パンドラの記憶


「────ニューイヤーパーティー?」

ぱちりと瞬いたアカリの目の前には、優雅に足を組み、ティーカップに口をつけるヴォルデモート卿。その彼が口にした一言を、アカリは思わず復唱していた。

「そうだ。明日ブラック家で行われる」
「明日、というか今日ですけどね」

そう皮肉気に口にしたアカリの目線の先には、深夜0時を数分すぎた時計の針。
大晦日らしく、誰もいない部屋で小さくカウントダウンをしていたアカリのちょうど10カウント前で突然現れたヴォルデモート卿により、大晦日の特別感は既に失われていた。

「マルフォイ家の次はブラック家ですか。
お貴族様は大変ですね、本当に」
「妙に刺々しいな」
「いいえ?パーティー当日数時間前に宣告される元庶民の身にもなれ、なんて、そんなこと思っていませんよ」

にこりと笑ったアカリを見て、ヴォルデモート卿は静かに目を細める。
毒を含んでしまうのも仕方がないと思う。パーティーなんて経験したのはあの一回きりだし、庶民にとって、パーティーに出席するだけでもそれはもうとてつもない緊張を伴うのだ。

「嫌か?私と、パーティーに行くのが」
「…………っ」

そんなアカリの思考を掬い取るような意地の悪い笑みを向けられ、アカリは浮かべた笑みを思わず歪ませ耐え切れずにそっぽを向いた。

……………その言い方は、ずるい。

「はあ、もういいです。パーティーに行かなきゃいけないのは確実ですし、腹をくくります」
「ああそうしろ、いつまでもむくれられては困る」

非生産的だと言う彼は、全くもって性格が悪い。まあもっとも性格の良い闇の帝王、なんていやしないのは明白だが。

「じゃあドレスは出しておきますね」
「いや、その必要はない」

クローゼットに掛けられた、あの純白のドレスを頭に思い浮かべながらそう言えば、返ってきた返事に思わず聞き返す。

「え?」
「あの女のプレゼントなど、二回も身につけることはないだろう」
「いやでも、ドレスなんてパーティーしか着れないじゃないですか」
「着なくていい」

横暴すぎる言葉に、ええ、と呆れを含んだ声を漏らす。
じゃあドレスはどうするのだという疑問は、突如目の前に現れた箱が解消した。

「開けろ」

その一言で、全てを察してしまったアカリは一瞬のうちに目の前に現れた箱の中から、恐る恐る一番大きなものを手に取る。速まる鼓動を抑えつけながら開けた箱の中身は、深い緋色のドレス。

広げたそれはオフショルダータイプのもので、後ろは腰から背中の中程までコルセットのようにリボンで編み上げられていた。シフォンのスカートが優美に広がる様は、さながら満開の薔薇のようだ。

「………こ、これは、派手すぎません?」
「不満か?」
「不満も何も、似合わないですって」

凹凸の少ない日本人、それも特別美人なわけでもスタイルがいいわけでもないのに。
………ああ、なんだか自分で言ってて悲しくなってきた。

「こんなに高そうなもの、わざわざ買ってくれたんですか…………?」
「いや、買ってない」
「は?」

ため息とともに出されたアカリの呟きは、ヴォルデモート卿の思わぬ返事で吹っ飛んだ。それは咄嗟に出てきてしまったらしく、珍しくしまったというような表情を浮かべている。
買ってない。…………買ってない?

「盗んできたんですか!?」
「阿呆か、そんなわけがないだろう」
「いやわかってますけど、じゃあこれどうしたんですか」
「……………………」
「卿?」

アカリの真っ当な疑問に、ヴォルデモート卿は黙り込んだ。
まさか本当に盗んだのでは、と思い始めたアカリの思考を読み取ったのか、ギロリと人を殺しそうなほど鋭い視線が突き刺さる。
何も失礼なこと考えていませんよ、という意味を込めて首を横に振る。視線の鋭さが少し緩んだことからして、伝わったらしい。

「何はともあれ、17時に出る。支度は済ませておけ」
「はぁい。おやすみなさい」

さっさと立ち上がり、部屋から出て行ったヴォルデモート卿を見送り、手元のドレスを見下ろす。
彼の手前あんなことを言ってしまったが、前回はクローディアが選んでくれたドレスで、今回は彼が直々に選んでくれたものだ。勿論クローディアのものが嫌なのではない。
あの、ヴォルデモート卿がわたしのために選んでくれたドレスだということが重要なんだ。嬉しくないわけがない。

思わず綻んだ頬をそのままに、ドレスを抱きしめる。仄かに薔薇の匂いが香った気がして、アカリの鼓動はより一層速まった。

ヴォルデモート卿は、どうやら贈った香水を使ってくれているようだった。彼が僅かでも動く時、ふわりと漂う香りは間違いなくあの時贈った香水だ。彼は何も言わないが、アカリにはわかる。

目の前に置かれた他の箱を開けてみると、これまた真っ赤なハイヒール、そして装飾品の数々だった。しかしどれもこのドレスに合うように計算されている。何事も完璧主義のあの人らしいと、アカリは知らずのうちに笑みを零していた。

そして、箱をそっとテーブルの上へ置き、いそいそとベッドへ入る。パチンと指を鳴らし灯りを消すと、真っ暗な部屋にカーテンの隙間から月明かりが差し込む。瞼を閉じ、その裏側の闇に意識が落ちていく瞬間、アカリはふと何かを忘れているような感覚に陥った。

────何か、大事なことを忘れているような…………?

真っ暗な空間の中、とろんと眠気で蕩けた脳みそを出来る限り回転させ、記憶を漁る。
しかしアカリの健闘もむなしく、何も思い出すことはできないまま、深い眠りに落ちていった。

***

「アカリ」
「あ、はーい」

ドレスを着替え終え、化粧も髪も何とかまともな形に出来た頃、コンコンとノックの音が聞こえた。
招き入れたヴォルデモート卿はあの時と同じ、タキシード。こちらではドレスローブ、と呼ぶのだったか。

部屋に一歩足を踏み入れ、アカリの姿を見たヴォルデモート卿は、はたと足を止める。緋色の瞳を細めた彼は、何故だか眉を寄せていた。

「…………卿?」
「何でもない」

その表情に眉を下げて問いかけてみれば、彼は一瞬のうちにいつも通りの無表情を浮かべ、歩み寄る。
先程の表情に、ああやはりと不安気な顔をしたアカリは目の前のヴォルデモート卿を見上げた。

「…………似合わないですか」

アカリの顔を見て、ヴォルデモート卿は瞬きを一つもせず、口を開く。

「日本では、馬子にも衣装と言うのだったか」
「……………それやっぱり貶してるんじゃないですか」
「冗談だ、割と似合っている」
「…………っ」

アカリの押し隠しきれなかった落胆の顔は、その一言で見る見るうちに赤く染まった。ヴォルデモート卿がくすりと笑って見せれば、アカリは唇を噛み締め、キッと睨みつけてくる。

「………卿は、よくお似合いですよ。嫌味なくらいに」
「ああ、知っている」
「………………っこの、ナルシスト!」
「心外だな、事実を言っているまでだが」
「ほんっとうに、いい性格してますよね」
「お褒めいただき光栄だ」

涼しげな顔のヴォルデモート卿が軽口の応酬の果てに腕を差し出せば、アカリは一つため息を吐いて右手を出す。ヴォルデモート卿はその指に嵌った見覚えのある指輪に目を留めるも、その瞬間に姿をくらませた。

***

「…………?あれ、着きましたね」
「どうした」
「いや、前ほどの衝撃が来なかったので」
「慣れたのではないのか」
「ですかね」

姿を現した門の前。そこから真っ直ぐ玄関へと続く一本道を歩きながら、アカリは胸を押さえた。
前は付き添い姿くらましであんなに体調が悪くなっていたのに、何ともない。
慣れって怖い、と思いながら美しい庭を眺めつつ歩いていると、徐々に玄関へと近づいた。

扉の前に立つ使用人に懐から出した招待状らしきものを手渡すと、恭しく中へと案内される。
煌びやかな室内。目に鮮やかな色とりどりのドレス。楽しそうに踊るワルツ、穏やかに談笑をする人々。

あの時よりはまだマシだが、それでもアカリの緊張は高まっていた。
二回目だからと言って、緊張せずにはいられない。卿の腕に導かれるがままに、ハイヒールがカツリと音を立てる。ふう、と深く息を吐いて、緊張を追い出そうとした。

「なんだ、また緊張しているのか」
「また、って二回目ですよ?緊張するに決まってます」

胸に手を当て、もう一度大きく息を吐く。幾分か落ち着いてきたアカリは辺りを少しだけ見渡してみた。
マルフォイ邸に負けず劣らずのホールはやはり豪華なもので。純血貴族は皆一様に豪華な屋敷を持っているのだろうか。

「そういえば、卿は今回挨拶回りとかしなくていいんですか?」
「オリオンの手が空いてからだ。あれはあれで忙しいようだからな」

そう口にしたヴォルデモート卿の視線を辿れば、何人かの貴族に囲まれて談笑をしている男性の姿が。あの黒髪と灰色の瞳は、どうやらオリオン・ブラックその人らしい。

ぼんやりとその様子を眺めていると、視線に気づいたのかオリオンがふとこちらに目を留めた。次いで瞳を見開くと、一言二言その場で交わし、こちらへと向かってきた。

「我が君」
「オリオン。忙しそうだな」
「申し訳ございません」
「いや、いい。終わったら声をかけろ」
「畏まりました」

ちら、と視線を寄越され、アカリは彼に臆することなくにこりと微笑む。彼はアカリの表情を見て、その灰色を細めた。

「こんばんは、Mr.ブラック。お招きありがとうございます」
「いえ。こうして挨拶をするのは初めてでしたね」

そう言ったオリオンは相変わらずの無表情。しかし前のパーティーで会った時よりも、目が鋭くはない。敵を見るような目が、今では観察をするような目になっている。何故だろうかと思いつつも手を差し出す。大分慣れてきたなと思いながら、手の甲に落とされた唇を享受した。

「改めまして、ブラック家当主のオリオン・ブラックと申します。以後お見知りおきを」
「アカリ・オトナシです。よろしくお願いします」

ドレスの裾を軽く摘み、膝を折る。彼の目がふと緩まった、ような気がした

「それでは失礼致します」

周りの目があることから頭を僅かに下げ、オリオンは去って行く。ふうと軽く息を吐くと、隣からくつりと漏れ出た声が聞こえてきた。

「随分と様になってきたな」
「本当ですか?それならいいんですけど」

愉快そうな目は気にせず、素直に褒め言葉として受け取る。堂々と、笑顔で。これを心がけておけば何とかなるものだ、意外と。

「………………ブラック家って、お子さんいるんですか?」
「ああ、確か二人いたはずだが」

突然の話題に、急になんだ、とでも言いたげな目を向けられた。御尤もだ。

「いえ、お若いとは思うのですが、アブラクサスさんと同じくらいのお年でしょう?それならお子さんもいそうだなと思って」
「そういうことか」

腑に落ちたように頷くヴォルデモート卿の反応を見て、アカリは心の中でそっと息を吐く。ああよかった、好奇心に負けて聞いてみてしまったけど、怪しまれなかったようだ。
辺りを視線だけで見回したヴォルデモート卿は珍し気に片眉を上げる。

「長男はともかく、次男も出ていないようだ。珍しいな」
「長男はともかく、ですか」
「………ブラック家の長男といえば有名な話だ。あの聖28純血に名を連ねるブラック家の嫡男が、グリフィンドールに選ばれたのだと」

どくり、と心臓が音を立てた。口に出すのも汚らしい、というように顔を顰めるヴォルデモート卿には悪いが、彼が原作通りグリフィンドールには入ってくれているようでわたしはとても嬉しい。思わず緩まりそうになる頬に力を入れ、必死に保つ。

「まさかあのブラック家から血を裏切る者が出てしまうとは………オリオンも災難なものだ」
「はあ。でも次男は大丈夫だったんでしょう?」
「ああ、次男は大層優秀らしい。恐らくブラック家を継ぐのは次男になるだろう」

左様ですか、と適当な相槌を打ちつつもアカリはブラック兄弟に思いを馳せていた。

シリウスとレギュラス、正直どちらも好きだ。きっと二人とも美形に違いない。

「………………我が君」
「ん、ああ。アブラクサスか」

会ってみたいな、と思いながら会場を眺めていると、背後から声をかけられた。
つい先日も聞いたこの声。くるりと振り返れば、そこには上品なタキシードを着こなした、アブラクサス・マルフォイが立っていた。

「こんばんは、アブラクサスさん」

にこりと微笑んで挨拶をする。卿の陰になって見えていなかったのか、その挨拶で気づいたように目線をアカリへと移す。

そしてアカリの姿を目に入れた瞬間、アブラクサスは瞳を見開き、ハッと僅かに息を呑んだ。
そのリアクションに対し、訝しげな表情を浮かべると、すぐ我に返ったアブラクサスは柔和に微笑む。

「………….ああ、とても綺麗で驚いたよ。似合っている」
「ありがとう、ございます」

手を取られ、口付けられてもまだ笑んでいる。彼のその言葉通りに受け取るには、彼の瞳は動揺で揺れすぎていた。

「…………このドレスは、貴方様が?」
「ああ」
「そう、ですか」

お貴族様らしく、完璧な笑みを浮かべながらも、その返事は歯切れが悪い。どことなく気まずい雰囲気の中、何なんだと思っていると再び背後から声をかけられた。

「我が君、お待たせ致しました」
「オリオンか。アカリ、そこで待っていろ。余計なことはするなよ」

オリオンが戻って来たのだ。
わかってますよ、と少々ムッとしながら彼に案内され去って行くヴォルデモート卿を見送った。
オリオンと目配せをしていたアブラクサスは微動だにせず、彼は呼ばれていないらしいと悟る。

「アカリ、何か飲み物は?」
「あ、はい。いただきます」

ちょうど通りすがったボーイを呼び止め、スッとグラスを手渡される。黄色い液体が揺れるグラスを傾けると、それは新鮮なパイナップルジュースだった。

「ルシウスは来ていないんですか?」
「今日ここに子どもを連れてくる者は少ないよ。元々そういうものだからね」

そう言われてみれば、マルフォイ邸で開かれた時よりも子供の姿が少ない。本当に数える程しかいない、という感じだ。
何故だろう。お貴族様の考えることはよくわからない。

「そういえばチョコレート、ありがとうございました」
「ふふ、気に入ってくれたのなら嬉しいよ。でもあの方にバレてしまったようだけれど」
「あー………すみません、上手く誤魔化しきれず」

苦笑を浮かべながら頬を掻く。あの時、どうやらマルフォイ邸へ行ったのはルシウスに会うためだと思われていたらしい。
贈られて来たチョコレート、そして一枚のカード。そこにアブラクサスの署名を見たヴォルデモート卿の表情は、それはそれは恐ろしいものだった。チョコレートに罪は無いと言い張り、処分を免れたのは奇跡としか言いようが無い。

握り潰されたメッセージカードを頭に思い浮かべ、乾いた笑いが口から出たのと同時に、どこからか優雅な音楽が聴こえてきた。
そちらに顔を向けると今までBGM程度に弾いていた楽団が、ワルツを弾き始めていた。
そしてそのワルツに乗って、何人もの人々が踊り始める。くるくると回る色とりどりのドレスは、とても綺麗だ。

ぼんやりとその様子を見ていると、隣のアブラクサスから名前を呼ばれる。何かと思いつつその顔を見上げると、彼はいつもの柔和な笑みを浮かべ、手を差し伸べた。

「私と、踊っていただけませんか?」
「えっ」

まさかの誘いに、アカリは表情を固めた。
どうしよう。わたしはダンスなんて踊れない。しかし断るのも失礼になるのは知っている。だからと言って流されてしまっては、アブラクサスに恥をかかせることになるのではないか。

「アブラクサスさん、その、わたし踊れなくて、」
「大丈夫、私がリードしよう」
「いやいやいやそういう次元じゃないんですって」

そんなアカリをスルーして、胸の前で拒否を表すように振っていた手を取られる。そして口付けられると、上目遣いで微笑まれた。

貴方そんなことをして許される歳でもないでしょう…………!
しかし、腹が立つほどの美形だ。イケオジというやつかもしれない。よって許されてしまうのだ。うん、腹が立つ。

もうこうなったらこの人に恥をかかせてもいいのかもしれない。腹を括り、ため息まじりに了承を口にしようとして、止まった。

「何をしている、アブラクサス」
「…………おや、これはこれは」

パシッと音がして、自分の手が引っ張られたことに気づいた。真横にいたのは、無表情のヴォルデモート卿。
音もなく、いつの間に迫っていたのかもわからないくらい気配がなかった。いつも通りの無表情のはずなのに、どこか怒っているような気もする。

「お早いお戻りですね」
「誰の所為だと?」
「何のことでしょう、私にはさっぱり。
………さて、私はこれで。アカリ、次こそは期待しているよ」
「アブラクサス」
「ああ怖い」

では失礼、とにこやかに去って行ったあの男は、最後まで食えない人だった。
アカリは恐る恐る隣の顔を見上げる。まだ怒っているのかと思ったが、彼は眉に思い切り皺を寄せ、何かを考えこんでいるようだ。

「卿?」
「…………いや、なんでもない」

そして、彼は複雑な感情を無表情の奥へと押し込めた。そんな彼にそれ以上追求することはできず、アカリも自然と口を閉じる。

目の前でくるくると踊る男女に目を向ける。誰も彼も皆一様にとても楽しそうな笑みを浮かべて踊っていた。まるで映画のワンシーンのようだと思いながらその様子を眺めていたアカリはすぐ隣のヴォルデモート卿がこちらを横目で盗み見ていることに気がついていなかった。

「…………アカリ」
「はい?」
「行くぞ」
「え、ちょっと」

ちょうど一曲目が終わり、演奏が止んだ瞬間に声をかけられ、ヴォルデモート卿を見上げる。すると突然腕を掴まれて二人はホールの中央へと引きづられるようにして進み出ていった。
ヴォルデモート卿は立ち止まるとくるりとアカリに向き直り、腰へと手を回し自身へと引き寄せる。
当のアカリは距離の近さと突然のシチュエーションに頭が追いつかず、困惑気に口を開いた。

「待ってください、まさか」
「待たない。手を」

無理矢理左手を卿の肩に、そして右手を軽く握られる。…………ち、近い。
見上げた先のヴォルデモート卿の顔は睫毛が一本一本鮮明に数えられるくらいの距離だ。
気恥ずかしさを覚えるが、アカリはそんなことよりもと彼に抗議の声を上げる。

「卿、わたしダンス踊れないんですってば」
「私がリードしてやる。最初は右足を退け」
「そういう問題じゃ、」

ない、と続けようとした声は、始まった曲と同時に思い切り踏み出された卿の足を避けるために飲み込まれた。言われた通りに反射的に右足を退き、何とか踏まれずに済む。

「ちょ………っ!?」
「交互に足を運べ、他は何も考えなくていい」

渋々口を閉じ、足に全神経を使って集中する。初めてだというのに、卿が右へ左へと誘導してくれるおかげか足を踏むことはなかった。幾分か緊張も和らぎ、少し楽しくなってきた時、ずっと卿のネクタイを睨みつけていたアカリはちらりと彼の顔を見上げてみた。

バチリと視線の合った彼の顔は、やっぱり距離が近い。何だか少し恥ずかしくてまたネクタイに視線を戻そうとした時、ふと彼の耳元でキラリと光る何かが視界に入った。

普段は黒髪に隠れているが至近距離で見上げることで露になった彼の耳には、銀色に輝くフープピアス。小ぶりなそれは、ヴォルデモート卿によく似合う上品さを漂わせていた。

「何だ」
「………ピアスなんてしてたんだと思いまして」

アカリがじっと自分の耳元を見つめていることに気がつき、ヴォルデモート卿は訝しげにそう尋ねる。アカリの返答にああこれか、と軽く頷くと、彼は何となしに口を開いた。

「気が付いたら付けていた。そして外れない」
「………………はい?」

涼しい顔でそう言うヴォルデモート卿とは違い、アカリは思わず聞き返す。反動で足が止まりそうになるも、ヴォルデモート卿に促され、無理矢理足を動かした。

「あっさりした一言のはずなのに最初から最後まで意味がわからないんですけど」
「安心しろ、私にもよくわかっていない」
「はあ?」

曲は終盤へと差し掛かる。右へ左へ、交互に足を運び優雅にターン。ふわりと柔らかに広がる深紅の裾は、さながら満開の薔薇のようだ。
しかし軽やかに踊るアカリは、ぽかんと口を開け、訝しげに眉をひそめる。そんなアカリに、ヴォルデモート卿は一つため息を吐いた。

「…………昔、目が覚めたら見知らぬピアスを付けていた。そもそも穴を開けた記憶もない。外そうとしたものの強力な魔法がかかっていて外せない」

それだけだと、そう口にしたヴォルデモート卿の言葉に、アカリは瞳を見開いて愕然とした。

「…………え、それってやばいやつなんじゃ、」
「30年ほど付けたまま呪いは解けないが、今のところ危害は与えられていないからまあ大丈夫なのだろう」
「ええ………そんなあっさり……………」

闇の帝王と恐れられるほどの力を持つヴォルデモート卿でさえ外せない、得体の知れないピアス。呪い付きにそれはどう考えても怪しい代物だ。それをそんな悠長に考えていいものなのだろうか。

「恐らく、大丈夫だ。このピアスは、………外してはならない」

スッと、その綺麗な深紅の瞳を細め、ヴォルデモート卿はアカリの向こう側を透かし見る。その独り言に近い呟きには、確かな確信が孕まれていて。
普段のヴォルデモート卿であれば有り得ないことだ。楽観とも取れるその言葉に、顔をしかめたまま、アカリは声を上げた。

「でもそれ、外しちゃいけないって暗示がかかってるとは考えられないですか?
そのままにしておくなんて、流石にどうかと思いますけど」

あ、まずいことを言ったと悟ったのと同時に、演奏が鳴り止んだ。いつの間にやらダンスは終了したらしい。周りのカップル達が撤収し、新たな組がダンスをするべく入れ替わるようにしてこちらへと向かっている。

ヴォルデモート卿は眉をひそめるとアカリの問いに応えることはなく、無言のままアカリから視線を外した。
そして人混みに紛れないよう、しっかりとアカリの腕を掴んだヴォルデモート卿は引っ張るようにして人の波をずんずんとかき分ける。
サッと血の気が引くのを感じつつその力に従い大人しく彼についていくと、ヴォルデモート卿は手早くオリオンの元まで向かい一言二言声をかけ、そして立ち去った。アカリは慌ててその場で軽い会釈と共に挨拶をするが、相手の返事を待つことなくヴォルデモート卿の力に引っ張られていく。

「卿、ちょっと、」

手首を掴むその力の強さに思わず制止の声をかける。しかし、ヴォルデモート卿はアカリの声に全く反応を示さず、無言のまま門へと向かう。そして門の外へと出ると、何の合図も無しにアカリを引き寄せ、その場で姿をくらませた。

身構えることもできず、突然姿くらましを使われ、アカリは視界が揺れ、歪んでいく世界に馴染むことができないまま姿をくらませた。

軽い破裂音とともに踵が床に触れ、カツンと音を立てる。無理矢理姿をくらまされ、平衡感覚を失ったアカリはぐらりと身体が傾くのを感じた。

倒れる、と瞼を閉じる暇もなく力を失った身体は床に倒れこむかと思われたが、その寸前で仄かな薔薇の香りに包まれた。

「…………座っていろ」

ただそれだけをぽつりと呟いたヴォルデモート卿は、アカリの身体を支えソファへと座らせる。
卿、とか細い声で彼を呼ぶも、まるで聞こえなかったそぶりで身体を離し、そのまま寝室へと消えた。

…………怒らせて、しまった?

サッと顔が青くなっていくのを感じる。
わたしが、生意気なことを言ったから。
あの人を責めるようなことを言ったから。
だから、怒らせてしまった。

怒らせてしまったら、────捨てられる。

その考えに至ったアカリは、背筋が凍った。身体が小刻みに震えだす。その絶望的とも言える結論は、アカリにとって最も危惧すべきことだった。

捨てられる。傍にいることはできない。ヴォルデモート卿が、離れていく。

その最悪な末路を思わず脳裏に思い浮かべ、アカリはより一層顔を青ざめさせた。

俯かせた顔をそろそろと上げる。ヴォルデモート卿が入って行った寝室からは、物音ひとつ聞こえてこない。
そしてアカリはふと、カレンダーに目を向けた。

「…………あ」

ハッと、息を呑む。そこにあるカレンダーはまだ捲られておらず、12月の表記のままだ。12月。大晦日。

────ああ、わたしは、大切なことを、忘れていた。

アカリは勢いよく立ち上がり、そして寝室へと続く扉の前に立つ。確かにヴォルデモート卿がいるはずなのに、やはり、何も聞こえてこない。
冷たいドアノブを握り、そして息を細く、長く吐き出す。ぎゅ、と瞼を瞑り、そして閉ざされた扉を開けた。

カチャ、という音がなるべく響かないように、細くドアを開ける。そっと中を窺い見ると、ベッドサイドの間接照明のみが点けられ薄暗い状態だった。

ヴォルデモート卿は上着を脱いだ状態で、こちらに背を向けていた。顔を俯かせた彼は手元の何かを見ているようだ。
アカリは扉を開け、一歩中へ入る。気配に敏感なはずのヴォルデモート卿は、まだ気づいていない。

「…………ヴォルデモート卿」

そっと囁くようにその名を呼ぶと、ハッと息を呑むような声と共に彼がこちらを振り返る。普段よりも顔が強張っているヴォルデモート卿は、手元の何かをサッと引き出しの中へと入れる。一瞬しか見えなかったそれは、一枚のメモのように見えた。

「…………あ、の、」

どちらもかける言葉を見出だせず、ただただ沈黙が部屋を支配する。アカリが居心地の悪さに思わず声をかけると、ヴォルデモート卿はアカリから目を逸らし、乱雑に放られた上着を手に取る。
それをスッと指先でなぞり、軽く刻まれてしまった皺をアイロンをかけるように伸ばしていく。

アカリの存在を無視したようなその行動に、アカリは、思わず泣きそうになってしまった。

無視しないで。こっちを向いて。

────わたしを、見て。

たまらず、アカリはヴォルデモート卿の背中に抱きつく。ぎゅ、と背中のシャツを握ると、ヴォルデモート卿は上着を手にした状態で、動きを止めた。

「…………ごめん、なさい」

とても小さい、震えた声でアカリは謝罪の言葉を口にする。

「ごめんなさい」

その言葉を繰り返すアカリに、ヴォルデモート卿はぴくりとも動かなかった。無反応を貫くヴォルデモート卿に、アカリは耐えきれず涙を零す。
繰り返す謝罪の言葉に微かな嗚咽と涙声が混じり、漸くヴォルデモート卿は反応を示した。

「…………アカリ」

低い、しっとりと落ち着いた声が自分の名前を呼ぶ。思わずびくりと肩を震わせたアカリは口を噤み強く彼のシャツを握った。

「アカリ」
「……………は、い」

そう絞り出した蚊の鳴くような声は、未だ震えていて。自分の意思と反してぼろぼろと瞳から零れ落ちていく涙をどうにか止めようと、ぎゅっと強く強く瞼を閉じる。

ふと身じろいだ彼に慌てて握りしめていた手を離す。真っさらだったシャツは見事に皺がよってしまっていて、しかし彼がすぐにこちらを向いたことで見えなくなってしまった。

真正面に向き直るヴォルデモート卿の顔が見れなくて、アカリは俯く。そして再び名を呼ばれるも、恐怖と絶望が頭を占めていたせいか顔を上げることができない。

暫し無言の状態が続き、居た堪れなくなったアカリが自身のドレスを握り締める。
それと同時に、ヴォルデモート卿は傍らのベッドに腰掛けた。
ヴォルデモート卿はアカリを引き寄せ、腰に手を回す。立っているアカリよりも低い位置にある彼は顔を上げ、覗き込むようにアカリを見る。

距離の近さと普段ではありえない体勢に、一瞬にして恐怖や絶望よりも恥ずかしさが圧倒的に勝った。目を逸らし、身体を引こうとするアカリを腰に手を回したことで制したヴォルデモート卿は尚も覗き込むようにして、瞳を合わせる。

「アカリ、私を見ろ」
「……………」

そう静かな口調で言われ、アカリはそろそろと視線をヴォルデモート卿へと移す。
その赤い瞳と目を合わせ、そして困り果てたように眉を下げた。

「あ、の、」
「……そんな顔をするな」

苦笑を僅かに含ませて、ヴォルデモート卿はすっと手をアカリの顔へと出す。何をされるのかと思わず強く目を閉じてしまったアカリの目元を、彼の細い指が撫でるように触れた。
ヴォルデモート卿の指先に目尻や瞼を慈しむように撫でられて、思わずアカリは瞼を開く。

「お前はよく泣くな」
「…………そ、そんなことは」
「泣くだろう。夜になると、特に」

ほんの僅かな時間でその言葉を反芻し、裏に隠された意味を読み取ったアカリはカッと頬を熱くさせた。ヴォルデモート卿はアカリのその様子にくつりと喉の奥で笑う。赤く染まった頬を指先でなぞられ、より一層恥ずかしさで顔が熱くなる。

「…………お前は、穴を開けていないのか」

彼の指先がアカリの髪を退かし、露わになった耳朶を摘む。穴、ピアスのことだろうか。

「学校の規則で、開けられなかったんです。それに痛そうで、怖くて」

そう話したアカリの耳朶をじっと見つめていたヴォルデモート卿は、ふわりとアカリの髪を撫でて、ゆっくりと指で梳くように指先に絡めた。

「痛いのは、嫌か」
「…………誰でもそうだと思いますけど」
「そうか」

短い一言を呟き、ヴォルデモート卿は指先に絡めたアカリの髪をくるくると弄ぶ。
その心地よい無言に、アカリは意を決して口を開いた。

「………卿」
「なんだ」
「…………………お誕生日、おめでとう、ございます」

小さな、小さな声。しかし静寂が満ちていたこの部屋で、その声を拾うのは容易い。ヴォルデモート卿はその言葉を聞いて、ぴたりと動きを止めた。

「さ、最近忙しくてカレンダーなんて見てなくて。その、本当は昨日だったのに、すみません」

最近は、死喰い人たちと襲撃に行ったりと屋敷を離れることが多かった。昨日が大晦日だと気づいたのは、一日が終わる一時間前。彼の誕生日が12月31日だということを、すっかり忘れていた。

動きを止めたまま、微塵も動かないヴォルデモート卿に不安が募りつつも、言葉を紡ぐ。どうか、感謝と想いが届きますようにと、願いを込めて。

「生まれてきてくれて、ありがとうございます。貴方と出逢えて、本当に良かった」

貴方と出逢えたのは、きっと運命だった。
偶然でも、たまたまでもない。これはきっと運命であり、必然。

ずっと考えていた。この世界に来た、理由を。わたしの存在意義を。

その答えを、わたしはもう知っている。

「────わたしは、貴方に逢うために、この世界に来たんです」

わたしは、貴方を愛するために、呼ばれたんだ。

想いが溢れて、どうしようもなくて。衝動に身を任せ、彼の額に唇を落とす。

どうか、どうか、受け入れて欲しかった。貴方は孤独ではないのだと。わたしは、愛を知らない貴方に、愛を注ぐ存在になりたい。

アカリが腰を屈めたことによって、真正面から視線がぶつかり合う。その宝石のような瞳は、僅かに揺れていて。ああ、わたしの想いは、少しでも届いているのだと、それだけで嬉しくなった。

そっと、彼の冷たい頬に触れる。両手で包み込むようにして触れた陶器のように滑らかな肌は、やはり作り物のように繊細だ。鼻先が触れ合うほどの距離の先にある赤い瞳を微かに細めたヴォルデモート卿は、何も言わない。

「愛してます」

そしてアカリは、僅かな距離を埋めるようにして、唇に口づけた。
ただ触れるだけの、幼稚な口づけ。冷たい唇に少し長く触れて、そっと顔を離す。

「………ごめんなさい、さっきは変なことを言って。もし何か変な呪いがかけられていたらと、思ったんです」

ごめんなさい、と再度謝罪を口にする。視線を伏せたアカリの顔を、ヴォルデモート卿は指先でなぞる。
次いで自分の頬を包んでいた手を取ると、右手の薬指、そこに嵌った指輪にそっと口付けた。

「お前の言い分はよくわかる。私がお前の立場であれば、無理矢理にでも外していた」

それこそ耳を引き千切ってもな、と低く笑うヴォルデモート卿に、アカリは笑い事じゃないと口元を引き攣らせる。艶々とした黒いオニキスを指先で撫でる彼は、視線をアカリの瞳へと移した。

「だが、これは外せない。とても強力な魔法だ、この私ですら解くことができない。
それに、この魔法を身に付けているからこそわかる。これに敵意は感じられない。害を為すものではない。そう判断した」

そう言われてしまっては、もう何も言えない。何故ならそれはヴォルデモート卿の判断だからだ。わたしはそれに従う。今は、それが最善であり、最良の結果となる。

それに、ずっと共にいて、ピアスの存在に気がつかなかった。
その魔法が敵意、悪意を持つものならば、禍々しさが外面にも満ち溢れてくるもの。それを微塵も感じ取れなかったということは、確かに敵意はないということだ。

こくりと静かに頷くと、ヴォルデモート卿は満足そうに瞼を緩める。そしてアカリの左の掌に唇を寄せた。

「…………ところで」
「はい?」

そのままの格好でアカリを上目遣いに見上げたヴォルデモート卿は、何故か意地の悪い笑みを浮かべていて。その艶やかさと謎の悪寒に、アカリはぶるりと背筋を震わせる。

「私の誕生日を祝ってくれるのは結構なことだが、プレゼントは勿論あるのだろう?」
「…………えーと、」

浮かべた笑みをそのままに、彼は問う。アカリは言葉に詰まり、目の前の彼からそっと目を逸らした。

「何故目を逸らす?」
「逸らしてないです」

冷や汗が吹き出てくるのを感じながら、アカリはぐるぐると頭を巡らせていた。

さあ、どうする。
誕生日自体を忘れていたのだから、プレゼントなんてあるわけがない。用意するから少し待ってほしい、というべきか。いやそれで納得してくれるような雰囲気じゃない。
ならば今あるもので、彼が満足しそうなもの。

そこである一つのアイディアを思いつき、次いでふと思考を停止させた。

……………いや、確かにそういうのは王道ではある。だけど、わたしが?ヴォルデモート卿に?満足、というか納得してくれるかどうかすら怪しい。だけどもうこれしかない。

チラ、と視線だけを戻してみると彼はどこか愉しげにこちらをじっと見ていた。
その顔を見て、アカリはぐっと腹を括る。
そして顔を元に戻すと、一つ息を吐き、半ばヤケクソになりつつヴォルデモート卿に抱きついた。
広い背中に手を回し、彼の耳元に唇を寄せる。自分の中に渦巻く恥ずかしさを振り払うように口を小さく開いた。

「………わたしを、あげます」

ぼそりと呟いたその声は、耐え切れなかった恥ずかしさに包まれて、とても小さい。それでもなんとか必死に言葉を紡ぎ、声に出す。

「『わたし』を、貴方に差し上げます。
これからもずっと、わたしの何もかもは貴方のものです。何があろうと、ずっとずっとわたしは貴方の傍に居続けます」

そう言い終えて、暫しの間沈黙が続いた。静寂が耳を刺し、痛みを覚える。
耐え切れずにヴォルデモート卿の肩に埋めた自分の顔が真っ赤になっているのがわかった。

恥ずかしい。クサいことを言ったのもそうだし、この沈黙も恥ずかしい。この人も、何か言ってくれてもいいのに。呆れたような目を向けたり、鼻で笑ったり、色々あるだろう。

そう心の中でごちていると、ヴォルデモート卿の手が、アカリの背に回った。少し身体を固くさせると、くつりと零れた低い声が耳をくすぐる。

「なるほどな、プレゼントは『お前』か」
「だめ、ですかね」
「………ありがたく、受け取っておこう」

それは、アカリの望みを受け入れるということで。これからもずっと共にいていいのだと、認めてもらえた。
とくとくと胸の奥が鼓動を刻み、嬉しさで思わず頬がゆるむ。
少しだけ言葉を探すように黙っていたヴォルデモート卿は背に回した手に少しだけ力を込め、抱きしめるようにしてアカリの肩に顎を乗せる。

「お前は、私の傍にいると言ったが。私は死をも克服し、これから先死ぬことはない。それでも居続けると?」
「はい。もし死んでしまっても、貴方と共にいます」
「………永遠に?」
「永遠に」



────Always.



そう囁くと、ヴォルデモート卿は今度こそ、声をあげて笑い始めた。耐え切れないというように、彼はアカリの肩口に顔を埋める。それでも尚くつくつと漏れ出る声が、少しくすぐったい。
思わず身を捩ると、ヴォルデモート卿はアカリの身体を抱きしめたまま背中から倒れこむ。慌ててシーツに両手をつくと、まるでアカリが押し倒しているかのような体勢で、ヴォルデモート卿はゆるりと瞳を細めた。

「わざわざ私に囚われるのを望むとはな」
「…………卿がどれだけ嫌がっても、絶対離れてなんてやりませんからね」

覚悟しててくださいと、そう笑ってみせると、再びこちらを見上げるヴォルデモート卿は口角を上げた。次いでアカリの後頭部に手をやり、梳くようにして髪に差し込む。その手の力と重力に従い、自分の身体を支えていた腕の力を緩めると、彼の薄い唇に自分のそれを落とした。

アカリが自ら触れた時とは違う口付けに、胸が高鳴る。彼の冷たい唇から熱い吐息が漏れる様が、どうしようもなく愛しかった。

「……………愚かな女だ」

唇が離れ、また口付けられるその一瞬。
彼の唇からすとんと零れ落ちた囁きに、アカリは彼の舌を享受しながらもうっそりと笑んだ。

「愚かでいいです。貴方の傍にいられるのなら」
「…………ああ。
お前は、一生愚かなままでいろ」

そのプロポーズじみた言葉に、アカリは思わず零れ落ちてしまいそうな涙を飲み込む。
背中に回った彼の指先がコルセットのリボンをするりと解くのを感じ取りながら、愛しさと涙をそっと瞼の奥へと閉じ込めた。

***

ふと、心地よい闇の微睡みから意識が覚醒し、アカリは瞼を震わせる。僅かに開いた視界には、肌色がいっぱいに広がっていて。すぐにヴォルデモート卿だと認識したアカリは重い瞼を開き、すぐそこにある彼の顔をじっと見つめた。

こうして、アカリがヴォルデモート卿よりも早く起きるのはとても珍しいことだ。眠っている彼は、普段よりも一層精巧なビスクドールのような美しさが勝る。
顔を見つめていたアカリの視線は、自然に耳へと移動し、そこで鈍く鎮座するピアスで止まった。

ほんの少し、悪戯心が湧き上がり、そのピアスへそろそろと手を伸ばす。
銀のフープピアスのひんやりとした感触を指先で感じ、少しだけ力を込めてみる。
どうせ外せはしない。そんなことは知っている。ただ、ちょっと確認するだけで−−−。


────パキン。


アカリが少しの力を込めた瞬間、軽い金属音と共に、フープピアスが掌へと転がる。

「……………え」

思わず間抜けな声が漏れ出て、ハッと自身の手で口を塞ぐ。ころんと転がる銀細工を手に、アカリは思い切り動揺していた。

外れないんじゃ、なかったの。え、わたしなんかしたかな。もしかして壊した?そんなに怪力だったっけ?

そうぐるぐると頭を巡らせているうちに、だんだんと落ち着いてきたアカリは、興味本位でピアスを観察してみることにした。

ピアスの大きさの割にずしりと重たいそれは、確かに金属で出来ているようだ。鈍く輝く銀のフープ、その裏側には、何やら奇妙な紋様が刻まれていた。

「…………ルーン文字、かな」

そっと指先でなぞる。ルーン文字は少々齧った程度だから、文字の判別くらいしかできない。目を凝らし、じっと紋様を見つめ、そこに刻まれた文字を読み取る。

「アルジズ、ジェラ、…………エイワズ?」

その三文字のように読み取れる。しかしそれぞれの意味は流石に覚えていない。確かルーン文字の解釈について詳しく載っている書物がどこかにあったはずだ。また今度、じっくり調べてみよう。アルジズ、ジェラ、エイワズ。Y、J、Zのように見えるその文字を忘れないよう、しっかりと目に焼き付け、そして文字を指先で撫でる。

これだけ触れても、ピアスから禍々しさは伝わってこない。やはり害のないものなのだろうか。

ピアスを手に、ヴォルデモート卿の顔を見上げる。人形の如く美しい顔に、このシンプルなピアスはよく似合うと思った。

まだ100%、このピアスが無害であるとわかったわけではない。1%でも害悪であるという可能性があるのならば、これは排除しておくべきだ。こうして外すことができたからには、それが可能になる。

…………だけど。

アカリは暫し迷い、結局ピアスをヴォルデモート卿の耳へと元に戻した。

禍々しさは微塵も感じ取れなかった。悟られぬよう、悪意を巧妙に隠しているのかもしれない。
でも、わたしはこれが卿に害を為すようなものには見えなかった。

この直感を信じていいものなのかはわからない。しかし、わたしだけでなく卿までもが、これは悪意なきものだと判断した。その判断を、わたしは信じよう。

大丈夫、これはヴォルデモート卿を脅かすものではない。むしろ、守っているような気配すら感じる。

………だから、大丈夫。

元に戻したピアスを指先でそっと撫で、アカリはシーツに包まる。そして温もりを求めヴォルデモート卿にぴったりと擦りつくと、一つ息を吐き、再び瞼を閉じる。

とくん、とくんと伝わる鼓動。
この鼓動が鳴り止むまで、わたしはこの人と共にいる。それこそ、永遠に。

永遠の時を思い、アカリは沈む。
心地よい、ひんやりとした闇の中。
アカリはどうか、できる限りの時をこの人と共にすることができますようにと、ただ静かに祈りを捧げた。

prev next

[back]


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -