二世の契り | ナノ


違和感



大した怪我でもないくせに病院で数日寝泊りした身体はすっかり鈍っていた。
こりゃ万全を取り戻すのに時間がかかるなと溜息を吐くが、この歳になれば仕方がないと納得せざるを得ない。
落ちた分を取り戻すには若い頃の倍はやり込まなくてはいけないのだ。
しかし無理をすれば体調を崩す。
厄介な歳になったもんだと頭を抱えるが、頭のキレが鈍っていないことは唯一の救いだった。
そんな俺でも専門的なことになれば根を上げることもしばしば。
そんなしばしばに当たった俺は、任務の合間を縫って暗号解読班の元を訪れていた。
建てつけの悪そうな扉を開けて中に入れば、暗号解読には欠かせないチーフが何やら女性と顔を突き合わせて話し込んでいた。
波打つ黒髪の後ろ姿に、俺は「あ」と阿呆のような声を漏らす。
気配に気付いたのか、二人はこちらを振り返った。

「シカクさんでしたか!」

陽気なチーフは「どうしましたか」と俺の持つ書類に目をやり、話し込んでいた相手に暫く時間を下さいと告げていた。
告げられたのは、やはりこの前病室でぽろぽろと涙を零した沙羅である。
ちらりと此方へ視線を寄越したが、小さく首を垂れると踵を返して建てつけの悪そうな扉へと足を進めてしまった。

「おい」

俺はその背に、何とも不恰好な声を掛けたのである。


「退院、おめでとうございます」

そんな大層な言葉と共に目の前で深々と腰が折られた。
一つに括られた髪がさらりと右へ垂れ流れていく。
暗号解読を手配する間、こいつは呼び止められるがままに俺を待ち、今殺風景な廊下を並び歩いていた。
頭一つ分低い姿をちらりと横目に入れる。
ふと病室で涙を零した姿が過ぎった俺は、呼び止めた手前何から話すべきかと思案していた。
あれから大丈夫だったのか。
兎とは何だったのか。
しかしいざ口を開こうとすると、何故か躊躇う自分がいた。
女の涙はデリケートである。
そこに踏み込むことがはたして現状必要なことであるかは正直よく分からなかった。
ただ、俺が案外夕日に包まれた部屋でこいつがぽろぽろと流した涙を気に掛けているということだけは分かった。
こいつは感情的に泣くタイプじゃないと思っていたからだ。
以前ゲンマに忍に向いてないと言われ平手を食らった時ですら瞳を滲ませたりはしなかったから。
だからこいつがへたり込んで両の目から涙を流した時、どうしようかと思ったことは確かだった。
沈黙が流れ互いの歩調が微妙にズレたまま廊下を進んでいく。
次の会話を何から切り出そうかと思考しているうちに、こいつが俺を呼び止めてあの大層な快気祝いの言葉と共に腰を折ったのだ。

「ありがとな。つっても大した怪我じゃなかったけどよ」

しっかりと折られた腰に黒髪の頭頂部が差し出されるようにして覗いた。
探さなくても見つかった旋毛にこいつは左巻きか、とどうでもいい感想が浮かぶ。
見舞いや快気祝いの言葉を貰った感謝を伝えるべく、差し出されるようにして目の前にある旋毛に向けて手を伸ばした。
柔らかそうな毛質の頭を撫でつけるという安直な行動で、その感謝を伝えることにしたのだ。
想像以上にすっぽりと掌に収まった頭に、小せえなと思ったことは内緒である。
頭を撫でる俺と、撫でられるこいつ。
はたから見たら妙な光景であることは間違いない。
それを想像してしまいくつくつと忍び笑った。
しかし、いつもならそんな小さな反応に疑問符を浮かべてこちらを伺うこいつが、何故かぴくりとも反応を示さないのだ。
その不自然さに気付き手を頭に置いたまま、俺は顔を覗き見た。
どうした、と。
俺が想像していたのは、また「思考が彼方に飛んでいて」とか、そういうらしいものを想像していたのだ。
けれど覗き見た先のこいつの顔は、想像していたものとはまるで違っていた。
目をまん丸に見開き、まるで出会ったこともないものに出会したような表情をしていたのだ。
しまいには俺と目が合うと右左にと視線が彷徨い、ぴくりと肩が強張る始末。
今までにない反応に、何故か触れてはいけないものに触れたような気がしてそっと手を離した。
すると、その微かな重みから解放されでもしたようにこいつはハッと息を詰め瞬きを数度して、再度俺と視線を合わせたのだ。
今度こそどこか調子でも悪いのかと口を開こうとした瞬間、お淑やかだった黒髪がばさりと大波のようにこちらを打ち付けてきたのである。
世に言う勢い余ったお辞儀というやつだ。
急な展開に身体を後ろへと引く。
適度に出来た空間に、結構な近さでこいつを見ていたのだと気付いた。

「それでは、奈良上忍。お先に失礼致します」

適度に出来た空間にやっとこさ発せられた言葉。
折り目正しく別れの挨拶を告げるこいつにずるりと肩が落ちた。
出口は直ぐそこだろうとか、散々待っていてお先に失礼する用でもあるのかとか、そんな突っ込みが湧いては喉元で消えていく。
そして奇妙だったのは、俺を”奈良上忍”と今まで呼んだことのない呼称で呼んだことだった。
改まった場所でも何でもないタイミングでそう呼ばれたことに、こいつは本格的にどうしたのかと違和感を感じたのである。
結局、突っ込みに違和感にと、感じることは多々あれど何一つ言葉に出来なかった俺は、再び波打つ黒髪が足早に揺れていく背を見送ることしか出来なかった。

「俺、何かしたか?」

とぼやいてみても返してくれる相手など無し。
ぽりぽりと頭を掻いて、黒髪が揺れた軌跡を追う様にゆらりと歩き出したのである。





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