二世の契り | ナノ


知らない彼と飛ぶ蜜柑



しかして、そういう予感がする時に限って神は試練をお与えになるらしい。

暗号解読が済んだと連絡を受けた私は数日ぶりに暗号解読班の元を訪れていた。
陽気なチーフが分厚い紙の束を取り出して解説を始める。
毎回こんな大量の暗号を捌いているのかと頭の下がる思いがした。
ふむふむと暗号解読の見解を拝聴し、担当の者へ引き継ぐ準備をする。
受け取った紙の束を封筒へ入れ、重要と赤印を捺した。
これを担当上忍へと渡すことが今日の第一任務である。
念入りにチェックを入れた私は、既に別の暗号解読の波に揉まれるチーフの背に「ありがとうございました」と呟いて踵を返した。

「あ、ちょっと待って!」

しかし出て行こうとした私の元へ、揉まれたはずのチーフが数枚の紙を持ってこちらに駆け寄って来たのである。
取り零しでもあったのだろうか。
そう懸念した私の表情を読み取ったのか、チーフは苦笑混じりに君のものじゃないんだけどね、とこめかみをぽりぽりと掻いた。

「これなんだけど。ついでにシカクさんに渡してくれるかい?」

全く予想外のところから飛び込んできた言葉に、チーフの柔かな顔と差し出された数枚の紙を交互に見やる。

「今朝方解読が終わってね。シカクさんの読みは当たってたよ」

あの人も頭がキレる、と言葉を零すと「それじゃあ宜しく頼むよ」と疲れた顔一つ見せない爽やかさで私に資料を押し付けて行ってしまった。
「はぁ」と分かったんだか分からなかったんだか、それこそ分からない生返事をした私は手元に残された資料を見てそわそわし出す心を静めようと鼻で溜息をついたのである。

担当上忍、奈良シカク

その文字がこんなにも視界に焼き付いて離れない日が来ようとは思ってもいなかった。
第一任務であった資料を担当上忍へと渡すことに成功した私は、預かった資料を渡すべく彼の姿を探していた。
しかし待機所にも任務受付にも、彼が足を向けそうな場所を一通りさらったが姿を見つけることは出来なかった。
どうしようかと思案した挙句、ふといつの日か辿り着いた奈良家のそばを通りかかっていることに気付いた私は足を運んでみることにしたのである。
奈良家の門。
その家紋が見上げ来るものを威圧しているように感じたのは、そこに奈良一族という伝統が積み重なっているからか。
それとも、むずむずと湧き上がる感情が予感した、気付いてはいけない彼への気持ちが門から向こうへは入るなと言っているからか。
どちらにせよ、その存在感に圧倒されごくりと唾を飲んだ。
手にした紙に視線をやり、自分がこの場所へ何をしに来たのかを頭に叩き込む。
そうしなければ、彼の気配漂うこの場所では湧き上がる感情に確かな名が付いてしまうと確信していたからだ。
それでも足元と門を交互に見やり踏み込むことを躊躇する。
しかし、一陣の風がそんな私の姿を嘲笑うかのように風鳴りを起こし、とんと背中を押していった。

気付いた時には、既に奈良家の、彼の気配漂うテリトリーの中にいたのである。
胸を時化りはじめた海のような騒めきが過ぎった。


「ごめんなさいね。あの人、直ぐ帰って来ると思うから上がって」

そう言って私を和やかに迎えてくれたのは、彼の奥様であるヨシノさんだった。
初めて見るその人に快活なイメージを抱いたまま家の中へと通される。
まるで異次元にでも放り出されてしまったような感覚に陥ったのは、そこに彼が住んでいるという認識で見ていたからだろうか。
失礼ながらに視線をあちらこちらへとやる私に、ヨシノさんは「散らかっていてごめんなさいね」とよく使われる常套句を告げた。
慌てて「忍としての癖ですみません」と言い逃れを繰り出す。
リビングへ通されると、重厚な木目の机に鮮やかな蜜柑が籠一杯に入っているのが目についた。
そういえば入院していた病室にもあったなと思い出し、彼は蜜柑が好きなのだろうかと思った。
座っててねと言われるがまま妙な位置に腰を落ち着けたのは、正直どこに座ったら良いかが分からなかったからだ。
まだ真新しいのか、畳のイグサの香りがツンと鼻をつく。
凸凹とした畳を足の甲でさわさわと感じ、くるりと辺りを見渡した。
掛け軸や生花。将棋盤に蜜柑。
あれは誰のものだろうか、彼が使っているのだろうかと忍の癖と名付けた視線を不躾にも巡らせていく。
そしてふと、カチャリと音の鳴る方へと視線をやればヨシノさんの後ろ姿が目に入った。
彼が毎日この風景を愛おしく眺めているのだろうかと想像することは容易であり、自分の生活には無いものだと悟るのは早かった。

ざらり。

同時に、胸を砂でも擦り付けられたような心地がしてハッとする。
何を考えているのかと溜息を溢せば、ヨシノさんが湯気の立つお茶を運んで来ていた。

「ごめんね。あの人ちょっとそこまでって言っても帰って来るの遅くて」
「いいえ」

静かに首を振りお茶に口を付けている間、ヨシノさんは私の知る慧眼の士としての彼のイメージからは想像出来ない姿を、まるで茶飲み友達に語るように聞かせてくれた。

休みになればぐーたら寝てるし、
蜜柑だって好きなのは結構だけど、
剥いた皮はそのままなのよ

と。
その何気ない愚痴のような言葉は、私の心をチクリと疼かせた。
その原因に気付いているからか、何を烏滸がましいことを考えているのだと、己に言い聞かせる。
それでも、「あの人はまったく」と怒りながら暖かな表情をするヨシノさんを目に、心はどうにも落ち着かなくなってしまっていた。
それは彼が帰って来るまで続き、やっとのことで彼が姿を現した頃には、出会えた喜びよりも早く用を済ませてこの場から去りたい気持ちで一杯になっていた。
まるで合わない水の中に放り込まれた金魚のように居心地が悪かったのである。

「珍しいな、来てたのか」

なんて言葉を貰った時には、腰を上げ既に帰る体を装っていた。

「そうよ、あなたの帰りが遅いからずっと待っててくれたんだから」
「悪い」

苦笑交じりに頭を掻く彼を容赦なく責めるヨシノさん。
その光景に、居心地の悪さが拍車を掛けていく。
すりずりと畳を足先でなぞり、二人の会話が途切れるタイミングを見計らって二、三チーフからの言伝と預かった紙を手渡した。
一切の無駄口を叩かない私に「お、おう」と勢いのまま資料を受け取る彼。
愛想の良い言葉の一つでも言えればよかったが、鎖骨を漂うもやもやとした感覚にそんな余裕がなくなっていた私は、ありきたりなお礼の言葉を述べて奈良家を後にしていた。
門が見えてくると、この家に足を踏み入れる前の自分の姿が過ぎる。
あの瞬間に戻れるのなら、今度こそ入るなと自身に言い聞かせたい。
そうすれば、こんな気持ちを抱かずに済んだだろうから。
何一つ悪くない門を責任転嫁のように恨めしく見上げる。
門をくぐる足取りがいやに重くなっていることには気付いていた。
もうこの場所へは来ないようにしよう。
こんな気持ちが芽生えていくのなら。
そう思い止めていた感情を全て吐き出すように盛大な溜息をついた。
新しい空気を吸い込み気持ちのリセットをはかった私は、次の任務を請け負うべく任務受付所までの道を歩き出す。
はずだった。

「待てよ」

しかしそんなリセットも容易く水泡に帰す。
彼が去ろうとする私の背を呼び止めたからだ。
言葉の魔力に抗うことの出来ないまま、ゆっくりと振り返る。

ふわり。

ぽす。

「!」

視界を鮮やかなオレンジが放物線を描いたかと思えば、条件反射のようにそれに手を伸ばしていた。
気付けば一個の蜜柑がすっぽりと両の手に収まっている。
何事かと蜜柑を放った彼を見やれば、一言「土産だ」と呟いた。
その唐突さにくすりと微笑む。

「近所のおばちゃんみたいですね」

そう言えば、「うっせ」と彼は肩を竦めた。
手にした蜜柑の鮮やかに目眩がしそうである。
もやもやとしていた気持ちが、げんきんなことにあっという間に霧消していくのが分かった。
門を出た、私の存在出来る空間。
そこで彼がくれた蜜柑は、今まで見たどの蜜柑よりも鮮やかで艶やかなものだった。
蜜柑が、気付いてしまった感情の形を成している。

「私、蜜柑好きです」

告げれば、彼はふっと鼻で笑った。

よく知るカオだ。

そのことに安堵した私は、一度首を垂れ今度こそ彼の元を去るべく一歩を踏み出したのである。
この足を止める者は、もういなかった。





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