笑ったままで。
 こつ、と足が目の前で止まった。
「井の中の蛙大海を知らず。されど天の青さを知る」
 それは、彼がいつかも口ずさんだ歌。
「身の程をわきまえて、天の青さを知るだけで満足してればいいものを」
 ここは現実なのだから。
 酸欠でゆっくりと白んでいく視界の中で、愁一の頬をするりと白い女の手が撫でた。その手に自分の手を添えて、うっとりと微笑む愁一の顔が、佳代が最期に見た姿だった。

「また、二人になれたね」




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