二世の契り | ナノ


愛は人を殺すのか



この感情を表すならば、それは蜜柑だ。

放物線を描いて鮮やかなオレンジの果実が飛んできたあの日から、私の中を気持ちの悪い感情が渦巻いている。
背中をざわざわとした幕が張る、嫌な予感が増していた。
ヨシノさんの語る知らないシカクさんの姿に胸を疼かせたと思えば、放られた蜜柑に心を解かれていく。
振り子のように右へ左へと揺れ動く感情の機微を懐かしく思いながらも、昔のように純粋な心で物事を見られなくなっている自分に気付いた。
持ち帰った蜜柑が机の上で置物と化しているのがその証拠だ。
申し分ない艶と鮮やかさを見せつけてくる蜜柑が視界を掠める度に、心には知らないシカクさんを語るヨシノさんへの複雑な気持ちと、この感情に蜜柑という形を与えたシカクさんへの暖かな気持ちがぐちゃぐちゃと綯い交ぜになり胸に押し寄せてくる。
だからこそ、無意識に引いた線などものともしない蜜柑が放られたところで、おいそれと口にできようはずはなかった。


『果てさて、二人の運命や如何に』

その日、数缶のビールと水数本という生活臭の全くない冷蔵庫を開けて溜息を吐いた私は、何か食べる物をと買い物に出ている途中だった。
ポケットに入れた手が温さを覚えはじめた頃、朗々と鼓膜を震わせる一つの掛け声に足を止めたのである。
老若男女の人集りが寒空の下小さな広場に出来ていた。
何事かと掛け声に誘われるようにして人集りに足を向ける。
覗き込むと一人の老人が指先を蜘蛛の足のように動かし、数体の人形をまるで生きている人間の如く操っていた。
これが近頃噂の傀儡師の人形劇であろうか。
忍の間でも噂になる程のそれは、余りにもリアルな人形の動きが相まってのことらしい。
少しの気晴らしに観てみようと思った私は、ついと人集りに紛れるようにして空いていたスペースへと入り込んだ。

物語は既に中盤へと差し掛かっているらしい。

『あの男と付き合うのは止めておけ』
『嫌よ。私はあの人が好きなの』

一人の老人がやっているとは思えない声色の変化にびくりと度肝を抜かれる。
傀儡師を戦場や任務でしか見たことがなかった私にとって、傀儡を芸術へと昇華させることが出来るものなのかと驚き感嘆の声を漏らした。

しかし、内容がどうなのだろうか。
そう思った理由の一つとして、物語と客層がズレている気がしてならなかった。

『でもあの人は私を好きだと言ってくれたわ』

老人が艶やか女の愛の嘆きを叫ぶ。
結末を知ったら面白くないからと同僚からは物語を断片的に掻い摘んだ話しか聞かなかったが、どうやらこの物語は悲恋ものであるらしい。
だからこそ、客層に違和感があった。
若い子供から傀儡師と同じような年齢の老人。そして私のような忍や主婦。
何故こんなにも寒空の下人集りが出来るのかと思いはしたが、それがなんとなく傀儡師の手腕一つによるものなのかと思えば、合点がいく気がした。
とかくこの傀儡師に操られた人形たちは、まるで生気を漲らせた人そのものなのだ。
故に人目を惹くほど、魅力に溢れている。

『一緒に逃げてくださいますか』

女が縋るようにして男に囁く。
男は視線をちらりと流すが、一つ頷くと女の手を取って走り出した。

物語は結末へと向かって転げ落ちるように速度を上げていく。
風がまるで演出されたかの如く男と女の行く手を阻むように吹きつけていった。
傀儡師の微かな手先の動きが物語を左右する一挙手一投足であるが故に、私は勿論観客も息を飲んでいる。

互いを愛し合った男と女。
しかし男には家族がいた。
その家族を捨て女の手を取った男だが、駆け落ち寸前のところで女からそっと手を離すのだ。

男と女の間に漂う確かな緊張感に、喉の奥で何かが痞えた気がした。
飲み込むのを躊躇してしまいそうなその質量に浅い息を繰り返すことで嚥下を試みる。
凪いだ風が男と女を運んだのは、国境に広がる馬酔木の咲き誇る峠だった。
喉に痞えた何かを思考の隅で予感していた私は、いつの間にか溜まった唾をごくりと飲み込んでいた。
その音が耳元でどくりどくりと鳴る心音を掻き消していく。

この物語の結末は。

そう思った瞬間、一陣の風が埃を巻き上げ吹き抜けていった。
隣の男性がうわっと声を上げ、前列の子供達が腰を浮かす。
人集りが風に視界を奪われる中で、私は傀儡師の口元が愛に歪むのを瞬き一つせず見つめ続けていた。

女が懐から取り出した刀が鋭く光り、男の胸を一突き貫いていく。

『あなたを、愛しているの』

傀儡師の口から漏れる女の切ない愛の囁きに、歯がかたかたと震え出した。
幕が張る背中をざわざわとした感覚が、愛の狂気を纏った女の刀に貫かれ破られていく。

乾いた瞳が一瞬きした時には、男の血を浴びた刀が尚も赤を欲するように女の胸をも貫いていた。

『かくして、現世で悲恋に満ちた最期を遂げた男と女ではございますが……

傀儡師が私を引き止めた時と同じ口調で語り始める物語の終焉。
しかし私はそれを最後まで見ることなく人集りを押し退けて集団を抜けた。
かたかたと震え出した歯が時々唇を噛んでいく。
滲んだ血に男の胸を一突きした女の、愛に歪んだ表情が蘇った。
買い物に出た足は目的を達することなく、帰路への道を引き返す。

早く帰らなくては。
早く帰って、あの蜜柑を捨てなくては。

この感情が蜜柑の形を成してしまったのならば、早く。

早く捨てなくては。


私は、シカクさんを殺したいわけじゃない。

その思いだけが、この時の私の足を動かしていた。





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