二世の契り | ナノ


酔ったふりして愛しています



このベンチに彼が座るのを見つめるのは、これで二度目だ。
一度目は、私の25歳の誕生日。
あの日の出来事は、後に降った雪のように深々と心に積もったまま、今も溶けずにある。
愛しいと思いながらも、彼を癒すことが自分には出来ないのだと悟ったあの日。
本当はもうずっと前から気付いていたけれど、それでも愛しさや傍にいたいと思う気持ちが、悟った理性を上回って彼をこのベンチに引き止めた。
疲れに酔い、自分の誕生日だからと言い訳ばかりを並べ立てて。
まるで言い訳さえ考えておけば怒られないとでも思っている子供のような思考回路。
誰に怒られるわけでもないはずなのに、私は無意識にそんなことを考えていた。
きっと、ヨシノさんやシカマルくんの姿が一瞬でも彼の背後に見えてしまっていたからなのだろう。
酔った彼を介抱するという大義名分を盾に、ベンチにどさっと腰掛ける姿を見つめていた。
その癖、大義名分とは名ばかりの盾を手にした私は、彼が熱い息を煙のように吐き出すたび、胸の内で燻っていた感情にそっと火が灯るのを自覚していたのである。
頬に出来た古傷に手を添えながら、この得も言われぬ感情が彼の身体の隅々にまで流れ込めばいいのに。
そう思っていた。
愛しさだけではない。
彼の愛するヨシノさんを、大切なシカマルくんを、心のどこかで蔑ろにしようとする醜い嫉妬の心さえ。
彼の身体に流し込んでしまおうと考えたのだ。
そうすれば私は楽になる。
そして彼は、私という人間がどんなものかを知るのだ。
そう思っていた。
磁石のように引き合い、そっと触れた唇に込めたもの。
それはきっと、ゲンマが私に言い聞かせるように何度となく呟いた「やめとけ」という言葉を、言われるよりも前に注ぎ込もうとしていたのだ。

奈良シカクはやめておけ。
諦めろ、と。

自分に言い聞かせるように。
まるで、灯った熱に灰を被せるように。
この口付けが、彼と私を切り離してくれる。
切り離さなくとも、心に根付いた愛情も醜悪さも、全てを呑み込んでもらうことで区切りをつけようとしていたのだ。

しかし、人の心ほど上手くいかないものはない。
いくら言い聞かせたとて、所詮は埋み火。
区切りだなんだと言い繕ったところで、疼いた欲望に灰を被せただけの紛いものにすぎないのだ。
掘り起こして、愛しさに拍車がかかれば途端に炎は勢いを増す。
それも、言い聞かせのように口付けた時よりもずっと強く、ずっと深く。
底知れぬ闇すらも渡り歩いて行けそうな程の感情を齎すのだ。
とてもではないが、一人で制御できる代物ではなかった。
敬愛だと思っていたものが愛情になり、卑しい劣情にすら姿を変えていくのだ。
その証拠に、彼は私のものであり、私も彼のものである。
そんなことを当然のように思考し、会いたい、話したい、触れたい。
気付いて欲しい。行かないで欲しい。
私だけを、見ていて欲しい。
考え出せばきりのない欲望が湯水のように湧き出しては思考を鈍らせていった。
蝕まれるように細胞に乗って身体へと行き渡る感情の多さにオーバーヒートを起こす寸前だった私は、クールダウンと装った飲み会でもういいやとばかりに白旗を上げたのである。
考えることに疲れた私は、だからこそこうしてベンチに腰掛ける彼の二度目の姿を見つめていた。

墨汁を流し込んだ空に金粉を塗したような星がきらきらと輝いている。
二度目の今日は一度目とは違い、二人とも酔っているようでその実しっかりとした足取りだ。
ベンチにどかりと腰を掛けたのは彼の意思で、そこには他意など無いと分かっているはずなのに、心は否応なく浮き足立った。
シュッと音がしたかと思えば、目の前を白い息ならぬ紫煙がゆらりと漂っていく。

「酔いましたね」
「全くだ」

ふーっと美味しそうに煙草をふかす姿を視界の端に、私もあの日から抜け出すように彼の横へと腰を落ち着けていた。
酔ったという宣言にすかさず返してくる辺り、彼は本当の意味で酔ってはいないのだろう。
あの日のようにへべれけになり、意識を保っているのか切り離しているのか分からない状態ではないということだ。
紫煙が彼の呼吸を表すかのように、もわりゆらりと立ち昇る。
その煙を追いながら、もう過去になりつつある彼との出会いを思い出していた。

最初は、替えが利くと言われるような私を好んでチームに入れる変わり者。
そんな認識しかなかった。
ただ、他者から代わりなどいくらでもいると思われている中で、私を使ってくれることには素直に感謝していた。
忍として活きていける場所を、彼はふと与えてくれたのだ。
それが仄かに淡い温かさを心に齎していたことは言うまでもない。
最初はその気持ちを、親愛に似た何かだと思っていた。
しかし、彼のチームで任務をこなす度に、彼の背中が大きく見えるようになり、そこには絶対的な信頼と尊敬の念を込めるようになっていた。
親愛だと思っていた感情が、敬愛のそれに変わったのを心のどこかでは気付いていたのである。
彼にならば命を預けてもいい。そう忍としての私が、まるで主君を決めた家臣のような気持ちを抱いていた。
だが、親愛だと思い敬愛として育てて来た感情が、被っていたベールでも脱いでいくかのようにいつしか変わっていた。
それは、彼が怪我をしたと木ノ葉病院に運ばれたことが契機かもしれない。
私にとって守りたいもの。
恐怖すら凌駕するほどに大切なもの。
それを見つけろと言われているような気がしていた中で、彼が生きていることへの安堵を噛み締めたのだ。
あの時から、敬愛と名付けていた気持ちに徐々に変化の兆しが見え始めていたように思う。
そして極めつけが、見事な放物線を描いて放られた鮮やかな蜜柑に他ならない。
適度な質量で両の手に収まった蜜柑。
受け取ってしまった瞬間から、それは当たり前のように愛情へと姿を変えた。

しかしその感情の変化を認めた私は、思考を占める彼の存在が彼を殺すことになるとは露ほども思ってはいなかったのである。
”二世の契り”を知るまでは。
愛が人を殺す凶器になるとは思ってもいなかったのだ。
背筋が凍り身を震わせた私は、愛情を捨てることを選んだ。
彼を殺したくはなかったからだ。
それでも、捨てよう。捨てたはずだと何度も考える毎に浮かぶ彼のことを、本当の意味で捨てられるはずなどなかったのである。

土砂降りの雨の中で忍の面をしてきたとニヤリと笑み、前髪を彼のふやけた指が掠めた時、とくりとくりと鼓動が速さを増した。
それが後に肥大化する欲望と醜悪の萌芽だったということは、それらが取り返しもつかなくなるほどに大きく成長してしまった後で気付いた。
鼓動が速さを増してからというもの、済し崩しのように成長を遂げていく欲望と醜悪さは、私の想像をはるかに超えていた。
ヨシノさんへの嫉妬が思考を鈍らせ、醜い判断をさせる。
彼だけを追うが故に、彼が誰を一番に想っているのかをこの目で見てしまったのだ。
そして私はそんな彼の一番大切な人を、一番に見捨ててしまった。
人として、忍として。誤ったその判断に、嗚咽することしか出来なかった。
それでも、忍である自分を切り捨てることはしなかったのだから、我ながら随分と図太い神経をしていたのかもしれない。
もっとも、彼が私の嫌いな誕生日ケーキに深々と蝋燭を突き立てたことが決定打であったことは間違いないのだろう。
結果的に制御の出来なくなった愛情は、欲望と醜さを内包して、彼がこのベンチに座った一度目の機会にシャボン玉が弾けるようにして表面化したのだ。
それがあの口付けである。
彼と自分を切り離すためにした行為のはずなのに、結局はずぶずぶと深入りしただけだった。
再び出会うことになった”二世の契り”でも、女が男を殺してしまうラストに違和感を持てなくなっていることに驚愕したほどである。
同時に、抱えきれないほどの感情に目を回し、もう抗うことは出来ないのだと悟った。

ならば。
もういっそのこと告げてしまおう。
それがただひたすらに己のことしか考えていない身勝手な行為だとは知っていても、私にはもうそれしか選択肢が見えていなかった。
私は、楽になりたかったのだ。

「あなたを、愛しています」

ぴくり。
煙草を持つ彼の筋張った指が、僅かに空気を揺らしたのが分かった。
思っていたよりもすんなりと舌を滑り降りていった言葉に何故かと疑問に思ったが、想いを告げると予感していたからかと一人ごちる。
ゆっくりと、彼はまるで水面に波紋を立てぬ風のように私へと視線を寄越した。
ピンと張り詰めた糸電話のように会った視線が、再び私から言葉を引っ張り出していく。

「あなたを、愛しています」

と。
口にした途端、あの心中物語が脳裏を過ぎった。
女は、こんな気持ちで愛していると男に告げていたのだろうか。
そんなことを頭の隅でぼんやりと考える。

「お前……」
「今、酔っているので」

酔っているという口実を盾に、間髪入れず彼の言葉を切り捨てる。
なんと表現したら良いのか分からぬ顔をした彼の口から、何と言葉が飛び出してくるのかと怯んだからだ。
紫煙だけが時の流れを物語るように昇り続けている。
灰が、音もなく地に落ちた。
すると、そんな微かな時の流れに沿うように、彼の眉間に小さな皺が寄る。
その皺の原因が、まさか私の言葉ではなく表情にあったとは露ほども思うまい。

「酔ってる女は、そんな顔して言わねぇよ」
「……」

はぁーっと、一呼吸にしては長い息を吐いた彼は再び糸電話の糸を張るように視線を合わせ、全てを見透かしたように告げたのだ。

「今のお前、俺を殺して自分も死ぬような顔をしてやがる」
「!」

まさか。
彼は知っているというのだろうか。
あの物語を。
愛していると告げた女が、愛する男を手にかける悲恋の物語を。

「まさか、知って……」

言葉に成りきらない言葉は、心中物語の女の仮面を借りた私の化けの皮をそっと剥いでいく。
女のように愛が複雑な感情を創り出し、醜くも美しいまでの狂気に変わろうとしていた。

どくん、どくん、と聞いたことのない心音が鼓膜を揺らす。
いつの日かの黒蛇が、鳩尾で疼きだすのが分かった。

私は、彼を殺したいのだろうか。





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