二世の契り | ナノ


抗うことに



ただただ、疲れていた。

私にとって奈良シカクという存在がどんなものであるかは、ここ最近で嫌と言うほど思い知らされている。
それは厳しくも優しい上司であり、鮮やかで艶やかな蜜柑であり、まるで一つの存在だったのではと思う程の、愛する人だ。
言葉にしてしまえば至極簡単なもので、世間体でよく言われる恋愛のそれに他ならないのだろう。
しかしこの感情が愛だと自覚すればする程、醜くさを増していく自分にも気付いていた。
銀世界の中で目を奪われた”二世の契り”が、その気付きに肉付けをしていくように確信を促す。
自分が、自分のためだけにシカクさんを我がものにしようと手を掛ける可能性があることに。
ヨシノさんやシカマルくんの存在を蔑ろにしてもいいと考えてしまう思考が、頭の隅にあることに。
その可能性が、私の中で確実に育ってきていることに。
嫌悪を通り越した吐き気を催して、盛大に嘔吐いた。


「久しぶりだな」

そんな私の醜さを知らないだろう彼は、雪解けの進む晴天麗らかな青空の下で、私をいつものように班員へと迎え入れた。
雪を溶かすような柔らかな眼差しを見返すことの出来なくなっていた私は、小さく「はい」と答えることしか出来ない。
優しい声が耳朶に響き、心に届く。
愛しいと想えば思うほど、醜さが養分を得たとばかりに芽を伸ばしていった。
醜悪な心が、まるで重しのように胸につかえる。
これが人を好きになるということなのだろうか。
いや、違う。
私の経験してきたものとは似て非なるものだ。
シカクさんへ向けられるこの気持ちは、きっと好きなんて純粋で真っ直ぐな心ではない。
遠い昔に感じたことのある、胸に柔らかな火が灯り、見るものに鮮やかな彩りを与えたりなどしないのだから。

「さて、じゃあ今日も張り切って行きますかぁ」

張り切るなんて言葉とは対照的にゆるりと頭を掻く姿。
昔だったらその姿にらしいな、なんて苦笑を零していただろう。
でも今は、その姿に絶対の信頼と何ものにも代え難い愛しさを覚えている。
けれど同時に、素直にその気持ちを育てられないのも事実。
結局のところ、私は自分の醜さが育ってしまうのが怖いのだ。
成長を遂げた先にある未来を、この目で見てしまったのだから。
私はこれ以上考えることをしないために、その姿をそっと視界から追い出した。

けれど、余所見をする事など出来ない程に完璧を絵に描いたような作戦を遂行するシカクさんは、私の意志などお構いなくこの瞳を、心を占領していったのである。

「お疲れさん」

左肩に置かれた手へちらりと視線をやる。
置かれた右腕の筋立った手から這うように腕へ。そして肩から瞳へ。
かち合った双眸に、シカクさんの瞳がこんなにも深い色を帯びていたことを改めて知る。
その瞳が、今私だけを見つめて目尻に小さな皺を作っていた。

「助かったぜ」

とくん、と鳴るはずの心臓。
そう。この感情が好きという気持ちならば、きっと小躍りしたくなるほどに舞い上がってしまうのだろう。
しかし、私にそのとくん、という高鳴りはやって来なかった。
代わりにこの胸を突いたのは、まるで蝶が羽をもがれまいと苦痛に顔を歪めるような胸の痛みだった。
目尻がじわりと熱くなる。

そうか、私は彼の力になっているのか。

優しく、優しく。
まるで水面を流れる灯籠の灯りのように感情が身体を巡っていく。
その優しさが身体を、心をゆっくりと蝕んでいった。
これ以上は駄目だと、何度、何回思ってきたことだろう。
そう想えば思うほど私の心の奥底。魂に触れてきた。
何があったわけでもない彼との関係。
それでも、手を添え口付けたあの瞬間は、私は彼の一部だったし、彼もまた私の一部だった。
もしかしたら、私は今でも心のどこかでまだ私は彼のものであり、彼は私のものだと思っているのかもしれない。
好きなんて言葉には当て嵌められない、醜悪な心を持った私ならば。

「この後、付き合ってもらえませんか」

初めて誘う飲みへも、きっと彼をヨシノさんの元へ帰したくない心が言わせた言葉なのだろう。
私はそんなことを、屈託無く笑って了承する彼を見つめて思ったのである。


居酒屋は独特な空気で外界との関わりを絶つ。
煙草の香りもお酒の匂いも料理の香ばしさも、全てが外の世界との関わりを絶つための壁だ。
そんな中だからこそ、感情がゆるゆると紐解かれていく。
きっと彼が隣でそっと杯を傾けているのも要因の一つに違いない。

ただただ、疲れていた。
抗うことに。

身体も、心も。
度数の高いお酒が喉を焼くように胃に落ちていく。
煙草の香りが肺を満たす。
何気ない会話に潜む低めの声音が、耳朶から脳を犯す。
私の全てが、奈良シカクになっていく。

私は貴方のもので、貴方もきっと私のもの。

御猪口の水面に映る、やたら目が据わった自分の顔を飲み干した。
良い飲みっぷりだとカラカラ笑う彼を横目に、私は次に口を開ければ、この想いを滂沱たる涙の如く告げてしまうのだろうことを予感した。

愛しさも、醜さも、何もかも。
考えることに疲れていた。





next