×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -


 ナカロマ 86

温泉なんて単語を知っているだけで、経験するのは初めてだった。


通常浴びるお湯といえば人工的に当番制で沸かすものだけだ。
これほどの水量で湯につかるというのはとても贅沢な気がした。


温かいお湯の中でゆったりと時間を過ごすのは、かなり落ち着く。


じんわりと体の芯まで温まる感覚に酔いしれる。


お湯に長時間使っていてはすぐに茹だってしまいそうだったので、水面から少しだけ体を出して肩や腕にお湯を掛けるようにして外気と水温の違いを心行くまで堪能していた。


少しだけ火照った体に、髪から滴る冷えた雫が首から胸や背中に落ちてそれさえも心地良い。


いつのまにか月が雲の合間から顔を出しても、もう誰かに見られるかも、なんていう心配はとっくに無くなっていた。



静かな空間に、淡いオレンジの光。
周りを包む深い紺色さえ意図的に誰かが決め込んだ彩色のようだった。

それほどまでに儚くて、息を飲むほど美しくて。


こんな所があったなんて。


心が洗われるような場景。
そんなもの本当にあるのかなと思っていたけど、この景色にはまさにその言葉がふさわしいのかもしれない。

手ですくい上げるお湯は透明なはずなのに、それさえも月の灯りで輝いて見える。


それはきらきらと自分の手の中で煌めく。
ここの湧き水はなんだか特別なものに見えた。


綺麗な水に浸かることで、身体だけじゃなくて中身も洗われたらいいな、と思う。

嫌な自分を、全部洗い解かせたら。


なんだか、リヴァイに関することになると自分がどんどん嫌な子になっていく気がしていた。

会えるだけで幸せなはずなのに、恥ずかしくなってその時の感情だけでそんな大切なことを忘れてしまったり。
前はリヴァイが優しくしてくれるだけで嬉しかったのに、今はそれをどこまでも独り占めしたいと思ってしまったり。
人類最強と彼を呼ぶ人たちは、一体彼のなにを知っているんだろうと無意味にもやもやしたり…。
仕事だと分かってるのに、ペトラさんとはなんでもないって彼の口から聞けて嬉しかったはずなのに、いちいち嫉妬してしまうのも。
リヴァイの気持ちなんて確かめずにすぐ抱き着きたいと思ってしまうのも。

彼に素直な気持ちを言えない私も…全部、全部。


そこまで考えてあまりにも情けない自分に自己嫌悪し、ばしゃりと一度頭まで水に潜る。


しばらくそうしてから顔を上げると、静かな水面に色を無くした輪がどんどんと広がっていくのが見えた。
大きな波紋が水に映った月を歪ませる。


綺麗で美しかったものが、一瞬で醜く歪んでいく。


それは人の気持ちも、この世界も同じ気がした。


綺麗なのに、怖かったり。
美しいのに残酷で。
希望だったものが、絶望に変わって。
ものすごく好きだから、不安になって。
愛しているから、憎くなる。

人が死んで、また生まれて。
美しくて、醜い。

一枚の薄い壁を隔てているだけで、どんなことにも両極端のものがきっと共存しているのかもしれない。

彼は、人類の希望と言われていると聞いた。
人類にとって絶望というのはきっと滅亡なんだろう。


じゃあ、リヴァイ本人にとっての希望と絶望って…?


彼の瞳の色は希望に満ち溢れているわけではない。
きっとそれは、私が想像できないほどの絶望や地獄を何度も見てきたのだと思う。

絶望から希望を取り戻す為の彼が傷ついていいわけがない。
どんなに強くたってリヴァイも人間なんだから、全部一人で背負っていいはずがない。

心も体も彼には一つしかない。

…そのどちらも、私の手に入らないものだとしても…。


ぱしゃん、ともう一度全身に水をかける。


傷ついてほしく、ない。



歪んだ月は、ゆらゆらとその形を戻していった。



  


Main>>home