秘められたシャドウブルー


「………ん、」

ぴくりと瞼が震え、次いでゆっくりと時間をかけてから瞼が押し上げられた。ぱちり、ぱちりと瞬けば真黒の瞳は次第に焦点が合わさり、アカリはようやく自分がい眠っていたのだということに気がついた。

眠ったというか、気絶したというか。

眠そうに目を擦るアカリの目の前には、瞼を閉じ眠っているヴォルデモート卿の姿が。眠っていると普段よりも一層作り物めいた美しさが際立つ。伏せられた長い睫毛や透き通った肌、スッと通った鼻筋、薄い唇。至近距離にあるその美しさに、思わず目を奪われた。

わたしが眠ってから、どれくらい経ったのだろう。恐らくそんなには経っていないはずだ。彼が起きる前に服を着てしまおうか。

そろりそろりと起こさないようにベッドから抜け出す。服を纏っていないアカリはぶるりと身体を震わせ、何もない空中からブランケットを取り出すとすぐさま包まった。
それからベッド周りに散らばった衣服を集めていると、ふとカーテンの隙間から見えた外の景色に目を向ける。ゆっくりと窓際に近寄り、カーテンをほんの僅か開けてみる。窓の向こう、頭上に広がる空は、薄らと雲がかかっていた。

薄い雲と、本来の夜空色が混ざり合ってできた、不思議な色に目を奪われ、ぼんやりと夜空を見上げる。

雲の灰色と、夜空の紺碧が重なった、シャドウブルー。雲の影からちらりと見え隠れする星の瞬きも相まった青みのある灰色の空は、ただの星空よりも美しいと思った。

望遠鏡が欲しいなと、アカリはふと思った。カメラも欲しい。一眼レフ。この空を時の狭間に閉じ込めて、わたしのものだけにしてしまいたい。そしてずっとずっと眺めていたい。

12月の透き通った空気がアカリの肌を刺す。寒いな、と羽織ったブランケットを胸の前でかき合わせたのと同時に、ふわりと何か温かいものに包まれた。

「何をしている?」
「…………卿、」

掠れた声が耳元で聞こえ、アカリは思わず肩を跳ねさせた。アカリを後ろから抱き込んだヴォルデモート卿は、アカリと同じように窓の向こう側を見上げる。

「ごめんなさい、起こしてしまって」
「いや、………空を見ていたのか」

すっと目を細めたヴォルデモート卿は、窓に触れていたアカリの手に自分の手を重ねる。アカリが窓から手を離すと、ヴォルデモート卿はきゅっとその手を絡め取った。

「冷たいな」
「窓を触っていたので」
「寒くはないのか」
「………ちょっとだけ」

そう答えたアカリからは、後ろのヴォルデモート卿の顔を見ることができない。
自由な手で胸元のブランケットを握ると、ヴォルデモート卿はその手も反対と同じように絡め取る。重力に従ってすとんと床に落ちたブランケットに、アカリはあ、と声を上げた。
今までよりも、力が強くなる。抱き締められている、というよりは抱き込まれているという表現の方がしっくりくるほど力強く後ろから包まれていた。

お互い何も身につけていない、肌と肌が密着しそこからどんどんと発熱していく。温かさと恥ずかしさに揺れながらもじっとしていると、ヴォルデモート卿が後ろからアカリの名を呼んだ。

はい、と返事をするよりも前に顎が掬い取られる。細い指先に促され顔だけで振り向くと、後ろから深く口付けられた。

絡め取られたままの左手をぎゅっと握る。口が離れた瞬間くるりと身体ごと向きを変えられ、ヴォルデモート卿と向き合う体勢になってから再度口付けられた。
窓に押し付けられ、そのガラスに触れた背中の冷たさと正面の熱に揺れながら、ああこの熱も、空と共に閉じ込めてしまいたいと頭の中で呟いた。

シャドウブルーの夜空の下、細められたカーマインの瞳と熱が絡み合う今この時を切り取って、閉じ込めて、わたしだけのモノにしてしまえたなら。
きっとそれはとびきりの宝物になるだろうと、アカリは深い闇に落ちながら、心の奥底でそう思った。

***

杖先から水で出来た金魚を作りながら、アカリはふと卓上の小さなカレンダーを目に入れた。ほとんどにバツが付けられたカレンダーが意味するのは、明日が大晦日であるということだ。イギリスでは、大晦日ってなにかイベントがあるんだっけ。日本では除夜の鐘聞いたりなんなりしてたけどなあ。

というか、もう年明けちゃうんだ。騎士団員を殺したあの日から、闇祓いなり騎士団員なりとの抗争に駆り出されていたため、一日がとても早かった。しかし全部の『お仕事』に同行しているわけではない。それでも、……人を殺すことにすっかり慣れてしまった。
きっとヴォルデモート卿本人はとても多忙なのだろう。彼直々に出向くことはそんなに無いらしい(とは言ってもわたしが行く際は必ずいた)が、パトロン集めや書類整理、そして死喰い人との会議に勤しんでいる。

ソファに座り込み、目の前をふよふよと漂う金魚を眺めていた、そんな時。
コンコン、と小さく扉をノックする音が聞こえた。
誰だろうと思いつつ返事をすると、ゆっくりと扉が開く。外から顔を出したのは、あのパーティー以来見るルシウスだった。

「ルシウス?久しぶり!」
「アカリ様、お邪魔します」

ソファを勧められた彼は素直にアカリの正面に腰を下ろすとにこりと優美な笑みを浮かべた。アカリがティーポットを軽く指で弾くと中には新しくお湯が沸き、その中に茶葉を入れる。
アカリがお茶の準備をしている間、ルシウスはローブを脱ぐと懐から一枚の封筒を取り出した。アカリの指先に従い、ローブはひとりでにコート掛けまで飛んでいく。カップに紅茶を注いだアカリは、差し出された封筒をきょとん、とした目で見ると次いでルシウスのことを同じ目で見つめた。

「なあに?これ」
「………父上から、です」

少し眉を下げた彼から発された言葉を脳内で反芻する。
父上…………アブラクサスさんから?何の用だろう。

呼び寄せたペーパーナイフで封を切る。中から便箋を取り出すと、アカリはそれを広げ読み始めた。

上から下まで、一定の速度で目を通したアカリは一つ溜息を吐いた。

「どうかなさいましたか?」
「うん?いや、何でもないよ」

はは、と苦笑を浮かべたアカリはおもむろに立ち上がり、クローゼットまで足を運ぶ。扉を開け放ち中の服を物色し始めたアカリを、ルシウスは怪訝そうに見つめた。

「アカリ様?」
「お茶会に招待されたみたいなんだよね」
「お茶会?父上から、ですか?」
「そう、しかも今日の15時から」
「15時…………って、」

アカリの言葉に、ルシウスはアカリから時計へと目を移す。時計の針は14時50分、時間の10分前を指していた。
クローゼットから取り出した深緑のローブを羽織り、スリッパからブーツに履き替えたアカリはふとドレッサーを視界に入れる。ぽつんと置かれた黒の小さな筒、ヴォルデモート卿から貰った口紅を見つめたあと、アカリはおもむろにそれを手に取り自身の唇に塗り始めた。

「アカリ様、もう時間が、」
「……ん、おっけー」

自身の唇が赤く染まったのを見て、アカリは鏡から目を離した。
次いでサフィア、と小さく呟く。すると一瞬で姿を現したサフィアが丁寧にお辞儀をしてアカリを見上げた。

「サフィア、わたしが作ったマドレーヌまだ残ってるよね?包んでもらえるかな」
「畏まりました」

アカリの言葉に頷いたサフィアは頭を下げ、軽い破裂音とともに姿をくらます。そして数秒後、小さめのバスケットを手にし、再び姿を現した。
ありがとう、と礼を言いつつバスケットを受け取る。本来なら有名店の菓子折りでも持って行くべきなのだろうが、そんな時間はない。それに自分の手作り菓子の味には結構自信がある。将来パティシエでも目指してもいいかもしれないと思っていたぐらいだ。

「さて、行きますかね。ルシウスって姿くらましできる?」
「はい、先日試験に合格したので」
「じゃあ門までわたしが連れてくから、そこからはよろしくね」

はい、と差し出したアカリの手に、ルシウスは自身の手を重ねる。
アカリは普段よりも慎重に姿をくらませ、耳元でパチン、という破裂音がしてから瞼を開いた。
目の前には大きくそびえ立つ黒の門。鈍色の空からは真白の雪が絶えず降り、寒々しい。
暖かな屋敷とは違い、冷たい空気が肌を刺す。ぶるりと身体を震わせたアカリはルシウスを見上げ、繋いだ手にぎゅっと力を込めた。

「ルシウス寒い」
「すみません、それでは」

些か緊張した様子のルシウスが、アカリの手を握り返す。彼が瞼を閉じたのと同時に、アカリも瞼を下ろした。
一瞬へその裏側から引っ張り込まれたような感覚を経て、ブーツの踵が地面を踏みしめた。

瞼を開いた先には、ヴォルデモート卿の屋敷にも劣らない大きな門。その向こうには、少し懐かしさを感じる屋敷。ここに来るのはクリスマス以来だ。

マルフォイ邸を構えるこの地はウィルトシャーというところなのだと、いつだったかルシウスが話してくれた。
大きな鉄門をくぐると、あの夜を思い出す手入れの行き届いた庭が広がり、向こうには大きな噴水も見える。
ローブを脱ぎながら辺りを見渡すと、どこも粉雪が降り積もり神秘的な美しさを醸し出していた。
大きくそびえる扉につけられた、蛇を象ったドアノッカーもピカピカに磨き上げられ、細部までこだわっている様子が伺える。

二人が揃って玄関の大きな扉の前に立つと、触れてもいないのにスッと扉が開いた。
一歩足を踏み入れると、広いホールの中、一人の屋敷しもべ妖精が身体を縮こまらせてそこに立っていた。

「アカリ様!旦那様がお待ちになっておりますです!」

妖精はキーキーと甲高い声でそう叫んだかと思えば、バッと両手をアカリに突き出した。
アカリが妖精にローブとバスケットを差し出すとそれをしっかりと抱え、どこかへと歩いて行った。その後ろ姿を追うように歩き出すルシウスに続き、アカリも足を動かす。

廊下には数々の絵画や彫刻、壺などが飾られ、足元はふかふかの絨毯で覆われていた。
どこか仄暗い雰囲気の廊下を暫く歩くと、大きな扉の前でパタパタと小走りに先を進んでいた妖精がふと足を止めた。

「旦那様、アカリ様をお連れ致しましたです!」
「通せ」

コンコン、と二度扉を叩いた妖精の声に、中からくぐもった返事が聞こえた。大きな扉を小さな身体で開けると、妖精は深々と頭を下げる。ルシウスに促され、アカリは一歩部屋の中へと足を踏み入れた。
全体的に黒で統一された部屋は、どこか寒々しい印象を与えた。毛足の長い絨毯の上、置かれたソファに足を組み座っている人物と目が合う。

「来ていただき光栄です、アカリ様」
「こんにちは、アブラクサスさん。お招きいただきありがとうございます」

立ち上がり、柔和な笑みを浮かべたアブラクサスの前で膝を軽く曲げたお辞儀をする。
カーテシー、と呼ばれるお辞儀の仕方だ。クリスマスパーティー後に少しだけ調べておいてよかった。

にっこりと笑うアブラクサスの手の動きに合わせ、スッと手を差し出すとその手を掬い、軽く口付けが落とされた後手を引かれてソファに案内される。
大人しく黒いビロード張りのソファに腰を下ろすと、アブラクサスは背後のルシウスに顔だけを向けた。

「ルシウス、お前はもう下がりなさい」
「ですが父上、」
「下がれ」

有無を言わせないその一言に、ルシウスは言葉を詰め、ぐっと唇を噛む。アカリは振り返ってルシウスの顔を見ると、にこりと微笑んだ。

「ルシウス、案内ありがとう」
「アカリ様…………」

ルシウスはアカリの言葉に、強張らせた顔を緩ませる。アブラクサスに頭を下げると、アカリを心配そうに一瞥し部屋を出て行った。

顔の向きを正面に直し、向かいに腰を下ろしたアブラクサスと対峙する。彼は柔和な笑みを浮かべていたが、その瞳は冷たい色をしていた。

「アカリ様、砂糖とミルクは?」
「いただきます、ありがとうございます」

アブラクサスの杖の一振りでポットが勝手に動き、琥珀色のお茶が注がれる。アカリの前に躍り出たシュガーポットとミルク入れを使い、琥珀色に乳白色を流し込み、金のティースプーンでかき混ぜている間も彼の冷たい視線が付き纏う。
カップを持ち上げ一口含むと、ふんわりと香る紅茶の芳ばしさが鼻を抜けた。

「アッサム、ですか?」
「ええ、その通りです」
「アブラクサスさん、敬語も様付けも結構ですよ」

この前もお伝えしたでしょう。そう言うと、アカリは再びカップに口をつける。くすくすという笑い声が聞こえそちらに目を向けると、アブラクサスが愉快そうに瞳を細めていた。

「………やはり貴女は面白い方だ」
「お褒めにあずかり光栄です」

ルシウスと同じ、シルバーブロンドの髪を耳横で束ね肩へ流している彼はとても優雅に笑う。カップに伸ばす指先も、伏せられた瞳も、ゆったりと組む足も、全てが気品に溢れている。生粋の貴族とはこの人のことを言うのだと、アカリはひっそり息を吐いた。

「蛇姫様、だなんて仰々しい通り名が付けられているが………実際は可愛らしいお嬢さんで驚いたよ」
「ええ、その呼び名にはわたしも驚いています」

そう言って苦笑してみせたアカリは、アブラクサスと目線を合わせ、その瞳を見つめる。どこか鋭い氷を思わせる灰色は、ルシウスとそっくりのはずなのに全く似ていない。

ふと目の前に置かれた大皿のチョコレートに目を落とす。美しい円状に並べられた小粒のチョコレートは一つ一つに美しい装飾がなされていて、一目で高価なものなのだろうということが伺える。アカリがじっとチョコレートを見つめていることに気づいたアブラクサスは手で促し、アカリは有難く頂戴しようと一粒選び取り、口に運ぶ。
口に入れた瞬間とろりと溶けたチョコレートは舌の上で濃厚な香りと共に舌に絡みつく。鼻に抜けるブランデーの香りが素晴らしい。
あまりの美味しさにもう一粒口に運ぶと、アカリは思わず頬を緩ませた。

「このチョコレート、どこのお店のものなんですか?」
「これは貰い物だけれど、とても有名なところのものでね…………気に入ったのなら後で包ませよう」
「本当ですか?ありがとうございます!」

パアッと顔を輝かせたアカリに、アブラクサスはスッと瞳を細める。
こんなに美味しいチョコレート、食べたことない。帰ったら通販で頼んでみようと決心したアカリは最後にチョコレートをもう一粒口に放ると、濃厚な香りを紅茶で流し込んだ。

「どうして、お茶会に招いてくださったのですか?卿に内緒にしてまで」

次いで自然にそう口にしたアカリは、真正面のアブラクサスを真っ直ぐに見る。
手紙に書いてあったことを加えにこりと笑ったアカリに対し、アブラクサスは少しの鋭さを瞳に孕んだままだ。

「どうして?………ふふ、ただ貴女とお茶を飲んだら楽しそうだと思ったからだよ。」

くすくすと楽しげに笑う彼の言葉に思わず眉をひそめる。そこに嘘や誤魔化しの色が含まれていないからだ。

「楽しそう、ですか」
「そんな顔をしないでくれ。私は本当に、貴女とお茶をしたかっただけだ」

それに、と続けたアブラクサスは自身のカップを持ち上げ、口をつける。アカリと同じことをしているのに、この溢れ出る気品の違いは何なのだろう。

「…………貴女とは、どこかで会ったことのあるような気がする」
「え?」

そう小さく呟いたアブラクサスは、持ち上げたままのカップの水面をじっと見つめていた。
その呟きはアカリに対して言った言葉ではなく、独り言のような雰囲気を含んでいる。

「有り得ないことだというのはわかっているが、…………貴女の名前をあのお方から初めて聞いた時も、貴女と初めて会ったあの時も、おかしな既視感を覚えたものだ」

そう苦笑し、カップをそっとソーサーへと置く。アカリは、はあ、と曖昧な返事をすることしかできない。

「しかし実際貴女とは初対面だ。
名門純血貴族として、過去に会った者の顔を忘れるほど、衰えてはいない」

だから忘れてくれと、そう笑う彼に、アカリはこくりと小さく頷く。
どうやら本当に、わたしはただお茶会をするために呼ばれたらしい。すっかり冷めてしまった紅茶を傾け、こくりと飲み干す。すぐさまおかわりが入れられたカップは僅かに湯気を漂わせた。

「貴女は随分とあの方から大事にされているようだから、一応内密にしていただきたい。すぐにバレてしまうのだろうけれどね」
「…………そう、ですかね」

暖かい紅茶で唇を湿らせ、アカリは目を伏せる。大事にされている、のだろうか。
その言葉にどこか違和感を覚え、アカリは内心首を捻った。

「最近は抗争やマグル狩りにも参加されているそうだが?」
「ええ、まあ。監視付きですけどね」
「貴女の戦いぶりは噂に聞いている。私もいつか、直にお目にかかりたいものだ」

戦いぶり、とは。噂になるほど何かをした覚えがない。正直とても気になるが、流石に聞けない。……………今度ルシウスに聞いてみよう。

「アブラクサスさんは、そういったものには参加なされないのですか?」
「昔は皆と同じように杖を奮っていたが、今私の名や顔は魔法界に知れ渡っている。万が一にも見られては敵わないし、これでも幹部だからね。そのような泥仕事はしなくても良いことになっている」

幹部。そういえば、たまに卿が少人数と会議をしていることがあったが、あの人達のことだろうか。

「幹部なんているんですね」
「私の他に、オリオンなんかもいる。ブラック家当主のね」
「…………ああ、お顔は拝見したことがあります」

いつの日か、フェンリール・グレイバッグに襲われそうになった時、彼がブラックの旦那と呼んだ人物がいた。きっと彼のことだろうと、あの冷たい灰色を思い出す。

「……………貴女は、一体何者なんだ?」

何の脈略もなく、そう口にしたアブラクサスは真っ直ぐにアカリを見る。その視線を受け止め、アカリも彼の瞳を見つめた。

「オトナシなんて家名は聞いたことがないし、何より貴女はまだ子供だ。素性の知れないアジア人の女の子をあのお方が何の考えもなしに傍に置くわけがない。
貴女は、一体何者だ?」

アカリは、沈黙した。彼の鋭い瞳を見つめたまま、ただその問いを頭の中で反芻させていた。
わたしは、アカリ・オトナシという人間は、何者なのか。
それは−−−。

「…………秘密です」

そう言って、アカリはにこりと笑う。
思わず見開いた瞳をぱちりと瞬いたアブラクサスを見て、アカリは笑みを深めた。

「謎めいた少女って、魅力的で素敵でしょう?」

人差し指を唇に当てて、アカリは瞳を細める。
その無邪気さの中にぞっとするほどの熱が孕まれているその漆黒に、アブラクサスは言葉を失って圧倒された。我に返り、そして漏れ出たのは微かな笑い。
くつくつと笑うアブラクサスは、心底愉快そうに唇を歪めた。アカリは、薄い笑みを浮かべたまま。

「…………嗚呼、なるほど。やはりあのお方が貴女を傍に置く理由が、少しわかる」
「そうですか?わたしにはさっぱりです」

肩をすくめるアカリに、アブラクサスは笑みを深めた。ようやく笑いは堰き止められたらしい。そんなアブラクサスの様子を見て、アカリはすっと唇を開いた。

「アカリ・オトナシ、16歳の日本人。
好きなものは甘いものと動物で、嫌いなものは辛いものと苦いもの、そして退屈なことです。趣味と得意なことは料理。蛇姫、と呼ばれています。
どうぞよろしくお願いしますね」

突然始めた自己紹介を一息で言い終わり、にっこりと笑ったアカリは右手を差し出す。
アブラクサスはそんなアカリの自己紹介を聞いて、己の右手を差し出した。

「ああ、よろしく。…………アカリ」

そうして、二人は固く握手を交わした。

にこやかに笑んだアカリは手を離すと壁際の時計を目にし、立ち上がる。

「それでは、これでお暇させていただきますね」
「ああ。貴女とのお茶会はとても楽しかった」
「わたしも楽しかったです。ありがとうございました」

アブラクサスのエスコートで扉を開けてもらう。一礼して廊下へ出ると、扉の影から何かが飛び出した。

「っアカリ様!」
「え、ルシウス?どうしてここに、」

その飛び出してきたのは、ルシウスだった。
少し顔を青くさせた彼は、もしかしてずっと廊下にいたのだろうか。わたしを、心配して。

「ルシウス?何をしている」
「ち、父上、」
「アブラクサスさん」

微かに驚いた表情を浮かべるアブラクサスに呼びかけ、アカリはルシウスの後ろに縮こまるようにして立っていた妖精から手渡されたバスケットを掲げた。

「これ、わたしが作ったんです。よろしければ皆さんでどうぞ」
「………ああ、確か趣味なんだと言っていたね」
「はい、味には自信があります」

穏やかに会話をしている二人を見比べるルシウスは、ぽかんと目を見開いた。
そんなルシウスを面白そうに見たアカリは、彼の手を取る。

「アブラクサスさん、お見送りは結構です。ルシウスがしてくれるそうなので」
「え、」
「そうか。
アカリ、また遊びに来なさい。何なら泊まりに来てくれてもいい」
「本当ですか?ではまたお邪魔しに来ます」

それでは、と再度カーテシーをしてからルシウスの手を引き長い廊下を歩き出す。玄関の扉をくぐったあたりで我に返ったルシウスは慌てて口を開いた。

「アカリ様、一体どういうことですか?」
「うん?何が?」

しらばっくれるように返したアカリは外の寒さに身体を震わせ、ローブを被る。
ちらりと視線を写したルシウスの瞳を見て、僅かに驚いた。
そっくりだと思っていたけれど、違う。アブラクサスの瞳よりも微かに青みがかっている、灰色だ。
その瞳を吊り上げ、彼は語気を強めた。

「父上との話のことです!」
「ああそれ?うーん、正直何もなさすぎてびっくりだよ」

何かあると思ってたんだけど、と肩をすくめるアカリに、ルシウスは疑うような目を向ける。そんな目を向けられたアカリは思わず苦笑を浮かべた。

「酷いな、本当のことだよ?」

本当に、何もなかった。
否、何も起こさなかったというのが事実だろう。少なくともあの人は踏み込もうとしたのだから。それを華麗に避けて見せたアカリもアカリだが、避けられたことを分かった上でスルーするアブラクサスもアブラクサスだ。

「…………それならば、よかったです」
「心配かけてごめんね、ルシウス」
「心配など、」
「してくれたんでしょ?あんなに長い時間立ちっぱなしにさせてごめん。ありがとう」

にっこりと笑うアカリには敵わないと思ったのか、ルシウスは眉を下げる。

あの父と二人きりになるなんて、正気の沙汰じゃない。彼の話術と雰囲気は人をも飲み込む。自分があの人に普段どれだけ冷や汗をかかされているのか、それを考えただけで背筋が凍る。

そんな父と二人きりにさせてしまったアカリのことが心配でたまらなかった。何かされるのではないかと、気が気でなくて部屋に帰ることもできなかった。結果的に、部屋から出てきたあの二人は何故か友好的な笑みを浮かべ世間話をしていたけれど。

それでも、父の前での穏やかな笑みとは違う、自分に向けた明るい笑みが見れただけで肩の力が抜けた。やはり、父以上にこの人には敵わない。

「ここまででいいよ、ここからなら帰れるから」
「はい、お気をつけて」
「うん。アブラクサスさんもああ言ってくれたし、また遊びに来るよ。泊まりにも行くから、よろしくね」
「…………ええ。お待ちしています」

アカリにつられて笑みを返せば、そんなルシウスを見上げてアカリは笑みを深めた。ひら、と手を振ったあとに響いた破裂音と共に、アカリはその場から姿をくらませる。ルシウスは暫しそこに立ち、それから屋敷へと戻っていった。
僅かでもいいから父と話してみよう、という覚悟を、その瞳に宿して。



アカリ宛に贈られた大きな箱詰めのチョコレート、そのアブラクサスの署名を見たヴォルデモート卿にしつこく問い詰められたのは、それから数時間後の話だった。

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