二世の契り | ナノ


悲恋に満ちた、男と女



その雪は、例年に無いほどの積雪を木ノ葉に齎した。

触れた唇の感触。
愛する人に口付けたならば、それは至上の幸福を齎すのだと思っていた。
しかし現実は想像よりとても穏やかで、深々と降り積もる雪に似ていた。
剥けそうな唇の皮はどちらのものか。
この生々しく吸い付いた皮肉の感触を、シカクさんも感じていたのだろうか。
そんなことを冷静に思考する。
こうした瞬間、私はいつも自分という人間は物事をどこか遠く客観的に見る癖があるのだと改めて気付かされる。
口付けた時も、そうだった。
自分から吸い寄せられるように近付いたのに、唇を合わせたのは自分ではないかのように落ち着き払っていた。
もしかしたら、それはシカクさんに必要な人は自分ではないと悟っていたからか。
それとも、胸の内に宿る熱に灰を被せて無きものにしようとしていたからだろうか。
どちらにせよ、あの誕生日の夜に起こった出来事は私の記憶にしか残らない。
酔っていたシカクさんには、欠片とて残るはずはないのだ。
それよりも、ゲンマの「やめとけ」と低く闇の中から呟かれた言葉の方が私を動揺させるのに十分な力を秘めていた。
台所に無いはずの蜜柑の幻影が思考を掠める。
張り付く氷のような床をぺたぺたと裸足で踏み出せば、ふるりと背中が震えた。

やっぱりわかってねーよ

ゲンマの口から飛び出す本当の私。
冷静で客観的に物事を考える癖すらも凌駕していく心が流した涙。
分かっているはずと言い聞かせようとして、何度も過る背中に蜜柑の幻影を見ていた。
吐く息の白さに思考が鈍っていきそうな気がする。
消えそうもない幻影を振り払う術を知らない私は、いっそのこと凍って何も考えられなくなってしまえばいい。
そんな自虐的思考を持ち出して、一面の銀世界へと足を踏み出したのである。


『さぁさぁ、ようこそお立会い』

朗々と雲のような息を立ち昇らせ物語る一人の傀儡師。
あれは。
そう思うよりも早く、足はまるで傀儡の糸に絡められたかのように動きを止めていた。
木ノ葉は暁の襲来を経て、未だ復興に勤しんでいる。
加えて前日から降り積もる雪で辺り一面眩しい程の銀世界。
そんな中で、傀儡師はいつかの日と同じ場所で、同じように一人傀儡劇を演じていた。
軽妙な語り口で始まる物語。
こんな雪の中で見世物に足を止める客は少ない。
人混みの中から見つめていたこの前とは違う視界の広さ。
傀儡師の蜘蛛のように動く指先と、まるで生きているかのような瞳をする傀儡。
その圧倒的な存在感に、まるで世界から切り離されたかのように目の前の物語しか目に入らなくなる。
それは、どこか幻術に似ていた。

『この物語は、そう。こんな真白の雪が降り積もる季節のことでございました』

恭しく口上を述べた傀儡師に導かれ、物語はまるで流れ行く川の如く足を進めていく。

『あの男と付き合うのはやめておけ』

女の幼馴染がそう告げる。
傀儡師の苦々しい台詞が、あの日のゲンマに重なった。
そうだ。家族のいる男を好いて何になる。
冷静な、いつもの私が理性を持って心の中で呟いた。
しかし、女は止まらない。

『嫌よ。私はあの人が好きなの』
『あの男には妻と子がいる!そんな奴を好いていたって仕方がないだろう!』

「……」

この劇は、一体何なのだろう。
観始めて暫く、そんなことが脳裏を過ぎった。
あまりに自分とシンクロしている部分の多さに寒気立つ。
まるで傀儡師に心を掻き分け覗き見られていたかのようだ。
目の前で創り出される世界に、ずぶずぶと足から飲まれていく気がした。

『でもあの人は私を好きだと言ってくれたわ』
『そんなのちょっと女から気があるように気持ちをぶつけられたら、男は口八丁何でも言えるんだよ』
『あの人はそんな人じゃない!』

そう。
シカクさんはそんな人じゃない。
人の気持ちを無下に扱うことなどしない人だ。
女の叫びがあたかも己のもののような錯覚に陥る。
男を愛してやまない女は、盲目なまでに男に擦り寄っていく。
懇願に似た眼差しは、こちらまで飲み込むほどの意志を秘めていた。

『一緒に逃げてくださいますか』

女が添えるようにして男に囁く。
男は視線をちらりと流すが、一つ頷くと女の手を取って走り出した。
風を切り山を切り。澄み切った夜空に三日月が静かに、されど神々しく在った。
凪いだ風に女は胸を上下させる。
愛という乗り物に乗って転がるようにやって来た二人は、馬酔木の咲き誇る峠に辿り着いていた。
愛。
その二文字が男と女の目を曇らせているのだ。
盲目的なまでに。
あたかもそれがただ一つの真実であり、道であるかのように。

それならば、私は?
シカクさんへの愛。
その盲目的なまでの乗り物に乗って、目が曇っていないと言えるのだろうか。

そう思った瞬間、男は握り締めていた手をゆっくりと離していったのだ。
女がまるで半身でももがれたかのような顔をして、手と男を見つめ返す。
男はぽつりぽつりと、妻と子に申し訳ないと語り出した。

『あなたは、私を好いてはくれないの?』
『好きだよ』
『ならどうして』

女が男の両腕に手を掛け、縋るようにして訴える。
その情熱を通り越した盲愛を宿らせた瞳の力から、男はそっと目を閉じることで逃れた。
静かに、静かに。
馬酔木の葉音に紛れ込ませるようにして、男の口が女との別れを切り出す。

『俺はもう三人分の人生を背負ってる。君を愛していることに変わりはない。でも、君の手を取れば妻と子を見捨てることになる。きっと君の親父や幼馴染に捕まって殺されるだろう。俺は、そんな身勝手なことは、やっぱり出来ない』

苦渋に歪むその顔は、女を愛していると訴えるには十分だった。
しかし、男は妻と子も愛していた。
男にとって、妻と子の人生を切り捨て女の人生を背負う選択肢は存在しなかったのだ。

『すまない』

そう呟かれた女の両手は、まるで糸でも切れたかのように重力に従った。
月と女を背に、男は来た道を引き返そうと踵を返す。

月が、女の取り出した懐刀を妖しく照らし出した。

傀儡師の、相も変わらぬ愛に歪む口元が視界の端で微かに吊り上がる。
妖しく、悲しく、月の光を受けた刀は音もなく男の背から心臓を一突き貫いた。
それはあまりにも自然に。
倒れ行く男が馬酔木に埋もれるようにして頽れていく。

『あなたを、愛しているの』

切なく嘆いた女は手にした刀を両の手で握り締め精一杯振り上げる。
月に捧げるようなシルエットは、一種の神々しささえ感じられた。
刀が再び妖しげに月の光を纏う。
まるで更なる血を求めるようにして、ぐさり。
女の胸を貫いた刀は音もなく地に落ちた。
風にそよぐ馬酔木が男と女の血を浴びてゆらゆらと揺れている。

月が、馬酔木が、男と女の最期を看ていた。

『かくして、現世で悲恋に満ちた最期を遂げた男と女ではございますが、はてさて来世では契りを結べたのでございましょうか』

傀儡師の軽妙な語り口にはっと意識が引き戻される。

『それは皆様のご想像にお任せいたしましょう。これにて、”二世の契り”終幕でございます』

寒空の下で足を止めた観客が、パラパラと粒の揃わない拍手を送る。
その一つ一つに、傀儡師の老人は帽子を片手に大袈裟なほど恭しく頭を垂れた。

ぞくぞくと寒気が腰から這い上がり、ふるりと肌が粟立つ。
敵を短刀で一突きした後のような苦く鈍い感覚が蘇るのを唇の端を噛んで受け流しながら、しかしこの感覚の正体はそれだけだろうかと自問する。
傀儡師の帽子から覗くニヒルな笑みがドクンと心の臓を打った。

これ以上はいけない。
何度も、何度もそう思ってきた。
私はシカクさんを殺したいわけではない。

なのに。

それなのに。

妖しい月明かりを受けた刀を手に男の胸を貫いた女の気持ちが、以前よりも理解出来てしまう自分がいる。
凡そ他人には理解されないだろう奇行に、納得して首を縦に振りそうな自分がいた。

気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。

ざくざくと真白の雪を踏み締めて歩く。
物語が、私には遠いものである証明を欲するように、傀儡師から足を遠ざける。
その感覚は、シカクさんのヨシノさんへの気持ちを亡きものにしようとする醜さにも思えた。


吐き気がする。





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