2誓約
[2017年8月(五条27歳/名前20歳)]
「おかえりなさい、悟くん」
「ただいま。
あれ。なんかいいことでもあった?」
「え?」
「顔。すごいゆるゆるになってるからさ」
「それは……、悟くんが帰ってきたから」
「ほんと、オマエは素直だよね。
恵にも見習って欲しいよ」
任務でここ数日不在にしていた悟くんが帰ってきたので、玄関で出迎える。悟くんに指摘されてしまったけれど、久しぶりに悟くんに会えたんだから、顔が緩んでしまうのも仕方がないことだ。
夕方にはマンションに到着しそうだと、悟くんは事前に連絡をくれた。だから今日の夕飯は悟くんの好きなものばかりを作った。喜んでもらえるといいな。
「とりあえずしとこうか?
今回は、名前が泣きべそかくほど長期任務じゃなかったけど」
「泣きべそって……」
「いやー、“ギューってして離さないで”なんて言葉が、まさかオマエの口から出るとはね」
「そ、そこまでは言ってないよっ……!」
悟くんの発言は、事実半分、悟くんの冗談半分だった。
こんな風に、悟くんは帰ったらまず、私に尋ねるようになった。
これには思い当たる節がある。
少し前のことだ。私は寂しさのあまり、悟くんが帰ってくるなり、抱きついてもいいか聞いてしまった。一週間以上任務で悟くんがいなくて、淋しくて淋しくて、どうしても堪えることが出来なかった。
恥ずかしくない訳じゃなかった。
けれど悟くんに振られてから得た“ハグできる権利”の使用を重ねる内に、当初に比べれば、私の羞恥度合いもマシになっていた。それに、この時は羞恥心より、悟くんに触りたいっていう気持ちが勝っていた。以前から寂しがり屋だったという自覚はあったけど、最近はそれがもっと酷くなった気がする。多分その理由は、求めれば、悟くんに抱き締めてもらえる贅沢を知ってしまったから。日常的に好きな人の体温を感じられるようになって、前なら耐えられた寂しさにも、私は耐えられなくなってしまっていた。
私が「ぎゅってしてもいい?」と言ったら、悟くんは目を見開いていたから、多少びっくりしてはいたんだと思う。でも最後は今みたいに笑って、からかいながらも悟くんはお願いを聞いてくれた。
ハグくらいなら回数制限も特に無しで構わないと、悟くんは言った。
けれど、悟くんがいる日は毎日頼むというのは考えていなかった。私にだって、自制心くらいある。それなのになんだかんだで、悟くんがいる時は欠かさず、この権利を使ってしまっている。原因ははっきりしている。悟くんに「今日はしなくていいの?」と聞かれたりすると、つい甘えてしまうのがいけないんだ。悟くんに関する事柄には、いつだって私は我慢が出来ない。
「あ、あの……、任務帰りで疲れてないの?
もちろん嬉しいけど、私は今じゃなくても大丈夫だよ。
悟くんの良きタイミングで……」
「ウケる。良きタイミングってなんだよ。
寂しんぼのオマエは、遠慮なんかしなくていいの」
「わわっ。ちょ、ちょっと待って。
心の準備が」
「ダメ。もう一秒も待てない。
今回は数が多くてさ。僕が最強とはいえ、さすがにしんどかったよ」
「やっぱり疲れてる……!
つ、疲れてるなら、無理しないで。悟くんにはゆっくり休んで欲しいし……」
「ちょっと黙ってて名前。今充電してるから」
「充電の使い方、悟くんは間違えてるよ」
「間違えてないよ?
オマエには昔から癒されてるし」
私の制止の声も聞かず、背の高い悟くんが私に覆い被さるような格好になる。悟くんの背中に腕を回してきゅっと力を入れると、悟くんも抱きしめ返してくれる。振られたのに、悟くんにこうやって抱き締めてもらえる幸せを味わえるなんて、思ってもみなかった。
振られた翌日にも感じたことではあったけれど、悟くんが私に接する距離感は、むしろ振られた後の方が近くなっていた。
改めて告白するまでは気付かなかったけど、今まで悟くんは、私との間に一線を引いていたんだと思う。
“私とは付き合えない”ことを表明したことで、もしかしたら悟くんは、もうそれをする必要がないと判断したのかもしれない。
昔、硝子ちゃんが言っていた。悟くんは気を許した人との距離が近いって。だから今の悟くんは、本来のコミニュケーションの取り方をしているだけなんだと思う。あと、10年以上一緒にいて、私が懲りずに好きだと言い続けたからか、悟くんもさすがに情が沸いてしまったんだ。
「か、彼女は大丈夫なの?」
「何言ってんの?
今僕に彼女いないの、名前も知ってるでしょ」
「し、知ってたけど、悟くんはすぐ、新しい彼女がポンポンできるから……。
もしかしたらいる可能性もあるのかなと思って」
「ポンポンってなんだよ。
オマエまで僕のことなんだと思ってんの?
っていうか、彼女は当分いーや。
名前が泣くの見たくないし」
「……振ったからって、そんなに気遣わなくてもいいよ?」
「じゃあ聞くけど、名前は僕が彼女作っても平気なの?」
「それは……、すごくショックを受けるだろうけど……」
「でしょ。ならそんなこと言わないの」
悟くんを見上げて聞いた私に、甘い笑顔で答えると、悟くんは頭を撫でてくれた。
私は悟くんを諦めなきゃいけないのに。悟くんがずっと優しいから、私の“好き”は雪のように降り積もるばかりだった。
そもそも振られているんだから、悟くんの態度は特別なんかじゃない。何度も何度も、自分にそう言い聞かせている。また勘違いをして、ばかな期待を募らせてしまわないように。
◆
「あ。悟くんが任務行ってない間にね、お手紙届いてたよ。
テーブルに置いといた」
「そ。ありがと」
悟くんは目元にまかれていた包帯をしゅるしゅると解きながら、テーブルの上の悟くん宛の手紙を手に取る。もう4回か5回くらい、同じような手紙が定期的に送られてきていた。A4の茶封筒の中身はわからないけれど、差出人はいつも同じで、その人の名前を私も覚えてしまっている。
悟くんは、手に取った封筒をほんの少しの間眺めていた。裏面も見ていたようだから、おそらく差出人が誰かまでは確認したのだと思う。これから封を開けるのかと思ったから、ハサミが要るか聞こうとした。でも私が、悟くんにそう問うことは無かった。悟くんが中身も見ずに、その封筒をごみ箱に突っ込んだからだ。
「えっ、捨てちゃうの?」
「うん。だって見る必要ないもん」
「その人、前にもお手紙送って来てるよね?」
「そうなんだよ。
ほんと、何回言っても送ってくるからウザいんだよね」
悟くんが必要ないというんだから、必要ないんだろう。だからごみ箱に直行した封筒の中身が気にはなっても、悟くんにそれ以上聞くつもりはなかった。けれど、心の内が顔に出てしまったらしい。
「どうしたの?」
「あ、ううん。なんでもないよ」
「なんでもないって顔してないだろ。
なんか気になることあんなら言いなよ」
「ただ……、中身見なくていいのかなって、ちょっとだけ思っただけ」
「まぁ見てもいいんだけどさ。
中身はどうせ、見合い写真ってわかりきってるからなぁ。
最近、親とか家の連中がそろそろ結婚しろってうるさいんだよね」
「結婚……」
悟くんの口から、まさか結婚という単語が発せられるなんて思わなかった。目の前が真っ暗になるような感覚がして、心臓がどくどくと嫌な音をたて始める。
悟くんの生まれたお家は、呪術界で名門と言われている御三家の一つだという。そのお家の当主という悟くんの立場を考えたら、結婚の話が出るのは何にも不思議なことじゃない。悟くんが私じゃない誰かと、結婚する。それを想像するだけで、涙が出てきそうになってしまった。だから慌てて、自分の頭の中に浮かんできたイメージを消した。
悟くんに選んでもらえる人は、一体どれだけ素敵な女の人なんだろう。
「──大丈夫、結婚なんてしないよ。
いつかはしなくちゃいけないんだろうけどね。
当分はしないよ」
「そ、そっか」
動揺する私を知ってか知らずか、すぐに結婚することはないと、悟くんは微笑みながら言ってくれた。悟くんの幸せを考えたら、“よかった”なんて思っちゃいけないのに、悟くんの発言に私は胸を撫で下ろす。
「わかってるとは思うけど、僕が結婚しようがしまいが、オマエは今までと変わらずに、僕と一緒に居てくれていいんだからね?」
「え……」
「え、ってなに?」
「だって、どういう意味かと思って」
「どういう意味って、そのまんまだけど。
前に、僕とはずっと一緒にいるってオマエも言ったじゃん。
なに? まさか覚えてない?」
「ちゃんと覚えてるよ。忘れるわけない」
「そういえば、ずっと聞きたかったんだけどさ、名前は大学卒業したら、なんかやりたい仕事とかあるの?
それか、もうちょっと勉強したい?
大学院行きたいなら、そう言ってくれていいんだよ」
勉強は割と好きな方だけど、大学院に行くつもりはなかった。
かと言って、勉強以外に特に秀でた才能は無いし、これといってしたい仕事はなかった。ただいつまでも悟くんに迷惑はかけられないから、ひとり立ちするために、就職はしなきゃと思っていた。
「働かないととは思ってるけど、やりたい仕事とかはまだ決まってなくて……。
でも、将来のことは真面目に考えないとって思ってるよ」
「ふぅん、そうなんだ。
名前に提案なんだけど、特にしたい仕事がないんならさ、僕専属の女中になるのはどう?」
「女中?」
「あー、いきなり女中とか言われても困るか。
しばらくはこうして2人で暮らして行けるだろうけどさ、ずっとこのまんまって訳にはいかないと思うんだよ。
その時になんの肩書きもないってのはね。従者にすれば堂々と傍に置いとけるしさ。
あ、女中と言っても、そんな特別なことしなくていいよ。オマエがしなきゃいけないことはあんまり無いようにするから」
「なんで?
悟くんがそこまでする義理ないよ」
振られた翌日に、確かにこれからも一緒にいると約束した。でもそれは、私が就職して一人暮らしを始めてからも時間を作って時々会ってくれるとか、そういうことだと思っていた。
私の通っていた高校は進学校だった。でも高校を卒業したらすぐに働くという選択肢だって0ではなかったのに、最終的に大学進学を決めたのは、悟くんの傍に少しでも長くいたかったから。でも学生の身分でなくなったら、悟くんと暮らすマンションはさすがに出ていかなければならない。いくら私がそうしたくても、身勝手な片思いを理由に、いつまでも悟くんの傍にはいられない。
「だって、一緒にいるって約束したじゃん。
これ僕、さっきも言ったよね?」
「ダメだよ、そんなの」
「なんでダメなの?」
「だって……、いつまでも悟くんに甘えていられないよ」
「問題ないよ。僕がいいって言ってんだから」
「でも」
戸惑う私を、悟くんは不思議そうに見た。悟くんの顔を見てみても、私がダメだという理由が、悟くんには全くわからないみたいだった。
「名前が嫌って言うんならいいけど」
「嫌じゃないよ!
嫌なわけない……」
「なら決定ね」
振られたのに、これからも悟くんの一番近くにいられるなんて、夢みたいな話だった。
悟くんがいいと言うなら、悟くんから与えられるものを私は拒めない。悟くんがくれるものなら、なんだって嬉しいからだ。
信じられない幸福に包まれながら、だけど一個だけ、私は不安だった。
もし本気で好きだと思う人ができても、悟くんは、約束を破らないでいてくれる?