平衡感覚がない。

 自分が立っているのか浮いているのかも定かではない空間に七海はいた。真っ暗で何も見えないはずなのに、映像が次々と脳に送られてくる。

 見事な石庭を駆け回る子ども。薄暗い林道を何度も後ろを振り返りながらも進んでゆく。庵の襖を開けた先にいた大きな狐に驚き叫んだ。

「あれは勇人だ……」
「そう、僕の過去だ」

 ふいに掛けられた声に、七海は素早く後ろを振り返った。見た事のある名門高校の制服を着た勇人がそこにいた。

 一瞬誰だか判らなかったのはきっと髪と瞳の色が違ったから。七海の見知ったアイボリーではなかったから。
 黒髪に焦げ茶の瞳。たったそれだけで雰囲気がガラリと変わる。別人みたいだ。

 そう思い込もうとした七海に勇人は笑いかけた。笑ったのだと思う。背筋に冷たいものが這う気持ち悪さに身震いした。

「……あなた、誰?」
 
 これは誰だ。彼はどこへ行った。

「それ本気で言ってるの?」
「だって違う。私の知ってる勇人は……」
「彼が『勇人』ではなかったと思わないんだね」

 頭が真っ白になりそうだった。
 この人は何が言いたい。片手で額を押さえる。落ち着け、落ち着け。目を瞑れば先程の光景が浮かんだ。

「あ……」

 そうだ。美しい象牙の毛色をしていたのはむしろ狐の方だった。幼い少年は日本人特有の黒い髪色をしていた。

 だから、なのか。他者が勇人に触れられなかったのは狐の魂が本物の勇人を押しやって表に出てきていたから。狐の持つ神力に弾かれていたのだ。人間は神には触れられない。眷族もまた同様であろう。

「分かった? 僕が勇人だよ、君が言っているのは隼人だ。改めまして、僕の夢の中へようこそ」

 優雅にお辞儀をした勇人から目を離せなかった。「隼人」と言ったか。

『ハヤトが世話になる』

 白狐が言った名だ。七海がずっと勇人だと、人だと思って接していたもの。

『本質的な部分は同じなのだろうね』

 何も変わらなかった。人間との違いなんて無かった。なのにどうしてこんなにも悲しいのだろう。この喪失感は何だろう。



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