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いたる

山口くんは私の恋人だったけれど、ある春の、星が綺麗な夜に消えてしまった。
でも別れ話をした覚えはないし、今も恋人なのかもしれない。
山口くんが消えた途端、彼にまつわる記憶は山口くんと共に全て消えた。
私を除く全ての人間から。
とは言っても、山口くんは大学に私以外の知り合いはほとんどいなかったし、アルバイトやボランティアもしていなかったから、元々あまり多くの人の記憶には残っていなかったと思うけど。
ただ、あの日山口くんが私の目の前から消えていなくなった時。
二人でくるまっていたはずの毛布がぬくもりさえ消して、私一人だけを包んでいたことを不思議がる人が誰もいなかったことはありがたかった。
そのおかげで、私は星を見ながら泣いていた変な人になった。
結局流星は一度も見られなかったけど。
そんなわけで、今となっては私に山口くんを好きかどうか聞く人はいなくなってしまったけれど、私だけが山口くんを好きだという事実を知っていればいいのだから、関係ない。



山口くんが服を着替えているところを見たことはなかったけど、毎日違う服を着ていたことは覚えている。
でも、服装がこの1年間一度もかぶっていなかったから、お得意の視覚干渉で「そういう風」に見せていただけなんろう。
だから、私の部屋に山口くんの服は残っていなかった。
山口くんはご飯も食べないから、食器も残っていない。
歯も磨かないし、お風呂にも入らないから、日用品はなにも残っていない。
山口くんは、ただ私に微妙な笑顔を向けて、いつも楽しそうに話しかけるだけだった。
会話が形に残るものなら、部屋を埋め尽くすくらい、思い出が溢れているのにな。
山口くんと、お遊びみたいなキスをすることももう二度とないのだと思うと、耐え難いつらさがこみ上げてきた。
私はそういう時、どんな状況であっても外に出て、空を見上げることにしていた。
山口くんは、今もどこかに存在している。
世界でただ一人だけ、私だけが、山口くんが存在していた事実を知っている。
山口くんさえ忘れている思い出を私だけが。

なぜ、山口くんは私と出会ったのだろう。
山口くんは、自分が数年のうちに消えて、またすぐ生まれ変わることを知っていたはずだ。
どうせいなくなってしまうのなら、なぜ私の前に現れたのだろう。
彼が何かをやりとげたいと言っていた「何か」は、私の知る限り結局成し遂げていないと思う。
人生に意味を求めてしまうのが人間だというけど、もしも宇宙人もそうなのだとしたら、山口くんは人間よりずっと短い人生のうちにそれを見つけないといけないのかな。
それを何度も何度も繰り返すのかな。
それなら、「山口くん」としての人生では、どんな意味を見つけたんだろう。
私の知らないところで、見つけていたんだろうか。

形見のように持ち続けようと思っていた山口くんの歯は、山口くんが消えた翌日、屋上で空に向かって投げた。
すぐに落ちてきたけど。

そんな様々を忘れてしまうくらい、それから何度目かの夏が来た。



汗がとめどなく流れて、水筒の水はもはや空っぽだった。
早く水分を補給しないと、干からびてしまいそうだ。
今日が最高何度になるのかは、怖くてたしかめなかった。
蝉の鳴き声がそこらじゅうから聞こえて、道に迷ったような気分になるが、行き先は決まっている。
8月も後半だというのに、暑さは引かず、むしろ日に日に増しているとさえ思う。
目的地に着く前に、ひとまずどこかで水分補給をしようと決めた。
コンビニでも自販機でも、なんでもいい。
水分がないと死んでしまう。

水のペットボトルだけを買ってその場でほとんどを飲み干した私を、コンビニの店員さんはだいぶ心配そうな目で見ていた。
汗だくでゼェハァ言っている私はたしかに異様に見えたかもしれない。
だけど、こんな暑さじゃそんな人他にもいるだろうに。
涼しいコンビニを出てまた歩き出すと、目の前には傾斜の急な坂があった。
この暑さにこの体力じゃ、きついかもしれないけど上るしかない。
一歩一歩、ゆっくりと坂を上った。

ようやく上りきると、上る途中で私を抜かして行った若いカップルの姿はずっと先になっていた。
なんだか懐かしく感じたのは、若いカップルを見れば誰だって懐かしい頃を思い出すからだろう。
ふと、息子が生きていれば今はあのくらいの年齢だろうかと考えた。
生まれた時から体の弱かった息子は、成人になれずに静かに息を引きとった。
突然の死ではなくて、出産時から長くは生きられないと分かっていた。
私は、男の子を腕の中で見送るのが初めてではなかったような気がして。
長いこと落ち込んでいたけど、嫌に冷静だったことを覚えている。
人は、長くても短くてもいつかどこかへ行ってしまうと、昔学んだような記憶がある。
もうあまり、覚えていないけれど。

夫と別れてからはずっと連絡をとっていなかった。
息子を失ってからの私の冷静さを随分と指摘された。
なぜ、そんなに落ち着いていられるのかと。
私だってわからない。
ただ、慣れているような気がした。
なぜあまりうまく思い出せないのかわからないけど、そう感じた。

坂を上りきった先は少しだけ風が吹いて、流れる汗をじとりと引きのばす役目しかはたさない。
生ぬるくのんびりとした風がただよう。
もう少し歩けば、たどり着くだろう。
一度「山口」でなくなった私は苗字が変わったと同時に過去のこともするすると忘れていってしまった気がする。
歳をとるにつれて昔の記憶は薄れていくというから、別に珍しくもないことかもしれない。
夫も子どももなくして、仕事も終わり、日々やることも特になく過ごしている私が、生きている意味って。

よくやくたどり着いた墓石を前にして、献花も線香も買っていないことに気がついた。
持っているのは小さなバッグと、中身が残りわずかなペットボトルだけ。
ひねもす日に当たって蜃気楼さえ見えそうな墓石があまりに暑そうで、思わずペットボトルの水をトポトポとかけた。
ジューっと水が蒸発する音が聞こえそうだ。

「歳をとったねえ、私たち。」

正確に言えば私だけ。
私だけが、いつも置いていかれる立場だ。
私だけが、いつも歳をとる。

別れた夫の訃報が私のもとへ届いたのは、ひと月ほど前のことだった。
お互いに連絡はまったくとらず、すっかり赤の他人に戻っていたから突然の知らせには驚いた。
それから、夫が普通に歳をとって普通に病気をして、普通に私より先に死んでいったことが悔しかった。
時の流れが目に見えて感じて、悲しかった。

けれど元夫の死に心の整理をつけるのはひと月で足りてしまった。
そして夏。
この茹だるような暑さの中、一人きりでお墓参りに来たというわけだ。
ただ、およそ墓参りに必要なものを何もかも持ってきていなかったから、軽く手を合わせて立ち去るだけという、なんとも軽々しいものになってしまった。
ここへ来るまでの時間からは想像もつかないほどの短さで目的地をあとにして、帰りの坂道を歩く。
途中、寿命で地面に転がっているセミを拾い上げて木に戻してやる作業をいくつかこなして、坂を降りきった。
麓にあったコンビニに再び入ってペットボトルを捨てる。
涼しい店内を一周して、何も買わずに出た。
いまだに照りつける太陽をひと睨みする。

「僕は山口さんのそういう、命に平等なところを素敵だなあと思ったんだよ。」

どこからともなく声が聞こえた。
空から?

振り向いても誰もいない。
誰の声?

「言ったじゃない。僕は何度だって、山口さんの前にワープするって。」

目の前に、男の子がいた。
まるで最初からそこにいたみたいに、違和感なく。

「や、山口くん。」

すっかり忘れて、思い出すこともなかった彼の名前がすんなり出てきた。
どうして、山口くんがこんなところに。

「何度も何度も生まれ変わっていたら、60年もかかっちゃったよ。」

あっけらかんとして言う山口くんは60年前とまったく変わっていない。
というか、見た目は相手の精神に干渉して見せているものだったと思うから、昔のままで当たり前か。

「山口くん、60年前と全然変わってないね。」

それでも年老いた私の脳は勝手にそう口を動かす。
山口くんはにこりと笑って返した。

「山口さんこそ、60年前となんにも変わってないよ。」

ああ、なんて人なんだろう。
私は見た目は当たり前だけど、心の中だって全部変わってしまった。
私はもう「山口」の苗字を一度捨てたし、息子も夫も死んでしまって、一人きりのつまらない未亡人だ。
あの頃山口くんとはしゃいだ四季の中に戻ることはできない。

「山口さんは変わらないよ。さっき言ったでしょ。僕は山口さんの、命に平等なところが好きなんだ。」

もしかして、ひっくり返ったセミを戻していたのを見られていたのだろうか。
息子が死んだ時、つとめて冷静だったこと。
夫の墓の前で、コンビニで買った水をかけただけだということ。
私が取り乱して、忘れたくないけど苦しみたくなくて、思い出すことをやめたのは山口くんだけだということ。

「僕は知ってるんだ。山口さんのことならなんでもね。」

嫌になるほど暑い今日、へっちゃらそうに私に手を差し出す山口くんは、やっぱり宇宙人だ。

「また僕と、恋人、しようよ。」

宇宙デートはできないけど、地球でいくらでもしよう。

そう言って私の手を取ると、涼しげな顔で山口くんは歩き出した。

「山口くん、ありがとう。私はたぶんもう何年かしたら死んじゃうけど、また私の恋人になってくれるの?」

「もちろん。僕だって、また数年したらどこかへいなくなる。そうしたら今度は実体化なんてしないで、ずうっと山口さんと空をただようことにするよ。」

あの柔らかい微笑みをいつものように浮かべた山口くんは、まるでプロポーズみたいな言葉をくれる。
私は、暑さも、この60年間も、なにもかも脳内から投げ出して、山口くんと空をただよって、宇宙でデートする姿を想像した。

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