花は手折らぬ | ナノ

02暗示


[2005年11月某日夕刻 高専内 学生寮(五条15歳/名前8歳)]



「おかえりなさい! 悟くん、傑くん」
「ただいま、名前。
 いい子にして待っていたかい?」
「うん!
 歌姫ちゃんにお歌教えてもらってたの」
「それは楽しかっただろうね。
 後で歌って聞かせてくれるかな?」
「歌姫ちゃんみたいにうまく歌えないけどいー?」
「いいさ。
 私も名前の歌を聞きたいな」

 五条と夏油が任務を終え寮に戻ると、寮一階の共用スペースで歌姫と遊んでいた名前が二人の帰還にいち早く気付いた。名前は二人のもとへ駆けていき、満面の笑顔で二人を出迎える。
 夏油は名前と目線を合わせるためにわざわざしゃがんでから、名前の頭を撫でた。だが五条は、名前の出迎えにろくに反応していなかった。したことと言えば、ハイハイとでもいう風にひら、と力なく手を振ったくらいだ。その行動でさえ、夏油が「こんなに悟を慕っているのに、悟の態度がそれじゃあ余りにも可哀想だよ。せめて聞こえてるっていう反応くらいしな」と繰り返し繰り返し指摘するものだから、仕方なく形式的に行っているものだった。最初はそれさえせず、基本的には五条は無反応を貫いていた。

「アンタもただいまくらい言ったらどうなのよ、五条」
「は〜〜〜?
 俺がコイツにどう接しようと歌姫には関係ないでしょ」
「ほんと、なんでこんな天使がアンタみたいなのに一番懐いてるわけ」
「それはむしろ俺が聞きたいくらいだっつーの」

 そんな五条の名前に対するいい加減な態度を見て、歌姫が五条をじとりと睨み苦言を呈す。
 歌姫は名前を甚く気に入っているようで、よく名前に構っていた。その名前が五条に懐いているのが、歌姫はどうにも許せないらしい。名前に対する五条の態度を目にすると、今のように必ず歌姫は五条に突っかかっていた。しかし何度歌姫が注意しようと、五条本人は名前を全くと言っていいほど気にかけようとしなかった。

 高専内の寮で暮らし始めてから、五条が任務から帰れば、名前は必ず出迎えて五条に「おかえりなさい」を言った。(これは五条以外の高専の生徒に対してもそうだったが。)また、五条がその場にいるだけで破顔させ、五条の一挙一動を目をきらきらと輝かせながら見守るなんてこともしょっちゅうだった。五条にどんなに冷たくあしらわれても、名前の中で五条が一等特別だという位置づけは変わりないようだった。
 だが五条の負担にはなりたくないのか、名前が五条にすることといえばそれくらいだった。だから五条も視線がうるさいんだよと思うことはあっても、名前のことを本気で邪魔だと感じたことは無い。名前がする行動を、五条は勝手にやらしときゃいいぐらいに捉えていた。

「歌姫ちゃん……、悟くんのこと怒らないで」

 五条は歌姫の言うことなどさして気にしていなかったが、歌姫が一方的に五条に敵意を剥き出しにしているのを見て、名前は子供心に何か思うところがあったのだろう。歌姫を心配そうに見上げながら、名前はおずおずと言った。

「怒ってないわ。
 ただちょっと注意しただけよ」
「よかったぁ。
 勘違いしちゃってごめんね、歌姫ちゃん」
「もう。なんでアンタはそんなに可愛いのよ」

 歌姫の言葉に安堵したのか、へにゃりと柔らかい笑顔を作った名前に、歌姫は途端メロメロになり名前に抱きつく。
 名前は明るく、とても素直で純粋な子供だった。そんな名前を、五条以外の高専の生徒はよく可愛がっていた。世話好きな夏油や歌姫はもとより、五条と同じく子供があまり得意ではない硝子でさえ、年が離れた妹ができたようだと気を許していた。
 名前は呪霊を視認できるだけで、反転術式の使い手である硝子のように任務での負傷を治すことはできない。しかし、名前が持つ清らかで柔らかな空気は、人間の負の感情から生まれた呪いと戦う呪術師の心を不思議な程に癒した。


 歌姫と名前をよそ目に、五条はさっさと自室に行こうと試みる。しかし、歌姫とじゃれつく名前をいやに優しい目で見つめる夏油がこの場から離れそうにない。五条は眉根を寄せ、苛つきを隠しもせず夏油に申し立てた。

「傑、この前発売したマリカ、帰ったら通信して対戦しよーって言っただろ。
 まさか忘れてるわけじゃねぇよね?」
「もちろん忘れてはいないよ。
 名前と遊んだ後でするつもりでいたんだが、それではだめかな?」
「は?
 俺の約束の方が先なんだから、ふつー俺優先だろ」
「大丈夫。すぐに行くよ」
「そう言って約束反故にされたことあんだけど」
「なんだい、悟。
 そんなに私と遊びたいなら、そう言ってくれて構わないよ」
「ヲエー。
 そーいう気持ちわりぃ言い方しないでくれる」

 端正な顔を思いっきり顰め、五条は夏油を睨んでみるが、夏油は五条がわざと見せつける苛立ちを気にする素振りもない。いつもの涼しい顔だ。
 こうなると、夏油に何を言っても無駄なことは五条は過去の経験からわかっている。全然納得はいっていないが、五条は一人で自室に戻り、あまり期待せず夏油が来るのを待つことにした。
 しかし、この場に残ろうとする夏油に五条のもとへ行くように勧めた人物がいた。それは、他でもない名前であった。

「傑くん、私はいいよ?
 だから、悟くんと遊んできて」
「そう?
 名前は小さいのに、とても優しい子だね。感心するな」

 夏油にてくてくと近寄ると、名前は笑顔で夏油に言った。
 名前は他人の感情の機微によく気がつく子供だったが、こと五条のことに関してはそれが顕著であるようだった。

「だって、悟くんは傑くんのこと大好きだもん。
 だから傑くんが遊んでくれないと、きっとすごく淋しいよ」
「ちょっと待て名前。何言ってんの。
 恥ずいこと言ってんじゃねぇよ。別に淋しくなんてないし。
 ただ俺の約束の方が先なのに、それが破られるのがなんかムカつくだけ」
「あれ、大好きってところは否定しないのかい」
「……ウッッッザ!
 マジでそういうところな、傑」
「ふふ。悟くんと傑くん、すごく仲良しで羨ましいな」

 五条は羞恥と気まずさから思わず顔を歪めた。自分の顔に熱が集まっていることがわかっていたので、きっと傍目からも自分が照れていることがわかるような有様だろうと五条は考える。夏油と歌姫の方に目をやれば、果たして予想通り、二人は必死で笑いを堪えていた。おそらく思っていたことをただ素直に言った名前だけは、自らが起こした事態をわかっていないようで、夏油と歌姫とは違い、ただ穏やかににこにこと笑っていたが。


 これ以上その場にいるのがいたたまれなくなり、五条は夏油を残したまま自室へと向かった。
 すると、名前本人に断られてしまっては仕方ないのか、夏油もすぐに五条を追ってきた。よほどさっきの五条の反応が面白かったのか、夏油は未だにニヤニヤと笑っている。そればかりか、隣を歩く五条の顔を覗き込んで、夏油は茶化すように問うた。

「お望み通り私とゲームができることになって満足かな、悟?」
「傑、それ以上その変なノリ続けたらマジでぶっ飛ばすよ」

 しかし夏油と違い、さっきのノリが後を引くことを五条は到底望んでいない。自分の胸の内を思わぬ形で暴露され、五条の不機嫌レベルは最高潮に達していた。そんな五条の様子を見て、夏油は先程のノリを引きずるのはさすがにやめたらしい。
 
「すまない悟。
 少し妬けるなと思ったんだ。
 私や他の学生にも懐いてくれてはいるが、未だに悟はあの子の中で別格みたいだからね」
「あー、こんなことならマジで、傑が助けりゃ良かったよな。
 別になんもしてねぇってゆーか、むしろ冷たくしてんのに、なんでアイツも今だに俺を慕ってんだか」
「その理由については、ちょっと思うところがある」
「……思うところぉ?」

 五条が疑問に思うのも尤もであった。
 普段、五条が名前に対してする反応は、優しいとは到底言えない素っ気ないものだ。だから子供の名前は日に日に五条から離れるだろうと誰もが予想していた。それなのに、名前の五条に対する態度は初めて会った時から変わることがない。むしろ時が経つにつれ、より五条を慕っている風にさえ見えるのだ。

「悟はトラウマ的観点から名前が慕っている理由を話していたけれど、私は少し違うと思う。
 まぁ最終的に行き着く反応は同じだろうけど、トラウマに起因する反応というよりは、刷り込みに似たものなんじゃないかと思ってね」
「刷り込みって、アヒルの子供がどうとかってやつ?」
「そう。
 名前はとっても純粋な子だ。
 だから、初めて見た対象を親と認識してついて歩くアヒルみたいに、命を助けた上、あんな状況から自分を救い出した悟を一心に慕っているんじゃないかな。
 悟がどんな人間であろうと、名前にとっては悟は救世主なんだよ。
 無条件に慕うべき親と同義ですらある」

 だからもう少し優しくしてやったらどうだい、と夏油は五条に提案したが、嫌なこったと五条はその提案を即座に突っぱねた。

「トラウマでも刷り込みでもどっちでもいーけど、マジで貧乏くじだよ。
 俺としては、一日も早くそのよくわかんねぇ暗示が解けて欲しいね。
 まー、先生がもうすぐ学校にも通わせるって言ってたし、好きな男でも出来ればさすがに変わるでしょ」
「貧乏くじって訳でもないんじゃないか。
 考えようによっては、とても浪漫があると私は思うけど」
「なんだよ? その浪漫って」
「私が悟なら、光源氏にでもなった気分だっただろうなと思ってね」
「はぁ? 光源氏ぃ?」

 夏油のいきなりの光源氏発言に、五条はサングラスの奥で大きな目を何度か瞬かせた。もちろん五条も、光源氏が平安時代に紫式部によって書かれた源氏物語の主人公であることくらいは知識として知ってはいる。しかし、昔から国語の授業にあまり興味がない五条には、夏油の意味することがすぐにはわかりかねた。

「ほら、名前はとても愛らしい子供だろう。悟もそうは思わないか」
「あー、ブスじゃないとは思うけどね」
「そうだろう?
 あの子、将来はかなり期待できると私は思うんだ。可愛い子を自分好みの女に育て上げるのはきっと楽しいだろうな。
 私が悟だったら、名前を若紫にしたかもしれない」
「…………」

 平然と言ってのける夏油に、五条は思わず唖然とした。
 若紫が源氏物語の中で光源氏にとってどういう存在だったか、実際のところを五条はよく知らない。だが前後の文脈から、夏油が言わんとすることは五条にも理解出来た。サングラスをかけていてもわかるくらい、五条は整った顔に不快感をあらわにした。

「なんだい悟、変な顔をして」
「わかんねぇ?
 今わりと本気で、オマエに引いてんだけど」
「嫌だな。本気にしたのかい?
 ちょっとした冗談だよ。
 私が好きなタイプ、悟だって知らないわけじゃないだろう?」
「オマエの冗談は冗談に聞こえねぇから怖いんだよ」
「ははっ、大丈夫。
 心配しなくても、名前のことをそんな風には見てはいないよ」
「……見てたまるかってんだよ、あんなガキんちょ」
「ただ、成長するのが楽しみだと思えるくらいには、外見も中身も可愛い子だと思っているのは本当かな」
「ビビったー。
 一瞬マジで傑が変質者だと思った」

 冗談だという夏油の言葉を五条は信じることにした。まぁ傑がそんな変な趣味してる訳ないしと、確かにこの時納得はしたのだ。

 しかし、念のためと「傑とあんま距離近くしない方がいーかもよ」と五条は後で名前に言っておいた。
 五条の行動は、夏油に対する悪ふざけも含んではいたが、名前を多少なりとも心配してのことだった。だが五条の意図は名前にはうまく伝わっていなかった。
 後で名前本人から聞いて知ったことだが、名前は盛大な誤解をしていたのだ。名前は夏油が五条にとって大切な存在だというのを理解していたため、その大切な夏油に近付くなという意味に五条の言葉を捉えていたらしい。

 誤解が解けるまでには少々時間がかかった。それもそのはずだろう。名前に避けられ続けた夏油が凍てついた笑顔をたたえながら「悟、名前になにか言ったかい?」と何度尋ねても、当の五条は名前を心配して言ったことなんて頭からすっかり抜けていて、返答はいつも「は? 言ってないけど」の一辺倒だったのだ。
 ようやく五条が思い出し、「あ、そーいえば傑が若紫にするだのなんだの言った次の日、名前になんか言ったかも。忘れてた」とあっけらかんと言い放ってから三日間、夏油は五条と口を利かなかった。
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