二世の契り | ナノ


あの時の涙



紅に染まる病室でぽろぽろと零した涙。
視界が歪んでいく中で病室のスリッパと煙草の葉の香り、背を摩る無骨な掌から伝わる温もりが一層涙腺を緩めていった。
あの時の涙は、いったい。

頬を撫でる風が、もう乾いて消えたあの日の涙の跡を追う。
冷たくなった指先を添えれば、頬の温かさに安堵した。

そう。
私は安堵したのだ。
シカクさんが生きていたことに。

あの時。
ぽろぽろも溢れてきたそれを拭いながら、何故涙したのだろうか、と心の隅では冷静に自分を観察するもう一人の私がいた。

私は、シカクさんが生きていたことに安堵して涙を流したのだ。
あれは安堵の涙。
しかし、それだけだろうか。

動揺して駆け抜けた木ノ葉は日差しに包まれ、変わらぬ時間の流れを生きていた。
そこに乗っかる私も、日常を生きている。
子供が駆け抜ける足音も、露店の景気の良い掛け声も、いつもの木ノ葉が変わらずそこにあった。
ただ一つだけ、足を止めた香りと視界に入れた風景はどこか日常から切り取られて見えたのだ。
それはきっと、あの時の涙を探していたからかもしれない。
安堵から頬を伝った涙に、それ以上の意味があると心のどこかでは気付いていたからかもしれない。

シカクさんの吸う煙草とは違う、もっと身体の芯に染み付くような香りが鼻を掠めた。
足を止めた先がお墓の近くであったことから御線香の香りだと気付いた私は、ふと香りを辿るようにしてお墓の方へと顔を向ける。
一人の女性が眩しいほどの白百合の花束を手に墓標の前で膝をついていた。
頬には白百合が朝梅雨を受けたような涙が一筋伝っている。

あの日の私が流した涙に似て、非なるもの。
その涙を見た瞬間、私を冷静に観察していたもう一人の私が一人ごちた。

あの日の涙は亡くなった人を想うそれではない。
しかし、大切な人を想うそれだったのかもしれないと。

ごくりと鳴った喉の音が妙に大きく聞こえた。





next