二世の契り | ナノ


捨てたはずの蜜柑



流れの早い雲を見上げて雨が降るだろうことを悟る。

「降るな」

と呟いたシカクさんを横目に「そうですね」と返し、クナイや手裏剣、起爆札に兵糧丸と荷物を手早くチェックしていく。
天気が荒れるだろう任務にと据えられた感知タイプの私は、資料に印字された奈良シカクの文字を目にして小さく息を吐いた。

蜜柑はもうゴミ箱の中だ。
大丈夫。
この手で、私はちゃんと蜜柑を捨てたのだ。

何度もゴミ箱の中を見て、ドンと鈍い音を立てた蜜柑が奥底に落ちて影を作るのを確認している。
その証拠に、こうして任務で顔を合わせても普段通りに接することが出来ていた。
シカクさんがいるからと浮かれることのない思考に心から安堵する。

「シカクさん、来ました」

仲間の到着を知らせに名を呼んでも、心は平静なまま。
奈良上忍と無意識に引いた線も、今はもう用無しである。
蜜柑は、きちんとゴミ箱に捨てたのだ。

彼がぐるりと集まった私たちを見回し、しゅるりと巻物を解いていった。
少し乾燥したシカクさんの人差し指が、左から右へと巻物の上を滑っていく。
経路は、関所は、合流地点は。
その全てをとんとんと指で突いていった。
当たり前のように最善の策を講じると、いつものように気怠げに立ち上がる。

「それじゃあ、仕事といきますかぁ」

そう呟いて。


それでも時が変われば品が変わるように、最善の策も次から次へと変わっていった。
現れた敵の数が思ったよりも多い。それだけで優先順位が変わり、撃破順序からフォーメーションとあらゆるものが変化していった。
加えて頬をばしゃばしゃと打ち付ける案の定の雨に、感知感度を上げるため後方へと退がる私を前線は守りながら進んでいく。
何故なら敵との交戦、並びに捜索する場合には敵の位置をいち早く感知し把握することがとても重要視されているからだ。

「沙羅、少し退がれ」
「はい」

しかし、その戦略を熟知しているのは敵とて同じこと。
シカクさんの合図で後退した瞬間の私に、何処からともなく鋭い針の雨が降り注いだ。

「!」

敵は感知タイプである私を潰そうと考えたらしい。

シュッとクナイで切り付けられたような痛みが足や腕を襲う。
反応の遅れた片足は水を含んだ枝の上をずりっと踏み外した。
激しさを増す雨音のせいか、私が攻撃を受けた事に気付く者はいない。
薄暗い森林の地に落ちていく感覚は、まるで谷底にでも突き落とされる恐怖に似ていた。
木ノ葉のベストが遠くなっていく。
シカクさんの背中が雨に霞んでぼやけていく。
スローモーションのように伸びた手が、離れ行くその背を掴むことはなかった。
雨が瞳に入り眼球から神経を刺激していく。
いけない。このまま落ちては。
そう思いはすれど、姿なき針に仕込まれていたのだろう麻酔薬のような何かで、びりびりと神経が犯され体が固まっていく。

薄れゆく意識の中で、ただただシカクさんの作戦に大きな痛手を負わせてしまうだろうことを、申し訳なく思った。



「お願い……助けて」

よく知った声に覚醒を促される。
あのままどうなったのだろうかと考えるまでもなく、薄眼を開けた私は己の身に起きていることを悟った。
拘束具を嵌められ猿轡を咬まされた状態のまま敵であろう忍に捕らえられている。
やはりこうなったか、と心のどこかで察していたせいか妙に思考は冷静なままだった。

「お願い……」

だからだろうか。
私の覚醒を促した声が、私と全く同じものであることに瞳を見開いた。
まさか。

「その巻物、渡してもらおうか。勿論、素直に渡してくれればこいつも返してやるよ」

木陰から見下ろした数メートル先にいる、私と全く同じ姿形をした敵だろう忍と、それを捕らえるフリをしたもう一人。
そして対面するように敵との距離を取るシカクさんたち。
敵は私を捕らえ成りすまし、人質と巻物を交換しようという腹積りらしい。
そして、あわよくば巻物を手に入れた瞬間私に成りすました仲間と共にシカクさんたちを一網打尽にしようというのだ。

「お願い、助けて」

私の姿形だけをなぞった敵がか細く何度もそう繰り返す。
演技とはいえ恐怖に涙する自分と瓜二つの姿に、まるで以前の私のようだと思った。
以前の私ならば、確かに恐怖に助けを求めようとしていたかもしれない。
殺られることの恐怖に、助けを口に出していたかもしれない。
けれど、今は。
今は、何故かとても冷静に状況を俯瞰して見ることが出来ていた。
もしかしたら、忍が必ず立ち向かうことになる恐怖から解放してくれたシカクさんの言葉が頭を過っていたからかもしれない。

守りたいものがあったら、お前は怖さなんて忘れるだろうよ。

その一言を。
拘束され麻痺した体で、私はじっと戦況を見つめ続けていた。
きっと、今シカクさんの頭の中では何百通りもの戦術が読み解かれていることだろう。
その中には、私の姿形を成したものが敵だという予想も、どこかではしているはずだ。
小さく口角を上げたシカクさんの横顔が、私にそう確信させる。

巻物が無造作に放り投げられ、相手に届くことなく地に落ちた瞬間。
この戦況の雌雄は決していた。
私の姿形を成した敵を躊躇なく切り捨てるシカクさんの眼光に、ぞくりと瞼が震える。
その屍を足元に呟かれた言葉は、雨音に掻き消されることなく私の元へと届いた。

「あいつは、 もう助けてなんて言わねぇよ」

気付けば仲間に助け出され、なんとか立ち上がれるまでに回復した足を引き摺ってシカクさんの前に立っていた。

「無事だったか」

そうことも無げに言う姿は、まるで当然だと言われているようだった。

「すみませんでした」

まだぴりぴりと神経に残る痺れに煩わしさを感じながら頭を下げる。
ぼたぼたと水滴が雨に紛れて落ちていった。
「大したことねーよ」と言いつつ火も点かない煙草を咥え始めた姿に、やはり無駄な労力を使わせてしまったと申し訳なく思う。
それでも、シカクさんならばこの結果すらも予想の範囲内であるような気がしてならなかった。
敵が私に変化していることも、途中から見抜いていたのだろう。
そう思った時、ふとどうしてそう考えたのだろうかと疑問に思った。
シカクさんが変化を私ではないと見抜いた理由を、知りたくなっている自分がいたのだ。

「どうして、私が助けてと言わないって言い切れたんですか」

互いに濡れ鼠よろしくぐしょぐしょのままシカクさんを見上げる。

「さぁな」

いつの日か聞いた、もうこの先の答えをくれはしないだろう返答が返ってくる。
いつもならば仕方がないと諦めるところだが、今日に限っては退くことを躊躇した。

「はぐらかさないでください」

何故かという理由を言葉にすることは難しかったが、どうしてもこの答えだけは聞かなくてはいけないような気がしたのだ。
聞けば、何か大切なものを手に入れられる。
そんな予感がしていた。
それでも、面倒くさそうに首筋を掻いて雨雲を見上げたシカクさんは「当分止みそうにねぇな」と呟いたのである。

あぁ、本当にこれはもう答えてくれないなと思った私は、同調するように鉛の空を見上げ「そうですね」と、任務前にしたやり取りを繰り返した。
今度こそ諦めに瞳を閉じる。
やはり答えを簡単にくれる人じゃない。
そうごちて雨宿りの提案でも口にしようとした時、私の耳に予想外の言葉が飛び込んで来たのである。
シカクさんが「強いて言うなら……」と視線を泳がせた後、私の瞳を真っ直ぐに見つめたのだ。
その瞳の濃さに、麻痺の残る身体が別の神経でも這わせたように熱を持ち始めた。
瞳を反らせなくなった視界の端に伸びて来た手が、そのまま私の雨に張り付いた前髪を分けていく。
シカクさんの指先がしわしわにふやけていた。
雨音が絶え間なく聴覚に触れていくなかで、言葉は、やはり私の元へと届いた。


「忍の面、してたからだな」

そう咥え煙草でにやりと笑う、シカクさんの笑みと共に。

私の脳裏には、灰の空に映える鮮やかなオレンジ色が蘇っていた。
捨てたはずの、蜜柑が。

シカクさんがとんと肩を叩いていく。
背中越しに、雨宿りでもするかと呟く気怠げな声がした。
とくりとくりと確かに鼓動が速さを増し、瞑った目蓋の裏に捨てたはずの蜜柑が焼き付いていた。

私の心に、
もう蜜柑は棲みついていたのだ。





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