花は手折らぬ | ナノ

05共振


[2007年9月 夏油の離反判明後の夜(五条17歳、名前10歳)]

 

 術師だけの世界を作ると語った夏油は、不条理に仲間が死んでいくことに耐えられなくなったのだろう。正気を保ったまま呪術師を続けて行くには、きっと夏油は真面目で優しすぎたのだ。
 直接会って夏油の言葉を聞き、離反するに至った理由を推し量ることはできた。だが五条には、夏油が出した答えが正しいとはどうしても思えなかった。夏油が大義ですらあると言った非術師を殺すことに意味を見出すことは、五条にはできない。

 自身の倫理観に多少問題があるのは自覚していたし、実際、弱い奴等に気を遣うのは疲れると五条は感じていた。そんな五条に“弱者生存”があるべき社会の姿だと説いたのは夏油だった。昔から正論が嫌いだったが、その正論を吐く夏油を五条は一番信頼していた。夏油の言うことに従っていれば、自分が呪術師として間違った選択をすることはないとさえ思っていた。きっと、夏油とは呪詛師としてずっと共に道を歩んでいくことになるだろう。そう信じて疑っていなかった。

 術師は非術師のためにあるとまで言っていた夏油が、非術師を殺して術師だけの世界を作るという答えを出すまでにどのぐらい思い悩んだのか、五条にはわからない。夏油の心の内で何が起きていたのか想像することさえ、五条にはなかったのだ。日々の任務を一人でこなすようになってからというもの、以前より夏油と関わることが減っていた。もっと一緒にいたなら。最近痩せたように見えた夏油の話を少しでも聞いていたならば。今と違う結末があったのだろうか。今更考えても仕方のないことだというのは五条もわかっている。全てがもう遅すぎるのだ。それでも五条は、嫌いなはずのもしもの仮定を考えられずにはいられなかった。
 親友の五条にさえ相談の一つも無かったくらいだ。夏油の変化に気付いたものは誰もいない。おそらく夏油は、非術師のために命を懸けて戦う仲間には自らの本音を悟られまいとしていたのだろう。傑なら考えそうなことだと、何も話さなかった夏油の気持ちを五条は一応理解できた。夏油は救いを求めてはいなかったのかもしれない。しかし、たった一人の親友が悩んでいたのに何も出来なかった自分自身のことを思うと、五条はただやるせなくなった。

 そうして自室のベッドに横たわりながら夏油について考えていると、どこまでも深く暗い水底に沈んでいくような気がした。しかし五条の意識は、ドア一枚隔てた向こうから聞こえてきた名前の高い声で今に引き戻された。

「──悟くん、起きてる?
 今だいじょうぶ?」
「……名前?
 起きてるよ。なに、怖い夢でも見た?」
「どうしても、悟くんに会って確認したいことがあって」
「いーよ。入ってきな」

 今はもう日付が変わっている。いつもであれば、名前はとっくに寝ている時間だ。当然、名前がこんな時間に五条の部屋を訪ねてくるのも初めてのことであった。一体どうしたのかと少々不思議に思いながら、五条は名前の問いに答えた。
 五条が自室への入室を許可すると、ドアが控えめに開いた。部屋の電気は消していたが、五条の横たわるベッドに名前が近付いてきたのがわかった。暗いままなのもどうかと思い、五条は起き上がって電気をつける。明るくなった部屋で改めて名前を見て、五条は目を丸くした。

「悟くん……っ、どうしたの?」
「それはこっちのセリフだよ。
 どしたの。そんな泣いて」
「……悲しくて、どうしたらいいかわからないんだもん」

 名前の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。頬は既に、十分すぎるほど涙で濡れている。それでもなお、名前の大きな目から溢れる大粒の涙はとどまることを知らず、涙は次から次へと名前の頬を伝っては落ちていた。
 名前の様子を見て、コイツも先生から傑のこと知らされたのか、と五条は思った。「とりあえず座れば?」五条が促すと、名前は五条のベッドにちょこんと腰掛ける。五条から「ん」と手渡されたティッシュを受け取り、名前は涙を拭いてはいる。しかし名前の涙はいつまでたっても止まる気配がなかった。
 夏油は随分と名前のことを可愛がっていたし、いつも名前に優しい夏油のことを名前も慕っていた。だが名前は呪いが見えるとはいえ、術師ではない。非術師だという理由で、夏油は自身の親でさえ殺害したのだ。その機会さえあれば、名前であっても夏油は躊躇なく手にかけるだろう。まだ子供の名前に夜蛾がどう説明したのかはわからないが、名前も夏油には二度と会えないということだけは理解したのだろう。話を聞いた名前が泣きじゃくるのも無理はない。

「──オマエも先生から聞いたの?」
「聞いたって、なにを……?」
「は?
 もしかしてなんも聞いてねぇの?」

 しかし、五条の問いかけに名前は首を傾けるばかりだった。
 この様子を見ると、名前は夏油のことは本当に何も知らされてはいないようだ。五条は訳が分からなくなった。今のタイミングで名前が泣くのであれば、原因は夏油のこと以外に考えられないからだ。名前は感性が豊かであったが、滅多なことでは泣かない子供だった。それこそ名前は、五条にいくら冷たくあしらわれても笑顔を崩さなかったくらいなのだから。五条が名前が泣くところを初めて見たのも、そう遠くない記憶だった。灰原が死んだとわかった時だ。だから目の前の少女がこんなにも悲しんでいる理由が、夏油の離反でないとしたら一体どこにあるというのか、五条にはわからなかった。

「待って。
 じゃぁ、なんでオマエはそんなボロボロ泣いてんだよ。
 なんの理由も無しにそんな泣く訳ないよね?」
「だって、悟くんが泣いてるんだもん」
「──はぁ?
 よく見てみろよ。どこをどう見たら俺が泣いてるように見えんの。
 ボロ泣きのオマエと一緒にしないでくれる」

 五条には名前の言うことがやはりわからなかった。名前とは違って五条は一滴の涙も流してはいないのだ。しかし五条が名前の言うことを否定しても、名前にしては珍しく強い口調で、改めてはっきりと名前は五条に告げた。

「泣いてるよ。
 今まで、悟くんがこんなに悲しんでるところなんて見たこと無かったよ。でも、今は絶対泣いてるもん。
 悟くんが悲しいと、私も悲しい」
「……変な奴だね。オマエは」

 にわかには信じられないことではあるが、五条が悲しんでいるように思ったというただそれだけの理由で、名前は泣いているらしかった。そんなバカなことがあるかよと五条は呆れてしまった。だが、五条は名前のことを鬱陶しいとは感じていなかった。むしろ名前の純粋さに触れることで、先程まで冷えきっていた五条の心には温もりがもたらされていた。

「傑はもう高専に戻ってこない」

 名前に夏油のことを言うつもりなんてなかった。なのに、五条は気付けばそう口にしていた。

「え?
 傑くん、雄くんみたいに……、死んじゃったの?」
「生きてるよ、傑は。
 だけどアイツはもう、オマエが知ってる傑じゃねぇの。
 次会った時、傑は俺の敵になる」
「……いやだ、そんなの」
「──うん」
「やだ。絶対にいやだよ」

 名前は五条から夏油のことを聞くと、余計激しく泣いた。泣きながら、名前が嫌だと繰り返し呟くのを五条は静かに聞いていた。

「悟くんがダメじゃないなら、今日はここで一緒に寝ていい……?
 だって、一人はさみしいよ」

 五条の服の裾を力なく掴みながら、泣き濡れた目で五条を見つめながら名前は言った。さすがの五条も、泣いている子供を冷たく突き放すことはできなかった。

「……勝手にすれば?
 こんなに泣きゃ疲れただろ。
 もう寝ていーよ。電気消すね」
「悟くん」
「なに?」
「手、握ってもいい?」
「……いいよ。はい」
「ありがとう、悟くん」

 寮に備え付けられているベッドは決して大きくはない。そのベッドで五条に寄り添うようにして名前は寝ていた。五条も横になり再び目を閉じてはみたものの、やはり眠りにつくことはできなかった。だから五条は暗闇の中で、自分の横で泣き疲れて眠る名前の寝顔を静かに見ていた。名前と繋がれた左手だけが温かかった。
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