二世の契り | ナノ


ですよね、



大人の楽しみ。
それはお酒を美味しく飲めることだ。
ちびりちびりと杯を空け、気付けばほろりと酔っている。
理想的な大人の楽しみ方。
しかしそれは、心に余裕のある本当の大人だけが出来る楽しみだ。
例えば、シカクさんのような人がこれに該当するのだろう。
私のような小娘にはまだまだ早い。
それでも世の中は、そんな小娘にもお酒を飲む権利を与えて下さった。
私は今、その権利を大いに活用している。

「姉ちゃん、いい加減にしときな」

いつからこの席を陣取っていたかなんて、とうの昔に記憶の彼方に消え去っている。
あの任務から帰って来てからというもの、恐怖が一歩ずつ此方へ歩み寄って来ているような気がして仕方がなかった。
恐怖から逃れるようにお酒へと手を伸ばしたなんて忍が聞いて呆れる。
それでもお酒しか頼る相手がいなかった。
忍であるにも関わらず人を殺めることに恐怖し、殺らなければ殺られてしまうということを失念していたなんて誰に告げることができよう。
ふと浮かんだシカクさんにさえ、そんなことは口が裂けても言えない。
お酒しか私の恐怖を取り除いてくれるものは無いと悟るのに、時間は掛からなかった。
馴染みになりつつあった居酒屋で泥酔しかける女など、きっと迷惑この上ないのだろう。
また新しいお店を探さなくては。なんてことを頭の隅で考えるか考えないかしないうちに、私はまた新たなお酒へと手を伸ばしていた。

「姉ちゃん、それは止めときなって」

店でも一、二を争う強い酒。それをへろへろとした手で取ろうとする私の鼓膜に、店主の驚きと迷惑そうな声が届く。
しかしそれも、靄がかかって上手く聞き取れなくなってきていた。

「だーい、じょぅぶです」

呂律が怪しいまま、芯の通っていない手をお酒へと伸ばす。
あとちょっと。
すると、そのあとちょっと五センチというところで、目的のお酒が忽然と目の前から消えたのである。
代わりに出てきたのは、私を幾度となく現実へと直視させた人物だった。

「大丈夫っていうのはこんな所で酔ってる女が使う台詞じゃねぇんだよ」
「ゲンマ……」

片腕を枕に突っ伏していた私は声のした方へと首を捻る。
うつらうつらとした意識にも、千本が店内の照明を受けて光るのが分かった。
ゲンマは私の横へ言葉なく座ると、取り上げた酒を店主からもらったお猪口に注いでクイッと呷った。
何も話し出さない空気にそれもそうかと悟る。
ゲンマは私のことをあまり良く思ってはいないのだろうから。
横で女が一人騒ごうが寝ようが、きっと知らぬ存ぜぬを決め込むのだろう。
そう思った私は一つ小さく唸り、取り上げられてしまったお酒を諦め、手元に残っていた分を渋々お猪口に注いだ。
水面張力の力を借り損ねたお酒が滴る様を目に、同じように喉元をせり上がる言葉があることを感じる。
お酒の力を借りて逃れることにした、恐怖だ。
それが今更のように吐き出してもらおうと喉元を行ったり来たりしている。
この恐怖をシカクさんを含め誰にも告げられないと思っていたはずなのに、酩酊する思考は横で無言を貫くゲンマになら言ってもいいのではないかと囁いてくる。
きっと、私たちの間に流れる特殊な空気がそうさせるのだろう。

お前は忍に向いていないと真っ向から告げてきた唯一の存在。

普通ならば怒りの一つも湧こうものだが、私は一切そんなことを思わなかった。
寧ろゲンマを信頼出来る人間として見るきっかけになったのだ。
ゲンマの口からは、本当の私が飛び出してくる。
嘘偽りのない本当の私が。
そういう意味では、ゲンマの存在は貴重であり信頼もしていた。
だからなのだろう。
きっと恐怖を口に出したところで、空気のように受け流してくれると、そう思ったのだ。
そして必要とあらば、切り捨ててくれると。

「わかったの」

何が、なんて問いが返ってくることはないと分かっていた手前、お猪口を爪弾きながら言葉を続ける。
ゲンマは相変わらず私から奪ったお酒をちびりちびりと嗜んでいた。

「わたしが、向いてない理由」

不思議なもので、恐怖を流し込もうとお酒を呷り酔い潰れようとしていた思考は、恐怖を吐き出す方向へとシフトした瞬間海の波が引いていく様にクリアになりだしたのである。

「殺されるのも、殺すのも。この世界じゃ当たり前のことだった」

腕を机に投げ出し、突っ伏したまま発するくぐもった声がゲンマに届いているかは分からない。
それでも、私は聞いてもらうよりも自分が話す方を優先していた。
私にとってはゲンマが聞いていても聞いていなくても、どちらでも構わなかったのだ。

「怖かったし、今でも、怖い」

思い出される恐怖に力の入らない拳を握る。
いつかあの白兎のような運命を辿るのではないか。
黒蛇が化けた何者かに殺されるのではないか。
恐怖に、首筋が冷えた。
微かに引っかかる爪だけが私の恐怖を体現している。
どうにもこうにも拭い去れない恐ろしさに、そろりとゲンマを見やった。
相変わらず聞いているのかいないのか分からない横顔が杯を傾けている。
答えなど返ってくるはずはないと思い、再び机に伏せようとした時。
その声はぽつりと宙に放たれていた。

「今更言ってんじゃねーよ」

それは紛れもなく私に向けられた言葉である。
あまりにもゲンマらしい答えに、らしいな、なんて感想がぼんやりと浮かんだ。
怖いなんて、今更言うな。
忍は皆、この恐怖を背負っているのだ。
そう言われている気がした。

「ですよね、」

また一つゲンマの口から飛び出す甘く弱い自分の姿。
納得した私は、肺一杯に居酒屋の煙たい空気を吸い込む。
身体中に蔓延った恐怖を、少しでも吐き出そうと盛大な溜息をついた。
くらりと目眩がして、酔いの波が再び思考の砂浜に押し寄せて来る。
もう駄目だ、と思った時には視界は暗転。思考は深い闇へと落ちていた。

今更、私は何を言っているのだろうか。





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