聖なる夜にくちづけを
ヴォルデモート卿に導かれ扉の向こう側へと足を踏み入れると、外の静寂から一変して華々しい空気へと視界が染まった。
広いホールは沢山の人で賑わい、とても煌びやかに着飾った人々は片手にグラスを持ち、思い思いに過ごしている。
アカリが天井から吊るされた、何とも大きなシャンデリアに目を奪われているとヴォルデモート卿は懐から封筒を取り出し、両脇に待機していた使用人の男に手渡していた。
「ようこそいらっしゃいました、中へどうぞ」
にこやかに一礼した男に見送られ、二人は話し声とどこからか聞こえる音楽に満ちたホールを歩く。
「アカリ」
「はい」
「先ほども言ったが、お前は何を言われようとも声を出すな。名乗ることもしなくていい。
ただ笑っていろ、私が上手くやってやる」
「…………はい」
「相手が男の場合、手を出すような仕草をしたと思ったら手を差し出せ。
女の場合は逆に手を差し出されるが膝を少し曲げ、頭を垂れその手を額に付けろ。それがマナーだ」
「は、はい」
卿の言葉を頭の中で復唱する。
こういう場は何とも複雑なマナーがあるもんだ。やり切れるか不安でしかない。
「我が君」
「ルシウスか」
ふとため息を細く吐いたアカリは、こちらに掛けられた声に顔を向ける。
「ルシウス……!」
そこに立っていたルシウスはにこり、と灰色の瞳を細めて微笑む。彼は真っ白なタキシードを着込んでいた。
思わず彼を呼んでしまったが、つい先程言われたことをすでに破ってしまった。
ハッと口を噤み卿の顔を伺うと、僅かに頷かれた。………ルシウスならば、いいということか。
「当家のクリスマスパーティーへようこそいらっしゃいました」
「ああ」
「アカリ様も、とてもお綺麗で」
「え、ど、どうも……」
突然のお世辞に焦るも、当のルシウスは微笑んだままで。そう言いながらルシウスが手をこちらへと出して来たのを目にし、慌ててアカリも右手を彼の前へと出した。
差し出した手を掬われると、ルシウスは少し屈み、その手に唇を寄せた。
顔を離すと再びにこりと綺麗に微笑まれ、呆気に取られていたアカリは急に羞恥心が呼び戻され、頬が熱くなるのを感じた。
「父上がお呼びですので、我が君はこちらへ」
「わかった」
「え………」
「アカリ様はお任せ下さい」
「ああ、頼んだ」
ルシウスが呼んだ使用人に案内され、ヴォルデモート卿はこの場を離れた。
人々に隠され、徐々に見えなくなっていく後ろ姿を眺めているとふいにアカリは名前を呼ばれ、そちらに顔を向ける。
「アカリ様、お久しぶりです」
「うん、久しぶり。プレゼントありがとう」
そう言って笑うと、ルシウスは照れくさそうに笑みを深めた。
「いいえ。喜んでいただけたようで、何よりです。こちらこそ素敵なプレゼントありがとうございます」
アカリはそこでようやく気づいた。白いタキシードの胸元に飾られているのは、銀細工のブローチ。
仄かに表面が揺らめく宝石は、胸元のポケットチーフと同じ、勿忘草色だ。
「それ、もしかして………」
「はい、早速使わせていただいています」
そのブローチは、アカリがルシウスに贈ったクリスマスプレゼントだ。
付けると、その時自分が着ている服に合わせ色を変える魔法がかかっている。
「よかった、すごくよく似合ってる」
「ありがとうございます。………何かお飲みになられますか?」
君、とルシウスはちょうど二人のそばを通りがかった給仕の男を呼び止める。
男は何種類かのグラスを乗せたトレイを手にしていた。
「こちらが赤ワイン、こちらがシャンパン、そしてこちらがシンデレラです」
「アカリ様、どうぞ」
「ありがとう」
シンデレラ、と紹介された中身がオレンジ色のグラスを手渡される。
顔を寄せて匂いを嗅いで見ると、オレンジジュースのような、柑橘系の甘い匂いがした。
恐る恐るグラスを傾け一口含んでみる。
「あ、おいしい……!」
オレンジジュースの中に、レモンのような酸味が加わっていて、とても美味しい。
ノンアルコールカクテルのシンデレラ、という名前は聞いたことがある。
それくらい有名なのだろう。
もう一度グラスを傾け、その味を楽しんでいると、周りの人々のざわつきが大きくなった。それと同時に、優雅な曲が流れてくる。
なんだろう、と辺りを見渡すと、ルシウスがこちらに手を差し出した。
「アカリ様、一曲お相手願えますか?」
「え!?」
驚いて目を見開くと、ルシウスは灰色の瞳を細めて微笑んだ。
「わたし、ダンスなんて踊れないよ」
「大丈夫です、私にお任せ下さい」
「いやいやいや………」
どうしよう、どうやって断ろう、とぐるぐる考えていると、真後ろから声がかけられた。
「待たせたな」
「卿!」
「我が君、お話はお済みですか?」
「ああ。アブラクサスが呼んでいたぞ、すぐに向かった方がいいのではないか?」
そう言われたルシウスは差し出していた手を引くと、深くお辞儀をした。
そのままどこかへと去っていく彼を見送りながら安堵の息を吐くと、同時にヴォルデモート卿も息を吐いた。
「なにしてたんですか?」
「ただのパトロン探しだ」
面倒くさそうに言ったヴォルデモート卿は、アカリの腕を掴むとどこかへと歩き出す。
周りの人々は、どうやらダンスを踊り出したらしい。
その合間を縫って慌てて隣につき、その歩みについて行くと、途中で男性に声をかけられた。
「失礼、我が君」
「……ああ、オリオンか」
その男は髪の色と同じ、黒いタキシードを着ている。
オリオン、と言えばオリオン・ブラックだ。シリウスの父親にあたる人物だが、この人がそうなのだろうか。
「ブラック家当主も大変そうだな」
「我が君には及びません」
ところで、と言葉を区切った彼は、冷たい灰色の瞳をアカリに向ける。
その鋭さに負けじと見つめ返すアカリを見て、瞳を細めた。
「この娘は、もしや蛇姫と呼ばれている者でしょうか」
「ああ、そう呼ばれているようだな」
さらりとそう返した卿の言葉に、そうですか、と呟くとオリオンはアカリから視線を戻した。
何やら話している二人を他所に、ほっと息をつく。とても、冷たい目だった。
そういえばあの瞳は見たことがある。うーん、とアカリが記憶を手繰り寄せていると、突然腰に手が回された。
ふと顔を上げると、そこには見知らぬ恰幅のいい男と同い年くらいの美しい少女が立っていた。
「ご歓談中失礼致します、我が君」
「ああ。……オリオン、例の件はまたの機会に」
「畏まりました」
スッとお辞儀をすると、オリオンは背を向けどこかへと去っていった。
目の前の男に視線を戻すと、とてもいい身なりをしていることに気づく。
男の指には大粒の宝石があしらわれた指輪を幾つも着けているし、少女の首元や手、髪にも豪華なアクセサリーが飾られていた。
「このような場に貴方様がいらっしゃるとは、流石はマルフォイ家といったところでございましょうか」
「そうだな」
興味無さげに答える卿に引くことなく、男は笑みを浮かべる。恰幅のよい男は傍らの少女に視線をやった。
「是非娘を紹介したいと思いまして。ほら、挨拶なさい」
「お初にお目にかかります、我が君。娘のジュリアでございます」
一歩進み出た少女は薄いピンク色をしたドレスの裾を軽く摘み、膝を折る。
優美なその仕草に目を奪われていると、顔を上げた少女はこちらへ視線をやり、一瞬馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「ああ、娘の噂はよく聞いている」
「それは光栄の極み」
ニヤニヤと感じの悪い笑みを浮かべると、男はアカリに目をやり、品定めをするように上から下まで眺めた。
「我が君、そちらの娘は?
まさかとは思いますがその様に貧弱なアジア人、あなた様の良い人ではないでしょう?」
男と少女に馬鹿にしたような視線を注がれ、アカリは苛つきを顔に出さないよう全神経を使っていた。
確かにわたしは美人でもない、貧弱な日本人だ。
そう、わたしは、ヴォルデモート卿に釣り合うほどの容姿を持っている訳では無い。
どうして、わたしはこんなところにいるんだろう。こんな、似合いもしないドレスを着て、口紅を付けて。
苛つきから一転し心が沈んでいくのを感じながら、アカリは視線を落とした。
「我が君、もしよろしければ娘を貴方様の婚約者になどはいかがでしょう?」
その言葉に、アカリは唇を噛んだ。瞼を閉じると、少女の馬鹿にしたような笑みが脳裏に浮かぶ。
すると、そんなアカリを叱責するかのように、腰に回された腕に力が込められた。
「お前が、私の婚約者になる、と?」
「はい。私、何でも致しますわ」
く、と微かにヴォルデモート卿が笑うのがわかった。
その反応に顔を上げると、ヴォルデモート卿は心底可笑しそうに口角を上げる。
「何でも、か。ならばこの場で何人かを殺して見せろ」
「え……」
唖然とした様子の二人に、ヴォルデモート卿は再び笑う。
顔を青くさせた二人、そして笑う卿。
異様な空気に、アカリは瞳を瞬かせた。
「それと、もう一つ」
そう言うと、ヴォルデモート卿はアカリの腰を強く引き寄せた。
その力に、ぐらりと身体が傾く。
咄嗟に卿の胸に手をつき、もたれ掛かるような体勢になると、ヴォルデモート卿はそのまま笑みを浮かべた。
「確かにこいつは貧弱なアジア人だ。
だが、水中人のようなお前よりは魅力的だと私は思うがな」
「なっ……!?」
そう吐き捨てると、ヴォルデモート卿はアカリの額に唇を落とした。
突然のことに目を白黒させるアカリを見ると、ヴォルデモート卿はその姿勢のまま小声で呟いた。
「………私の言ったことをもう忘れたのか?」
その言葉に、アカリはハッと息を呑んだ。
−−−お前はただ、私の隣で笑っていればいい。相手に何を言われようが反応するな、全て私が相手をしてやる。
そうだ、笑え。わたしはただ笑っていればいいんだ。
ヴォルデモート卿の言葉を思い出し、アカリはヴォルデモート卿にもたれ掛かりながら、目の前の少女を見やる。
先ほどまで顔を青ざめていた少女は、ぽかんと口を開いて立っていた。
少女と目が合うと、アカリはゆるりと口元を緩ませ、微笑んだ。
アカリが瞳を細めると、少女は顔を赤くさせ、目を吊り上げる。
その表情を見た時、アカリは少女に対して優越感を覚えた。
美しい貴族の娘であり、今まで勝ち組人生を歩んできた、そんな彼女がわたしに対して嫉妬をしている。
−−−ああ、気持ちいい。
「そういうことだ、さっさと消えろ」
「ッ………!」
瞳を見開いた少女は、アカリの顔を鋭く睨みつけると、背を向けてどこかへと走り去る。その姿を慌てて追いかける男を見ていると、ヴォルデモート卿はアカリから手を離した。
「上出来だったぞ」
「そ、それはどうも………」
上機嫌なヴォルデモート卿に褒められ、複雑な心情を持ちながらも一応お礼を言う。
先ほど口づけられたことを思い出しながら、額に手をやる。指先でそっと撫でると、何故か恥ずかしくなりふるふると頭を振った。
「おい、何をしている」
「っいえ!何でも!」
バッと顔を上げ、思い切り否定する。
訝しげな顔をしたヴォルデモート卿は、突然顔を上げたことで乱れたアカリの前髪を撫で付けると、再び腕を掴んで移動し始めた。
またもや触れられたことに、つい顔を赤くさせたアカリは、周りに見られないよう顔を俯かせ、ヴォルデモート卿について行く。
それからヴォルデモート卿に話しかけてくる人を何回か笑顔で対応し、漸くホールの角に辿りついた。
人気のないところで、珍しく疲れたような表情を浮かべるヴォルデモート卿は、アカリがずっと手に持っていたグラスを奪い、一気に煽った。
あっと声を上げるアカリを物ともせずに飲み込んだものの、彼は思い切り眉を寄せた。
「なんだこれは、甘すぎる」
「シンデレラですよ」
「………最悪だ」
チッと舌打ちを一つすると、通りがかった給仕の男を呼び止める。
トレイから赤ワインとジンジャーエールのような飲み物を取ったヴォルデモート卿は赤ワインを飲みながらもう片方をアカリに手渡す。
「これ、何ですか?」
「ヴァージンモヒート、ノンアルコールのモヒートだ」
お子様にはそれで充分だろう、と卿は馬鹿にしたように鼻で笑うと赤ワインを飲み干した。
お子様、という言葉にムッとしながらも、どれだけシンデレラが嫌だったんだ、という呆れの方が勝ち、半目でヴォルデモート卿を見ながらもモヒートを一口含んでみた。
「わ、おいしい!」
すっきりとしたライムの香りが鼻に抜ける。
炭酸と相まって、爽やかな風味に頬が緩んだ。
「わたしシンデレラよりこっちの方が好きです」
「それはそれで甘ったるいがな」
「ええ、そうですか?」
そんな他愛もない会話をしていると、突然ヴォルデモート卿が黙り込んだ。
「…………………」
「卿?」
無表情のまま、何の反応も示さない卿の様子を伺うように覗き込むと、ヴォルデモート卿はこちらを見上げたアカリの顔をじっと見つめる。
すると何の前触れもなく、アカリの腰を抱き寄せた。
「っ!?」
突然すぎて咄嗟の反応ができず、力強い腕に導かれるまま、ヴォルデモート卿に身体を寄せた。
するりと背中に腕を回され、アカリはびしりと固まる。
人気がないとはいえ、この姿勢はちょっと………!
身体を固くさせ、ヴォルデモート卿に文句をつけようと上を見上げる。
すると予想以上に近い距離にヴォルデモート卿の顔があり、目が合った瞬間再びアカリは固まって動かなくなった。
何故かお互い見つめ合ったまま、無言でいるとヴォルデモート卿が薄く唇を開いた。
「顔は動かすな、そのまま右を見ろ」
その声に瞬きを一つすると、言われた通りに視線だけを右に動かす。
目だけを動かして辺りを見渡すと、少し離れたところにいる少女が、こちらを見ていることに気づいた。
その視線の鋭さに、ぞくりと背筋を震わせる。
あの少女は、つい先程卿にあしらわれた、あの子だ。確かジュリアと言ったか。
整った唇を引き結び、大きな瞳で睨みつけている。どこか殺気を帯びているような、そんな鋭さ。
思わず目をそらすと、アカリは両手の中にあるグラスをぎゅっと掴んだ。
一度認識してしまうと、それを意識しないようにするのは難しいことだ。
極力そちらを見ないようにしても、視線が突き刺さる。
身体を縮こませ、黙りこくっていると、ふいにヴォルデモート卿の小さな呟きが耳に入った。
「………致し方ないか」
その言葉の意味を考える暇もなく、密着していた身体が離れる。
ほっと息を吐く前に、アカリの顎に指が添えられた。
力が込められ、上を向かされるとそのままヴォルデモート卿の無表情が目に入った。
………なんだ、これは。顎に添えられた指が気になってしょうがない。
「あの、卿?」
「…………………」
「無視ですか?ちょっと、聞いてます?」
「うるさい」
はあ、というため息に遮られ、アカリはムッと眉を寄せた。
ヴォルデモート卿はアカリが持っていたグラスを指で弾くと、どこかへと消してしまった。
「うるさいって何ですか、だいたいこれって、」
「そろそろ黙れ」
反論の途中でぐっと腰を抱き寄せられ、言葉を止める。
焦点も合わないほどの近さに迫ったヴォルデモート卿の顔が、少しだけ笑っているのにアカリは気がついた。
その近さに思わず瞼を瞑った瞬間、何か柔らかいものが唇に触れた。
その感触に薄目を開けると、血のように赤い瞳を持つヴォルデモート卿の顔がすぐそこにあった。
その瞳の奥に漂う熱に、漸く我を取り戻すと、アカリはどうにか離れようとヴォルデモート卿の身体を押す。
それを嘲笑うように、ワイングラスを持っていたはずの手が後頭部に添えられ、より一層身体を寄せた。
腰に回された腕、密着した身体、そして唇から伝わる熱に脳が麻痺してしまったのではないか、と錯覚するほどに考える力を奪われる。
どうしよう、とぐるぐる思考を巡らせていると、ヴォルデモート卿の指先が露わになっている背中をするりとなぞる。
びくりとそれに反応を示すと、漸く唇が離れた。
思わず酸素を求めて口を開けると、すかさず再び口づけられる。
何度も何度も角度を変え降ってくる唇にもう何がなんだかわからなくなりパニック状態に陥っていると、ふ、とヴォルデモート卿が笑ったような気配を感じた。
ちゅ、とリップ音がしたかと思えばすっと顔が離れる。
力が入らず、その場にへたりこみそうになるアカリを片腕で支えるとヴォルデモート卿はくすりと笑みを零した。
アカリは酸素を求めて息を荒げながらも、卿を睨みつける。
涼し気な顔をしたヴォルデモート卿は、抱きとめている腕とは反対の指先で口紅が移ってしまった自身の口元を拭った。
その仕草に頬が熱くなり、バッと顔を背けた。
すると顔を背けた方向はあの少女が立っていた方向で。
少女は大きな瞳をさらに吊り上げ唇を噛み締めていた。
その少女の形相に、先ほど感じた優越感が再び湧き上がってくる。
あんなに綺麗な少女でさえ、近寄ることも叶わないヴォルデモート卿。
そんな人の腕の中にいるのは、このわたしだ。あの人ではなくて。
なんだかそれがとてもおかしくて、おかしくて。くすりと笑みを浮かべると、こてんと顔を傾かせ、ヴォルデモート卿の胸元にもたれかけた。
すると少女は激情したかのような表情を浮かべると、手に持ったクラッチバッグから杖を取り出し、こちらに向ける。
突然のことに目を見開くと、少女は口を開き何やら呪文の詠唱を始めようとしていた。
咄嗟の対応が出来ないアカリの真上で、ヴォルデモート卿はふ、と声を零した。
少女が呪文の詠唱をする直前、ヴォルデモート卿は右手でパチン、と指を鳴らした。
するとどこからか飛んできた赤ワインのグラスが、少女の頭上で逆さまになり、中の液体が少女へと降り注いだ。
悲鳴をあげた少女に周りの人々が何事かと振り向く。
少女の頭上にあったはずのグラスは、いつの間にかどこかへと消えてしまっていた。
薄いピンク色をしていた見事なドレスやブロンドの髪がワインに染まった少女が何とも滑稽で、思わず吹き出してしまった。
「ふ、ふふ、か、かわいそう………」
「と言いつつ笑うお前もお前だがな」
「そんなことないですよ」
でも、と続けたアカリは頭上を見上げ、ヴォルデモート卿の顔を見る。
「今のは最高です」
すっきりしました、と笑うアカリにつられ、ヴォルデモート卿も口角をあげた。
少しだけそう笑っていると、ヴォルデモート卿がふいに目線をアカリ越しにどこかへとやった。
「あれは………」
「卿?」
何かを目にしたヴォルデモート卿は、少女が立っていた方へと視線を移す。
少女は使用人に連れられ、別室へと案内されていた。
「アカリ、ここから離れるな。すぐ戻る」
「え、ちょっと」
少女の行方を確認すると、アカリの身体を離し、先ほど見ていた視線の方へと向かっていった。
恐らくはどこぞの貴族と危ないお話をするんだろう。
さっきまであんなに愉しそうだったのに、と心の中で文句を言いながら、ハッと思い出す。
−−−わたし、ヴォルデモート卿と、キスをしたの………?
漸く気がついたそのことに、思わず動きが固まる。
無意識のうちに唇を指先で触れると、あの感触が蘇り、頬が熱くなった。
お、落ち着け、あれはきっとあの少女をあしらおうとしただけのことだ。それ以上でも、それ以下でもない。
あの人にとってわたしはどうでもよくて、キスなんて、ただの手段でしかなくて。
自分を落ち着かせるために心の中で吐いていた言い訳は、次第に自分を落ち込ませる言葉へと変わっていった。
そうだ、何をこんなに慌てているのだろう。わたしのことは、何とも思っていない。そんなこと、わかっていたはずなのに。
ドキドキとうるさくて仕方がなかった心臓が、今はずきりと痛む。
小さな針が、何度も何度も突いてくる。
思わずその痛みに顔をしかめ、胸元に拳を当てる。俯きがちにふう、と息を吐いていると、視界の端に誰かの靴が映った。
ハッと顔を上げると、そこには豊かな黒髪を結い上げた、真っ赤なドレスを着た女性がいた。
自分よりも上にある顔を見上げる。
とても綺麗に整った顔は、眉間に寄せられた皺で台無しになっていた。
「………あんた、何者だ」
初対面の女性に、そう問いかけられる。
質問の意図を計り損ね、アカリはつい眉を寄せた。
「ただの、人間です」
「そういうことをきいてるんじゃない」
アカリの答えに苛つきを隠せない様子の女性は、そう吐き捨てた。
「あの方の、何なのかって聞いてるんだよ」
あの方、というのは。十中八九、ヴォルデモート卿のことだろう。
微かに目を見開くアカリとは反対に、女性は眉間に皺を寄せたままぴくりとも表情を動かさず、アカリの答えを待っていた。
「何、ですか」
アカリは困ってしまった。
正直言って、自分でもよくわかっていないのだ。
部下、ではないし友人なんてもっての外だ。恋人なんてのも有り得ない。
自分の言葉に傷つきながらも、その痛みを無視する。落ち着け、落ち着け。
「………居候、です」
ううん、と悩んだ末に出した結果が、これだ。嘘はついていない。
「馬鹿にしてるのか?」
「いいえ、真実です」
「ああそうかい、じゃあ質問を変えるよ。あんたが蛇姫って奴か?」
蛇姫。ヴォルデモート卿に囲われ、屋敷の奥に仕舞われた籠の鳥。籠姫、とも呼ばれる。
「確かに、そう呼ばれているようですが」
「…………へえ」
ずっと眉間に皺を寄せていた女性は、初めて表情を変えた。
アカリの全身を品定めするように眺めると、最後に鼻で笑った。
「あんたが、籠姫?こんな小娘が?馬鹿馬鹿しい」
はん、と再び鼻で笑った女性は距離を詰めてくる。
思わず一歩下がると、その分距離を詰められた。
「馬鹿にするな、あんたみたいな小娘を、あの方が相手にするはずがない」
その大きな瞳で睨みつけると、いつの間にか取り出した杖を鼻先に突きつけてくる。
それに反応するも既に遅く、目と鼻の先にいる女性はアカリの首に杖を当てた。
「どうやってあの方に取り入った?」
「………別に取り入ってなんか」
「嘘をつくんじゃないよ」
ぐっ、と杖先が首に押し当てられる。その不快感に眉を寄せると、せせら笑うかのように女性は赤い唇を吊り上げた。
「さっさと吐きな、そうでなきゃ痛い目を見ることになるよ」
「………ここで、そんなことができると?」
「ここは元々人気が少ない上に邪魔避けと防音魔法をかけてある。あんたがどんなに叫ぼうが、誰も気づかないさ」
勝ち誇ったように笑う女性に、アカリは唇を噛む。
さて、どうする。杖は無くても魔法は使えるし、攻撃呪文ならば無言詠唱でも可能だ。
しかしこの距離で、無傷のまま彼女に勝てる気がしない。
そう考え込んでいると、痺れを切らしたように彼女が声を荒らげる。
「早く吐けって言ってるんだよ!」
「っ、」
さらに杖先が首にめり込む。その痛みと不快感は、どうやっても取り除けない。
一か八かの勝負に出るしかないか、と覚悟を決め、女性を見据える。
「………そんなの、知りませんよ。あの人が勝手にわたしを囲ってるだけです」
「はあ?」
「だから、言葉の通りです。
さっきだっていきなりキスなんてされて、せっかくの口紅が取れてしまった」
はあ、と心底困ったように唇を指先で撫でる。そんなアカリの様子に、女性は瞳を吊り上げた。
「ッ、このクソガキ………!」
パン、と軽い破裂音と共に視界がぐらつく。傾いた身体を何とか踏ん張って立て直すと、ほぼ反射的に頬へ手をやった。
熱を持った頬は、次第にじんじんとした痛みを発した。
頬に手を当てたまま女性を見ると、息を荒らげ、こちらを睨みつけていた。
「お前なんか、この場で殺してやる………!」
そう言いながら、女性は杖を振りかざす。
アカリは咄嗟に左手を前に突き出し、その掌を彼女に翳した。
女性が杖を振り下ろした瞬間、赤い光線が放たれ、目が眩む。思わず閉じた瞼を再び開けると、女性は壁にもたれ掛かり、倒れていた。
ぽかん、とその場で立ち尽くしたアカリはハッと意識を取り戻すと慌てて彼女の元へと駆けつける。
恐る恐る身体を揺すってみてもビクともしない。
まさか殺してしまったのか、と青ざめるもあの光線は赤色だったし、呼吸音も聞こえる。きっと気絶してしまったのだろう。
ひとまずほっと息をつくと、真後ろで足音がした。
「アカリ?」
「あ、卿………」
後ろを振り向くと、その場にはヴォルデモート卿が立っていた。
女性が気絶したことにより、魔法が解けたのか、それともヴォルデモート卿が力づくでこじ開けたのだろう。
振り向いたアカリの顔を見たヴォルデモート卿は瞬時に眉を寄せ、その場に座り込むアカリの腕を引っ張り、立ち上がらせた。
「その頬はどうした」
「え?あー………」
ちょっと、という煮えきらない返事と倒れている女性を見て、何かを悟ったらしいヴォルデモート卿はアカリの赤くなった頬に指先を添わせる。
白い指が頬を撫でると、触れられたところから痛みが引いていくようだった。
「これでいい」
「ありがとう、ございます」
指の感触に少しだけ心臓をうるさくさせるアカリは、話題を変えようと女性に目をやった。
「あの、いろいろあってこの人気絶してしまったんですけど」
「………面倒だな」
ヴォルデモート卿は少し離れたところにいた使用人を呼びつけると、「アルコールを飲んで気絶してしまったようだ」などという嘘をいけしゃあしゃあと吐いてみせ、女性は運ばれていった。
「これでいいだろう」
「…………」
「なんだその目は」
「…………………いえ」
半目でヴォルデモート卿の顔を見ていたアカリはすい、と目を逸らす。
そういえば、もう飲み物が無いんだった。
喉の乾きを潤そうと、使用人を探し求めキョロキョロと辺りを見渡していると、後ろから肩を抱かれる。
「もう用事は済んだ、帰るぞ」
「えっ」
ぐい、とその強い力に促されるままアカリは足を動かした。
本当にいつも突然だなあ、と内心ため息をつくと、隣のヴォルデモート卿が足を止めそれにならいアカリもその場で立ち止まる。
「アブラクサス」
「おや、これはこれは」
何人かの貴族らしき人たちの集まりに呼びかけると、その中心にいた男が振り返った。
長いシルバーブロンドを肩で結い、上品なタキシードを見に纏う彼こそが、アブラクサス・マルフォイ−−ルシウスの父親なのだろう。
「そろそろ私は帰らせてもらおう」
「左様ですか。………初めまして、お嬢さん」
ルシウスによく似たその顔で微笑まれ、アカリも笑みを返す。
柔和な微笑みに反し、灰色の瞳は鋭く光っていたのを見逃さなかった。
「初めまして、アブラクサス・マルフォイと申します。以後、お見知りおきを」
彼が手を動かすのを察知し、アカリも右手を彼に差し出す。
彼はするりと優雅な所作で手を取ると、そっと口づけた。
これだけは慣れないな、と思いながら手を離し、にっこりと笑う。
何も言われないということは、上手くやれているということだろう。
「もう少し早くご紹介頂きたかったところですがね」
「その必要はないだろう」
「私は彼女にとても興味があるのですよ、前にもお伝えしたでしょう?」
「お前の興味なんぞどうでもいい」
「手厳しい」
くすりと笑ったアブラクサスとヴォルデモート卿は、他の死喰い人とは距離感が違う。
ああ、そういえばアブラクサスはヴォルデモート卿がトム・リドルとしてホグワーツに通っていた時の先輩だったんだっけ。
遠い記憶を掘り起こし、勝手に一人で納得していると、二人の会話は既に終わっていたらしい。
行くぞ、と踵を返すヴォルデモート卿に連れられ、アカリも玄関の方に足を向ける。
すると、後ろからお嬢さん、と呼びかけられた。
くるりと振り返ると、アブラクサスが笑みを浮かべていた。
「愚息が、お世話になっているようで」
そう言う彼の瞳は、とても冷たい。先ほどアカリのことを見た時よりも、さらに鋭いものだ。
その瞳を見つめ返すと、アカリは静かに笑みを浮かべた。
「いいえ。わたしが、ルシウスにとてもお世話になっているんです。
大切な、友人ですから」
にっこりと笑みを深めると、アカリはドレスの裾を持ち上げ、軽く膝を折った。
「ルシウスに、よろしくお伝えください。それでは失礼致します」
「………ええ、また」
伏せた顔を上げると、アブラクサスは瞳を細め、先ほどまでの柔和な微笑みとは違い、愉快そうに笑っていた。
「なるほど、あの方が傍に置きたがるわけが少しわかったような気がします」
「それは、どうも」
褒め言葉として受け取ったアカリは、再び失礼致しますと声をかけると玄関へと方向を変える。
何歩か進んでから、あ、と声を上げてアブラクサスの方へと振り返った。
「わたしには、敬語は必要ないので。
仲良くしてくださいね」
それだけ言うと、前を向いて今度こそ玄関へと向かう。後ろから、漏れだしたような笑い声が聞こえた気がした。
玄関へと向かうと、仏頂面のヴォルデモート卿が腕を組んで立っていた。
「すみません、お待たせしました」
「全くだ」
使用人によって開けられた扉をくぐり、ホールを後にする。
外では白い雪が降り続いており、華々しいホールとは打って変わって静かな銀世界が広がっていた。
「アブラクサスと何をしていた」
「いえ?特には」
石畳には、雪が一切降り積もっていない。何か魔法がかけられているのだろう。
降ってくる雪を手で掬いあげるように手を出して歩いていると、ヴォルデモート卿がいつもの無表情で問いかけてきた。
「ただ、仲良くしてねって言ってきました」
「は?」
「だって、ルシウスのお父様でしょう?仲良くしてもらわないと困ります」
あっけらかんと言ったその言葉に、ヴォルデモート卿は素の反応を返した。
少しだけ笑ってから、それに、と言葉を続ける。
「敵よりも味方になってもらった方がいいに決まってます。名門マルフォイ家当主なら、尚更」
そうでしょ、と隣を見上げると、彼は口元に笑みを浮かべ、く、と声を零した。
「ああ、お前はそういう奴だった」
「それどういう意味ですか?褒めてます?」
「褒めている」
「ならいいですけど」
掌に触れた雪は、その温度で溶けていく。水滴だけが残る手は、冷たくなってしまった。
引っ込めた手を、今度は隣のヴォルデモート卿が掴む。
「じっとしていろ」
ぐい、と抱き寄せられた瞬間、視界が歪んだ。
***
瞬きをしたその一瞬の間に、どうやら姿くらましは終わっていたらしい。
パチパチと暖炉で薪が燃える音のする部屋に戻ってきたアカリはその暖かさにほっと息をついた。
「ドレスは脱いだらそこら辺に放っておけ。屋敷しもべが片付けるだろう」
身体を離したヴォルデモート卿は、さっさと自室に帰ろうとしている。
慌てて扉へと向かう卿を呼び止めると、何だ、と言いながらその場で止まった。
「あの、プレゼント、ありがとうございました。パーティーも、楽しかったです」
少しの照れを押さえつけながら、そうお礼を言う。
するとヴォルデモート卿は表情一つ変えず、ああ、とだけ言うと、すぐに廊下へと出てしまった。
わたしのあの羞恥心は一体、と遠い目をしそうになったものの、はあ、と息を吐くとソファに座り込んだ。
ヒールを脱ぐと、そこら辺にぽいっと放る。高いものなのはわかっている。わかっているけど、疲れた。
化粧は、落とさないと。ドレスの裾を踏まないようにだけ意識を向け、裸足のままドレッサーまで向かう。
ご丁寧にメイク落としが置かれているのは、きっと屋敷しもべ妖精のおかげだろう。
ありがたく使わせていただき、手早く顔の化粧を落とす。ふと、ドレッサーに置かれた口紅が視界に映った。
ひょい、と指先で拾い上げてみた。薔薇の刻印が刻まれているそれは、艶やかな黒檀の色をしている。
中は、薔薇を濃く煮詰めたような深紅。あの女性が着ていたドレスよりも深い色。
自分の姿を見下ろしてみる。真っ白なそれを着ている自分は、あの人にどう写っていたのだろうか。やっぱり、子供のようにしか見えないのか。
間近に迫る、ヴォルデモート卿の顔が思い出される。無意識に指先で唇に触れてみる。指では、あの時の感触とは違っていた。
「卿………」
キス、なんて。
あんなのは少女をあしらうための手段だ、なんてわかってる。だけど、だけど。
「ずるいよ………」
初めてのキスは、アカリの心に大きな爪痕を残した。
その傷は、口紅と同じ色の血液を撒き散らし、熱と共に痛みを持つ。
じくじくと痛むそれは、とても熱くて、苦しくて。
わけのわからない熱と痛みに苛まれる心臓を抑えながら、アカリは立ち上がった。
さっさとシャワーでも浴びて、寝てしまおう。きっと、明日起きたらこの痛みも収まっているはず。
ドレスを脱ぎ捨て、バスルームにこもる。
頭から熱いシャワーを浴びて、髪を乾かすのもほどほどに、アカリはベッドに倒れ込むようにして、眠ってしまった。
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