青白い皮を纏ったままの、丸いバノーラホワイトに歯を立てる。しゃくっと瑞々しい音を立てて口に入った欠片の食べ慣れた味に舌鼓を打ちながら、目線の先の本のページを片手で捲った。
先日、寿命がきた蛍光灯の変えがまだこないせいで薄暗い部屋の中で、PC画面だけが明々としていて眩しいが、本を読む今、この明るさはありがたかった。
非常にお行儀も、目にも悪い状態ではあるが、この本を捲る手を料理や食事なんかで止める気になれないのだからしょうがない。今の私にはそんな瑣末なことより、ジェネシスが新しく考えた解釈を綴ったこの本を読み進めて、感想や意見を練ってあげることの方が重要なんだもの。
指先で導入のよく知った文字列をなぞり、よく謳いあげる彼の姿を想いながら口ずさむ。

「『深淵のなぞ それは女神の贈り物 われらは求め 飛びたった』…」
「…『彷徨いつづける心の水面に かすかなさざなみを立てて』…かね?」
「!?っほ、宝条博士!?」
「古代詩『LOVELESS』の第1章…それも原文のほうか」

私も前に少しばかり研究したことがある。古臭いだけで、何も得るものはなかったが。
珍しくも私に近づき、そう語りかけてきた宝条博士。大変失礼な言葉を聞いたが、言い返せる立場でもなく、そうなんですね、と焦りと緊張で上ずった声で返事をした。

「…それは誰の論文だね?イツハーク博士。私も見たことがない本だ」
「あ、これは…ソルジャー1stのジェネシス・ラプソードスが新しい論を考え、綴ったものなので、世にはまだ出てないものなんです」
「ああ…ジェネシスか。君と彼は幼馴染だったかね?確かに彼は…LOVELESSに熱心だそうだな。物好きなことだ」
「…」

私のことどころか、他人になどほぼ興味がないだろう宝条博士。
人の好きなものになどきっと興味などないんだとはわかっていたけれど、大切な人が大切にしているものを笑われるのはやっぱり気持ちいいものではない。少しだけ苛立ちを覚えながら、隠すように曖昧に微笑みを返した。

「…人の研究したいテーマは、それぞれではありませんか?」
「…たしかにその通りだろう。だが、君のような数少ない有益な研究者が、自分の研究を置いてまで手を出すようなものではないと指摘したくなってしまってね」
「心遣いだけで、」
「それに加え君の場合、叙事詩そのものへの興味よりも、人間的な感情で動いているように見えてな…実に勿体ない。いや、そうであるからホランダーの下などで甘んじているのかね?」
「…勿体ない?」
「ああ、そうだとも。行動を縛る他人に向ける感情や倫理観など捨てて、己の知的好奇心や欲求のままに真理だけを追求する…それができたなら、君は今よりも愚かではなくなるだろう」

愚か。大切な他者の興味に寄り添うことを愚かと言い切る。だから…少しここはいつも息苦しくて、厭になってしまいそうになる。同じ、科学という学問の道を探究すると決めた人間としてさすがに黙って笑っていられない。勢いをつけて椅子から立ち上がって宝条博士に向き直る。

「…わ、私は、たしかに博士に比べれば、大きな命題よりも、その前にある瑣末なことに囚われるような大した科学者ではないかもしれません。ですが、私は自分が…自分が想う他人が想っているものを見て、知ろうとする自分のやり方を、愚かだと思ったことは1度もありませんっ!」
「ほう……君のような存在にも意見を述べられたとはな…否、ホランダーの駄作共には君程度の完成品が適切だったのだろうか…」
「?な、なにか言いましたか…?」
「君には知りえない話だ。さて…そろそろ失礼しよう。私には研究すべきことは山のようにあるのでね」

一気に興味が失せたように踵を返す宝条博士に、上司の1人に向かって言いすぎたような後悔と、心がまだ凝り固まっているような苛立ちを押さえ込もうと、手をつけていなかったバノーラホワイトを掴んで、部屋を出ようとする博士の背中を呼び止める。

「ほ、宝条博士!」
「…なんだね?」
「よ…良かったら、バノーラホワイト。おひとついかがですか…?お、お互い、気が立つことを言ってしまったので…」
「…結構だとも。そんなつまらない『女神の贈り物』とやらであればな」

鼻で笑い、残された捨て台詞と共に扉は閉じられ、宝条博士の足音が離れていくのを聞きながら、手元の青紫色の果実をなんとも言えない虚しさのまま、握りしめた。


end
知恵の実を齧る者
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