二世の契り | ナノ


monologue:7



親父の会話からあの人が消えたと気付くのに、そんなに時間はかからなかった。

何でなのか、なんていう理由を親父に聞こうとは思わなかったし、親父もいつもと変わらない。
任務の時は尊敬する上司の顔をするくせに、家ではぐーたら横になるダメ親父。
そう、いつもと変わらない。
母ちゃんだって、俺に言いつけることは変わらないし、ぐーたら寝ている親父の背中を突つくことも変わらない。
いつも通りの日常がそこにはある。

しかし、ただ一つだけ。
ただ一つだけ確実に変わったことがあった。

親父が、蜜柑を食べなくなったのである。

それこそ、理由は分からない。
いつもだったら食後に蜜柑を一つや二つ。今日のは甘いとか甘くないとか言いながら食べるくせに。
母ちゃんも気付いたのか、「食べないの?」と食後の絶好のタイミングで聞いたが、親父は首を縦に振らなかった。

「いや、今は食う気しねーんだわ」

そう言いながら、のそのそと首の裏を掻きながら席を立って居間を出て行ってしまったのである。
もしかしたら、指しかけの将棋の一手でも思いついて、蜜柑を食べるどころではなかったのかもしれない。
それとも、ただ単に食べたくなかっただけか。
どちらにせよそんな些細な変化が、俺の目にはとても異質に映った。
親父の性格を全て把握しているわけではなかったが、あれほど好きだった蜜柑を一日や二日で嫌いになる性格だとは思えなかったし、将棋の一手を指すことに蜜柑を我慢出来ないような余裕の無い人間でもない。
ならばどういうわけか。

俺は籠一杯に積まれた蜜柑を目の前に、ふと唐突にある人の顔が浮かぶことに気付いたのである。
緩く波打つ黒髪がはらりと風に舞う、親父の安否を息も絶え絶えに尋ねてきた一人の姿が。

沙羅さん。

どうしてか浮かんだあの人の姿と、親父が出て行った方向とをぼんやりと見つめる。
何故か将棋の大手を指した時の感覚がふわりと身に宿ったことに、ふるりと背筋が震えた。
親父があんなにも楽しそうに他人について話すところを見たことがなかったからか、沙羅さんは蜜柑が好きらしいという情報を親父が鼻歌混じりに蜜柑を頬張る姿が印象的だったからか。

何にせよ、俺にはどうしても親父が蜜柑を食べなくなったことに、あの人が関わっているような気がしてならなかった。

それでも、やっぱり理由を聞く気にはならなかったし、ましてや蜜柑とあの人が繋がっているのか、なんてことを尋ねる気も無かった。
もしあの人が関わっているとして、俺がとやかく言うことではないと思ったし、親父が蜜柑を食べなくなったことが全ての答えであるような気がしていたからだ。

親父が蜜柑を食べても、食べなくても。
あの人が関わっていても、いなくても。
それこそ誰をどう思っているのかなんて、今の俺が口に出していい言葉では無い。

だから、いつも通りの日常を過ごすのだ。
小さな変化に、そっと目を瞑って。

ほどなくして、俺の家には蜜柑の居場所が無くなっていた。





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