二世の契り | ナノ


無意識に引いた線



むずむずと淡く湧き上がってくるこの感情には覚えがある。
久しく感じていなかった所為かすっぽりと頭からも身体からも抜け落ちていた。


「どうしたのよ?」

横からいつの日かの誕生日のようにアンコが小突いてくる。
グラスがカチャカチャとリズム無く重なり合う音や、仲間が各々の会話を楽しむ雑多な声。
店主の癖のある濁声に、鳥を焼いた煙と煙草の紫煙が混ざり合う煙たい空間に飲み会に参加していたことを思い出す。

「なんでも」

と手にしていた御猪口からお酒をちびりと含んだ。
喉に渡る微かな刺激がぼーっと考えていた思考をぷつりと寸断してくれる気がする。

「そういえばさ」

アンコが迷い箸をした挙句に砂肝を口へと運びコリコリと咀嚼した。

「シカクさん退院したんだってね」
「……」

ぴくりと指先が反応を示す。
シカクという名前が出て来ただけで、何故か酔いが背中まで回るような気がして落ち着かなくなった。

「うん。なんか軽い怪我だったらしくて奈良上忍も笑ってたよ」

何でもないことを装おうと手にした杯をくるりと回し、新たに出てきたホッケの塩焼きに感嘆の声を漏らした。

「あんた」
「?」

しかしアンコはそんな風に装った皮を、こともな気に剥いていったのである。
まるで酒の肴に当てがわれた枝豆を剥くように。
私ですら気が付いていなかったことを、クナイで獲物を一突きするような鋭さで暴いていったのだ。

「”奈良上忍”なんて呼んでたっけ?」
「え、」

まさに、晴天の霹靂だった。
私は自分がシカクさんのことを”奈良上忍”と呼称していることに気が付いていなかったのだ。
いったい、いつから。
いつから私はシカクさんの呼称を変えていたのだろう。

そして、何故わざわざ変えるなんてことをしていたのだろうか。

その答えに、心の何処かでは気付いていた。
気付かざるを得なかった。
あの日、病院に駆け込んだのも、涙を流したのも、その涙の意味も。
もしかしたら、もっと前から。
シカクさんが私を他の忍と同様に扱ってくれていたあの時から。
忍の世界に恐怖し生き辛さを感じて救いを求めた私に、何も言わずともすとんと言葉をくれたあの時から。
全てが私の中でゆっくりと細胞に沁み渡るようにして消化されていたのだ。
目尻に寄った皺が濃さを増し「ありがとな」と頭を撫でられた時、首筋がぞわりと快感に騒いだ。
この予感めいたものがはっきりと言葉の形を成そうとしている。
そのことに気付いたのだ。

だから私は、”奈良上忍”と呼称を変え無意識に線を引いていた。

自分でも気付かぬ間に。

盛大に溢した溜息に、アンコがすかさず食い付く。
悩みか?悩みなのか?と粘着質な瞳を見て、もう落ちてるなと悟った。
周囲に適当に抜けることを宣言して、残りの酒を煽り飲み潰れたアンコを連れ去る。
しんと静まりかえる闇夜の外気にふるりと肩を震わせ、よいしょと荷物よろしいアンコを抱え直した。

はーっと口からは飲み会の熱気が吐き出されていく。

気付いてしまった嫌な予感だけが息の白さに紛れ空へと昇っていった。
まるで、シカクさんの吐き出す紫煙のように。





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